NPB両チーム最多得失点での引き分けは?


昨日4月1日、横浜スタジアムで行われたヤクルトスワローズ対DeNAベイスターズ戦は、エイプリルフールにふさわしい(?)試合となった。

画像4

【投手-捕手】
ヤクルト:山野太一、今野龍太、吉田大喜、近藤弘樹、大下佑馬、マクガフ(H)、坂本光士郎(H)、石山泰稚-中村悠平
DeNA:上茶谷大河、国吉佑樹、伊勢大夢、石田健大、平田真吾、山崎康晃(H)、三嶋一輝-山本祐大

【本塁打】
ヤクルト:山田哲人2号(3ラン)
DeNA:なし

ヤクルトの先発は、2020年ドラフト2位ルーキーの山野太一、一方のDeNAの先発は上茶谷大河。両投手とも立ち上がりから乱調となった。
上茶谷は2回に中村悠平のタイムリー、そして山田哲人に3ランを浴び、5失点。
一方の山野は3点の援護をもらったその2回裏、一死満塁のピンチを招き、関根大気のタイムリー、そして同じルーキーの牧秀悟に走者一掃のタイムリー二塁打を浴び、5-6と逆転を許したところで無念の交代となった。プロ初登板・初先発は2回途中、7失点KO。代わった2番手の今野龍太も、宮崎敏郎、大和にタイムリーを浴びて、5-9。
一方の上茶谷も2回5失点でマウンドを降りた。ヤクルトは3回、西浦直亨の犠牲フライで6-9と追い上げるが、DeNAは4回に大和、倉本のタイムリーでさらに2点を追加、6-11と引き離す。
DeNAが4回を終えて、5点リードしたところで、チーム今季初勝利、三浦大輔・新監督にも初勝利がもたらされるかと思いきや、すんなり終わらなかった。
ヤクルトは5回に西浦直亨のタイムリーで1点を返して7-11、そして、7回には、渡邉大樹、山崎晃太朗、中村悠平の三者連続タイムリーが飛び出し、4点を奪ってついに11-11の同点に追いついた。
その後、試合は膠着状態となり、DeNAの負けがなくなった9回裏、一死一塁で、今日、3安打・3打点の新人・牧秀悟に打席が廻り、本塁打が出れば、サヨナラ、かつNPB新人初のサイクル安打という快挙だったが、ヤクルトのクローザー・石山泰稚の前に空振り三振。結局、4時間20分の熱戦は11-11の引き分けに終わった。DeNAの今季初勝利、三浦大輔監督の初勝利はまたも持ち越しとなった。

この試合はヤクルトが13安打、DeNAが15安打を放ち、両軍が投入した投手も、ヤクルトが8人、DeNAが7人とまさに総力戦となった。

DeNAの最多得点引き分け試合は?

DeNAは昨年2020年9月4日、マツダスタジアムでの広島カープ戦で、12-12の引き分けという試合を経験している。両チーム12得点以上の引き分けはNPBで6度目という、珍しいものとなった。

画像3

【投手】
・DeNA:井納翔一、伊勢大夢、平田真吾、山崎康晃、石田健大、三嶋一輝、エスコバー
・広島:森下暢仁、中田廉、菊池保則、薮田和樹、ケムナ誠、島内颯太郎、塹江敦哉、フランスア

【本塁打】
・DeNA:ソト10号
・広島:なし

この日はDeNAの先発が井納翔一、広島先発が新人の森下暢仁であった。森下は新人ながら9試合に先発して5勝(2敗)を挙げ、新人王を争っていたが、対DeNA戦ではプロ初登板となった6月21日の試合(横浜スタジアム)で7回を無失点に抑えながら、リリーフが打たれて勝ちを逃し、対DeNA戦2度目の登板となった7月9日(マツダスタジアム)も、5回2失点と好投しながら、負け投手となっており、まだ勝ち星がなかった。
この日もDeNAは森下を攻め、エラーがらみもあり3回に一挙、5点を奪って、森下は自己最短の3回でKOされた。
だが、DeNAの先発・井納もこの5点のリードを守れず、広島はすぐさま5-5に追いついて、森下の負けを消した。その後、DeNAはソトのホームランなどで8-5と再び勝ち越し、7回表を終えて、9-5とリードしたが、ここから広島が粘りを見せた。7回裏に3点を奪って9-8とすると、今度はDeNAが8回表に3点を入れて、12-9と突き放した。
しかし、広島は8回に2点を取って、12-10、そして9回、回跨ぎの三嶋を攻めて、2死から菊池涼介が同点タイムリーを放って、ついに同点に追いついた。
広島は16安打、DeNAは17安打を放ったが、本塁打はソトの一発だけだった。投手陣も広島が8人、DeNAも7人を継ぎ込んだ。試合は22時47分に終了し、試合時間は4時間47分、翌日は土曜日で、およそ13時間後、14時試合開始のデイゲームであった。

ヤクルトの最多得点引き分け試合は?

一方、ヤクルトが10得点以上を取って引き分けるのは、昨年2020年9月9日、広島戦(マツダスタジアム)以来であった。
さらに、ヤクルトが11得点以上を取って引き分けるのは、2003年8月10日、対巨人戦(東京ドーム)以来である。

画像2


【投手ー捕手】
・ヤクルト:館山昌平、山部太、五十嵐亮太、石井弘寿、河端龍、坂元弥太郎、佐藤秀樹、山本樹-古田敦也
・巨人:木佐貫洋、河本育之、岡島秀樹、久保裕也、前田幸長、サンタナ、ベイリー、鴨志田-阿部慎之助
【本塁打】
・ヤクルト:土橋勝征6号、佐藤真一4号
・巨人:レイサム2号、3号、阿部慎之助14号、15号

この日、ヤクルトの先発は、前年2002年ドラフト3位の大卒ルーキー、館山昌平で、プロ初先発だった。館山は7月20日の中日戦(札幌ドーム)でプロ初登板を果たしており、この日がプロ2試合目の登板となった。
ヤクルトは3回までに5-0とリードして、館山を援護したが、ここから巨人打線がじわじわと館山を攻め、勝利投手の権利目前の5回についに1点差に迫られ、館山はここでマウンドを2番手の山部太に譲った。
ヤクルトは7回に3番手として五十嵐亮太がマウンドに上がったが、阿部慎之助にこの日2本目となる一発を浴びて逆転を許し、代わって登板した石井弘寿もレイサムにこの日2本目の本塁打を食らい、巨人がこの回一挙、6点を奪って7-11と勝ち越した。しかし、ここからヤクルトが粘りを見せ、8回に3点を取って、10-11と追い上げ、そして9回表に巨人のクローザー・サンタナから、代打・佐藤真一がソロホームランを打ち、再び11-11に追いついた。その後、延長に突入したが、両チーム無得点で引き分けた。

なお、面白いことに、この試合を戦ったヤクルト、巨人の両チームはこのシーズン、71勝66敗で並び、3位タイとなった。もし、この試合、どちらかが勝っていたら、勝ったほうが単独のAクラスだったということになる。巨人の原辰徳監督は就任2年目であったが、阪神に18年ぶりのリーグ優勝を許し、リーグ2連覇を逃した責任を取って辞任した。
また、館山はその後、先発ローテーションに入り、この日を含めて9試合に先発登板したが、好投した試合でも勝ち星に恵まれず、0勝3敗、防御率5.19でルーキーシーズンを終えた。

なお、この試合で、巨人の川相昌弘が五回裏無死一、二塁の場面で犠打を決め、メジャー・リーグ記録と並ぶ通算511犠打をマークした。

ヤクルトが11-11で引き分けた試合、共に大卒ルーキーが初先発していたのは、歴史の符合である。館山はその後、ヤクルトの投手陣を支えるまでに成長したが、山野太一も偉大な先輩の後を追うことができるか期待だ。

NPB最多得点引き分け試合は?

では、NPBで最多得点での引き分けはどんな試合だったのだろうか。

1953年3月21日の平和台球場で行われた近鉄パールズ対西鉄ライオンズ、ダブルヘッダー第2試合である。

画像1

この日は、パシフィック・リーグのシーズン開幕戦で、しかも、前年3位の西鉄の本拠地である平和台球場では、最下位(7位)の近鉄を迎えてのダブルヘッダーとなった。
第1試合は、近鉄の先発は関根潤三(のちに大洋・ヤクルト監督)で、西鉄の先発は川崎徳治であったが、関根が初回から捕まり、4回を終えて、8-0と西鉄が大量リードした。
結局、11-3で西鉄が圧勝した。

第2試合は、近鉄が3回までに5-0とリードしたが、先発の田中文雄が西鉄打線につかまり、5-4と迫られ、2番手の沢藤光郎に交代した。

沢藤は近鉄が創設された1950年に、ノンプロの盛岡鉄道管理局から30歳でプロ入りした。近鉄はプロ経験者が両手で数えるほどしかおらず、ほとんどが沢藤のようなノンプロ選手の寄せ集めであった。
近鉄はチーム初となる1950年の開幕戦、本拠地・藤井寺球場での毎日オリオンズ戦に、開幕投手に東映フライヤーズから移籍してきた黒尾重明を立てた。黒尾は一人で9回まで投げ切ったが、6失点で、2-6で敗れた。翌日の第2戦、南海ホークス戦では、先発に沢藤を立てた。プロ初登板・初先発となった沢藤は9回を3失点で投げ切り、完投勝利を挙げ、チーム初の勝利(4-3)をもたらした。
沢藤はその年、チームトップの50試合に登板し、うち先発がリーグトップの37試合、チームトップの18勝を挙げたが、近鉄打線はいかんせん、パ・リーグの中でも打撃力は断トツで劣り、沢藤一人で19敗を喫した。近鉄は44勝72敗で首位から37.5ゲーム差の最下位(7位)に沈んだ。
翌年からの2年目、3年目も、沢藤はチームの柱として投げ続けたが、8勝16敗、5勝22敗と2年連続でリーグ最多敗戦投手となった。チームは3年連続で最下位のままだった。
藤田は監督就任3年目、1952年のシーズン途中で、野球解説者の芥田武夫(早稲田大学野球部で東京六大学野球リーグ初の首位打者、主将)に監督の座を譲った。

その試合、途中から沢藤がマウンドに上がると、近鉄打線は再び奮起し、沢藤が西鉄打線に失点する度に点を取り返した。中盤、近鉄打線が10-6と西鉄を突き放すと、今度は沢藤が打たれ、10-9に迫られる。すると、また近鉄打線が奮起して、西鉄の投手陣を攻略し、8回を終わって13-10とリードしていた。
沢藤は勝利投手の権利を持ったまま9回裏のマウンドに上ったが、西鉄打線が最後まで沢藤に襲いかかった。西鉄は土壇場で沢藤から3点を奪って、近鉄はついに、この試合初めて追いつかれた。試合は13-13の同点のまま、延長戦に突入した。10回の攻防を終えて、13-13のまま試合は引き分けに終わった。
沢藤は6イニングを投げて、被安打12で9失点だった。

一方の西鉄はダブルヘッダー2試合で、合計32安打、24得点を挙げた。中でも4番・大下弘と、高卒でプロ2年目、19歳の5番・中西太は2試合で5安打ずつを放ち、中西は1日で3本の本塁打を稼いだ。中西はこのシーズン、パ・リーグの本塁打王のタイトルを獲得したが、高卒2年目として放った36本塁打は長らく破られず、ヤクルトの村上宗隆が2019年に36本塁打で並んだが、いまでにNPB記録である。

近鉄はこの試合の後、翌々日から7連敗を喫し、開幕10試合を1勝8敗1引き分けと出足で躓いたが、その後、4月に入って9連勝を挙げて巻き返し、5月中旬には一度は首位に躍り出た。8月終了時点で45勝46敗と勝率5割をキープしていたが、9月以降、3勝23敗と大きく負け越し、結局、球団創設以来、4年連続の最下位に終わった。
近鉄は球団創設5年目を迎えた翌年の1954年、ようやく投打がかみ合い、投手陣は勝ち頭の田中文雄が26勝でリーグ最多勝を獲得、関根潤三も自己最多の16勝、そして、35歳の沢藤が14勝2敗と大きく勝ち越し、チームはようやく最下位を脱し、貯金11で4位に食い込んだ。
前年、二人合わせて屈辱的な13失点を喫した田中文雄と沢藤光郎は、それをバネに翌年、近鉄を初のAクラスに導く原動力となったのである。


この記事が参加している募集

野球が好き

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?