037:「建築のインターフェイス」を考え始める

「建築のインターフェイス」というシンポジウムに登壇するために,以前,MASSAGEの連載「モノとディスプレイとの重なり」で書いたテキストを読んでいて,考えたのが上のツイートとなっている.

ヒトとコンピュータとのインターフェイスは,記号とモノとの交錯が起こる場所と考えるのが妥当だと思う.そして,記号をメタファーによって単純にモノ化するのではなく,記号をモノのように扱っていこうという流れが,GoogleのマテリアルデザインやAppleのFluid Interfaceにはあると思う.

記号をモノのように扱い始めると,それは「インターフェイス」というよりも「サーフェイス」としてモノの一部であるように考えているのが,近頃の私の連載「サーフェイスから透かし見る👓👀🤳」になるだろう.ここではインターフェイスの向こう側に記号の存在や空間があるのではなくて,私たちはモノのサーフェイスに触れていて,その先には「バルク」があると考えている.「バルク」というのは「内部」という意味で,サーフェイスから一続きに内部を考えようということを意味している.つまり,「サーフェイス」と「バルク」という言葉で,これまで「インターフェイス」という言葉で分けられてきたヒトとコンピュータ,モノと記号とを一続きにして,インターフェイスをソフトウェアとハードウェアとが一つになったあたらしい「モノ」として考えようとしている.

でも,今回のお題は「建築のインターフェイス」であるから,インターフェイスに留まる必要がある.

ヒトとコンピュータとのインターフェイスがモノと記号とのあいだを行き来するものだとすると,建築のインターフェイスはモノと空間とのあいだを行き来するものであろうか.「インターフェイス」という言葉は,ふたつの存在や現象を行き来させて考えるものだと思う.私はそこからモノの方へ振り切れた考えを試している.それは,「プログラム」という記号できていることを知っていながら,そのことを括弧に入れて考えてしまおうということだと思う.開発者たちは文字通り記号をモノのように扱っているので,私たちとは立脚点がちがう感じがする.と,また,自分の「サーフェイス」に戻ってしまった.

インターフェイスはモノの文脈,記号の文脈という複数の文脈を持って,それぞれで安定した存在として捉えることもできる.「複数安定性」という言葉がある.『技術の道徳化』のなかで,ピーター・ポール・フェルベークは次のように書いている.

ただ,その志向性は,その人工物に固有の性質というわけではない.人工物は,人間が人工物と結ぶ関係のなかで,その志向性を獲得するのである.関係性が変われば,その人工物の「アイデンティティ」も変化する.例えば,電話やタイプライターは,元々は通信や筆記のための技術として開発されたわけではなく,耳や目が不自由な人が聞いたり書いたりするための装置として開発されたものである.しかしそれらは,使用の文脈のなかで,まったく違ったかたちで解釈されることになった.アイディはこのような現象を,技術の複数安定性 multistability と呼ぶ.一つの技術は,使用の文脈に導入される仕方によって,様々に異なる「安定状態」を持つ可能性があるということだ.そして,技術的志向性は常に,ある特定の安定状態が実現することによって決まるのである.pp.18-19

インターフェイスというのは,技術の複数安定性と大きく関わっている感じがする.モノとしての文脈と記号としての文脈がそれぞれ安定してあり,それぞれが交錯している.そして,いきなりだが,建築というのは,技術を用いて「空間の複数安定性」をつくりだすインターフェイスとして機能するものなのではないだろうか,というのが,いまの私にとっての「建築のインターフェイス」なのであるが,まだまだ考え始めである.





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