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【地方移住Z世代の手記 #2】私達の暗い未来に重なる追いやられたカエルとキジの行方

数年前に今まで住んだことのない小規模な街に引っ越した。自然がまだ残るが、不便でもないような場所だ。街のいたるところで開発が進み、◯ャーメゾンや大◯建託などのアパートが立ってきている。
そんな変わりゆく景色の中で、何の希少性もないが、彼らが生きていたことを何となく書き留めておきたいと思った。忘れないうちに私が感性を奮い立たせられた生き物達のことをここに残しておこうと思う。

いつもの道、いなくなったカエル達

よく使っていた道があった。決して大きくないが(普通車がかろうじて1台通れるぐらい)、こじんまりとしている住宅街の細道で、古い住宅から新しい住宅までがごちゃ混ぜに隣接している。大きなツツジの木を植えているお庭のある家や、白亜の眩しいコンクリート製の雑草に困らない駐車場付きの家まで、バリエーション豊かな家が立ち並ぶ。途中で片側には田畑と水田があり、季節によって美しい生命の営みを目撃することができる。それは、田舎によくあるありふれた小道だった。
この道は街の旧市街と私の住む住宅街とを結ぶ大きくカーブした道で、静かさと景色、適度に自然を感じられることが私のお気に入りで、月に何回かは通っていた。

特に大好きだった、夏のカエル達の挙動

家方面からの小道の入り口には1区画だけ水田になっている場所があり、少し勾配のある水田の畦道が小道沿いだった。夏の夜になるとカエルが、それはもうたくさんのカエル達が大合唱していた。

ある時調べたところ、そのカエルはどうやら「ニホンアマガエル」という名前で、体調は約2cmほどらしい。河原に住んでいると思いがちだが実は樹上生活に適応していて、意外とどこにでもいるようだ。私は彼らの姿を目撃したことはなかったが、あらゆる特徴を踏まえてこの種のカエルだと予想した。よく聞くあの「グワッグワッグワッ」という鳴き声は、メスを呼び寄せるための”良い声合戦”だ。

この小道にいる「ニホンアマガエル軍」だが、挙動が本当に面白い。私が小道の入り口に差し掛かり、さあいざ小道に入った瞬間に一斉にシンと静まるのだ。本当に、まるで時間が止まったかのような押し黙り方。
そして私が途中で歩みを止めても”沈黙”は守られる。
まるでさっきまでの大合唱が嘘かのようだ!

ゆっくり歩いたり、早歩きしたり、止まってみたり。
彼らを騙すために工夫を凝らしながら水田の畦道を通っていくが沈黙は守られていた。
そして畦道を通り終わった瞬間

「……グワッグワッグワッグワッグワッ!!!」

「ニホンアマガエル軍」の合唱が途端に再開した!
あいつら私が前を通っているとき、何十、何百匹もずーっと聞き耳を立てていて、いなくなったと思った途端にまたけたたましく鳴き始めたのだ!

私にはこれがもうおかしくってたまらない。おそらく天敵から身を守るために集団で鳴いて、個別に鳴かないようにしているのだろうが、
カエル達があんなにたくさんいて、これだげ統率をとりながら生命のための合唱を披露し、私のような狡猾な人間に騙されることなくやり遂げたことが何とも言えない達成感を私に与えた。それと同時にカエル達の緊張を考えると、こっちは少し笑いたくなってしまうのだ。

だけど彼らの合唱を聞くことは、もうできなくなってしまった。

水田がアパートになって消えた緑とカエル達

おそらく水田のオーナーが高齢だったのだろう。作業をしているお爺さんを見たことがある。土地の活用が難しくなったのか、アパートが建つことが決まった看板をある日目にした。

それからはあっという間にコンクリートが流し込まれ、アパートがたち、緑は跡形もなく消え去った。

毎年夏、夜の涼しい日にあの道を通るたびに思いだす。
今はただ、道を通っても、沈黙と自分の足音が聞こえるだけだ。

住宅街の一角の畑を闊歩する、美しい雄キジ

あれだけ大きな身体を優雅に揺らしながら、リラックスする美しいキジを今まで見たことがない。

私の家は一軒家で、駅から10分の住宅街にある。この街はそこまで住宅がギリギリとひしめき合っているわけでも、理路整然と並んでいるわけでもなく、昔から自分たちの分の作物を育てる分だけの畑をやっているような家も多い。

私の家のベランダから見えるのは、我が家の車も止めている10台分くらいの駐車場。そしてその奥テニスコート2面分くらいに広がる畑と耕作放棄地だ。

この耕作放棄地に以前から美しいキジを見かけることがあった。

初めて見つけたのは私ではなく、一昨年亡くなった私の母だった。
彼女は末期癌を患っていて、家でゆっくりと過ごしていた。駐車場の奥に広がる緑を毎朝眺めていた。
ある朝だった。

「見て!大きな綺麗なキジがいるのよ!びっくり!」

母が驚いたように叫んだ。私は仕事に行く前で、そして何より「こんな住宅地にそんな大きなキジがいるわけない」と思い、冗談半分で流して聞いてしまった。

母は昨年亡くなった。
しばらくしたころだった。

私は車から降りて駐車場から家に向かおうとしていた。その時、視界の端に大きな塊をとらえた。立ち止まり、よく見た。

そこには確かに美しいキジがいた。

仕事に追われて、命の火が消えゆく母の言葉を受け止めなかった後悔。
こんな住宅街の自然の豊かとは言えない場所で眩しいくらいに美しく、まさに”生き抜いている”と言えるキジ。

本当に生きているのは母の方だったんだと、今更ながらに思う。
そして私よりも立派に生きているのはキジの方なんだろう。

追いやられるキジ

最近、その耕作放棄地を取り囲むようにコンクリートの塀が設置された。おそらく今後、また住宅や、アパートになるのではないかと思っている。

今やコンクリートの中にある唯一のオアシスである自然が、またしても消えようとしている。

いつそうなるかはわからない。
私がキジに何をしてやれるか、少し調べてみたが、さっぱりわからなかった。

生きるということ

どうしても普段見逃しがちなことだと思う。
本当に私たちは生きているのか?

生きるということを心臓が脈打つことと定義すると、植物人間であっても生きていると言える。

ただ、もし、私たちが、周りにある小さな感動を心に染み込ませ、画面の外にある自然や世界に思いを馳せ、自分以外の生きる全てのものに意識を向け…自分という存在の輪郭を限りなく無くしていったら…

私はカエル達とキジの両方の存在から、あらゆることに思いを馳せることができた。

彼らの生き方、これから生きていく世界。なくなっていくもの、破壊されるもの、取り戻せないもの、修復できないもの。
人間の行いで許される範囲はどこまでなのか、誤った場合は誰が裁くのか…。

最近非常にどハマりしている映画「DUNE 砂の惑星」の中の一説に非常に印象的な言葉がある。この言葉を私の一連の体験のまとめとしよう。

生命の神秘は解き明かすべき問題ではない。
経験すべき現実である。

デューン 砂の惑星〔新訳版〕 (上) (ハヤカワ文庫SF)


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