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4歳の私が家出した話



エムコは激怒した。
かの邪智暴虐の母から逃げねばならぬと決意した。

初めて家出をした時の事はよく覚えている。
あれは私が4歳の時だった。確か母と揉めて、彼女という存在にほとほと愛想が尽きた私は「この人とはもうやって行けない」と悟ったのだろう。これ程馬が合わないのならやむなし。この家は譲り、私が身を引こうじゃないかと、愛する祖父母宅に行くことを決意した。

祖父母の家まで車で40分かかるかかからないか。子どもながらに歩いてだと1日ではたどり着けない事を理解していた。道中いくつか高速道路の下を通るからそこで野宿をしよう。固いコンクリートの上では眠れないから布団が欲しい所だが、そんな重いものは自力では持っていけない。私は床に敷く用と自分にかける用でバスタオルを2枚、箪笥からくすねてきた。

幼稚園の遠足用に買ってもらった赤いキティちゃんのリュックサックに下着や着替えを詰める。小さなリュックは着替えを詰めただけでパンパンになり、キティの非力さを思い知った。このままの装備ではバスタオルを持ち歩く事は困難である。


私の家には通いでお手伝いさんが来ていた。
彼女はカルピスの原液と水を完璧に調合できる上に話のわかる柔軟な人だったので、私は絶対的な信頼を寄せていた。そんな彼女を見込んで、私はこの一世一代の大計画を打ち明ける事にした。

「私は家出をする、もうここには帰って来ない。準備のために食料と長い紐が必要だ、どうにか工面してくれないだろうか」

お手伝いさんは驚いていたものの非常に協力的で、レーズンの入ったパンのラスクとケーキのラッピングに使われていた長いリボンを私にくれた。これ以上ない物資の提供に、子どもながらに彼女の有能さを痛感した。

私はバスタオルを海苔巻きのように丸め、先程もらったケーキのリボンでリュックの上にくくりつけた。いつも行きたくなくて泣いて暴れているガールスカウトのサバイバルなノウハウがここで生かされるとは全くもって皮肉な話である。
手先は器用な方だったので難なくこなせた。いや、これから1人で長い旅路をゆくのだ、これくらい出来なくてどうする。

私がせっせと自立に向け身支度を整えている所に、1歳年上の姉がやってきた。妹が荷物をとっちらかし、滅多に使わないリュックサックであれやこれやをしている様子を物珍しそうに眺めながら彼女は言った。

「エムコ何やっとるん」

「家出する、ここにはもう居られん」

姉は私の発言に腹を抱えてゲラゲラと笑った。
冷やかしなら帰ってくれ、と思いながら私は手を動かし続けた。姉はひとしきり笑った後言った。

「家から出て行くのはいいけど、マリーちゃんはどうするつもりなん」

姉の発言に手が止まる。
マリーちゃんとは私が可愛がっているペットのハムスター。この家で私の唯一の理解者であり、友であり、家族だった。
彼女を1人ここに残すわけにはいかない。

「マリーちゃんも連れてく」

「どうやって連れて行くん、リュックなんかに入れたら死んでしまうぞ」

私は4年の歳月で培った脳味噌をフル回転させ、マリーちゃんを寝所のちいさな箱に入れ両手に抱えて行くことを決意した。これなら通気性も良く振動を最小限に抑えられる上に彼女の様子をつぶさに見守る事ができる。

ほっと安心したのも束の間、ここでまた問題が発生する。
マリーちゃんを連れて行くと言う事は、彼女のご飯やお世話グッズも持っていかなければならないと言う事だ。自分1人で文字通り手一杯だというのに、これはとんだ誤算だった。すでにリュックはパンパンで、キティからももう無理だと釘を刺されている。

私は試行錯誤の上、マリーちゃんに必要なあれこれをビニール袋に入れ、リボンで肩紐に括り付けた。


天才だ。

私は何でもできるじゃないか、心からそう思った。
思わずアニメで見た「母を訪ねて三千里」と自分を重ねた。母を訪ねるマルコと母から逃げる私では目的が真逆だが、ペットを連れた子どもの1人の旅という点では同じと言って良い。私の場合は「祖父母を訪ねて20キロ」という所だろう。マルコは割と散々な目にあってかわいそうだったが、私はそんな馬鹿な女ではない。悪い大人に騙されるものか。

こうして準備は整った。
私の旅立ちをニヤニヤと見守る姉をよそに、私は靴を履いてリュックを背負い、マリーちゃんの巣箱を両手に抱えて玄関を出た。歩くたびに肩紐に結びつけたマリーちゃんのお世話グッズがガシャガシャとうるさい音を立てるが、重さはなんとか耐える事ができそうだった。

振り返り、4年住んだ家を見上げる。
短い付き合いだったが世話になった。私はこれから祖父母の家で生きていく。

『達者でな』そう心の中で呟き歩き始めた。

顔を上げると、見慣れた外の風景が今まで見た事がないほど明るく、キラキラと輝いて見えた。空も木も、コンクリートの道さえも、海外の絵本のような鮮やかな色彩に染まり、なんて美しいのだろうと見惚れてしまった。

胸躍るまま10メートルほど歩いただろうか、最初の角が見えてきた。
私はここで重大な問題に気がつき足を止めた。

祖父母の家までの道が分からない。

盲点も盲点だ。
いつも車で行くから歩いて行く方向が分からない。頻繁に赴く祖父母の家までの道のりも、車道と歩道では見える景色が全く違うので別世界のような気がした。

私は振り返り、姉に向かって

「おばあちゃんの家ってどうやって行くん?」

と尋ねた。
姉は私の言葉を聞くなり、その日1番大きな声をあげて笑った。馬鹿な私も、馬鹿にされている事くらいは分かる。これだけ完璧な準備をしたのに最後の最後で躓いてしまうなんて想像してもいなかった。悔しさで涙が滲む。


「エムコ、お前何やっとるんや」


仕事を終えて家に帰ってきた父が、玄関の前で騒々しい娘たちの様子を見て呆然として言った。

「家出する」

私が父に報告すると父は

「何を言いよるんや、このばかたれが。さっさと帰りなさい」

と私の頭をパシンとはたいて家に連れ帰った。

祖父母を訪ねて20キロどころか、姉に道を尋ねて10メートルである。私の初めての家出はこうして呆気なく幕を閉じた。私はひとしきり泣いた後、いつものつまらない日常に帰って行った。


家出は失敗に終わってしまったが、あの時自分の足で家を出た瞬間に見たキラキラの輝きを、私はこれからも忘れることができないだろう。

断言してもいい。
あれは紛れもなく、幼い私が初めて手に入れた
自由の放つ輝きだったのだ。

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