【現役引退】「投手・和田毅」の軌跡を振り返る(1)
福岡ソフトバンクホークスの左腕、和田毅(43歳)が現役引退を発表した。
「投手・和田毅」の足跡を振り返ってみよう。
島根県立浜田高校
和田毅は1981年2月、島根県出雲市出身。
島根県立浜田高校の野球部では2年で夏の甲子園(1997年・第79回大会)に出場、初戦で秋田商にサヨナラ負けを喫して敗退した。
秋田商はエース左腕の石川雅規(現・東京ヤクルトスワローズ)を擁し、和田からサヨナラの押し出し四球を選んだのも石川だった。
翌年1998年、3年夏に2年連続で夏の甲子園(第80回大会)に出場、新発田農業、帝京高校を破り、ベスト8入りに貢献したが、準々決勝では豊田大谷高校に延長の末、サヨナラ負けで敗れた。
早稲田大学
1999年、早稲田大学に入学、野球部に入部すると1年秋に、東京六大学野球の秋季リーグ戦、対東京大学戦でデビュー。
2年春からはエースに定着、背番号「18」を背負った。
4年時の2002年には法政大学の江川卓(のちに読売ジャイアンツ)の持っていた東京六大学野球リーグでの通算奪三振記録の「443」を25年ぶりに更新し、通算476奪三振まで記録を伸ばすと、後輩の鳥谷敬(のちに阪神タイガース、千葉ロッテマリーンズ)、青木宣親(のちに東京ヤクルトスワローズほか)らと早大の52年ぶりの春秋連覇達成に貢献、2季連続でベストナインに選出された。
東京六大学野球リーグでは通算62試合に登板、27勝13敗、防御率1.35、476奪三振。リーグ通算27勝は、早稲田大に在籍した左腕投手としては歴代最多勝利記録となっている。
福岡ダイエーホークス(2003年-2005年)/福岡ソフトバンクホークス(2006年-2011年)
2002年オフのドラフト会議では、自由獲得枠で王貞治監督が率いる福岡ダイエーホークスを逆指名して入団、背番号「21」を背負った。
新人で迎えた2003年、シーズン14勝を挙げるなどの活躍でリーグ優勝に貢献、パ・リーグの新人王を獲得すると、日本シリーズでも3勝3敗で迎えた第7戦に登板して、9回を投げ切って完投勝利を挙げ、胴上げ投手となった。
新人から5年連続(2003年から2007年まで)でシーズン二桁勝利をマークすると、2004年にはアテネ五輪の野球で日本代表に選出され、銅メダル獲得に貢献した。2006年の第1回WBCに選出され、優勝に貢献、2008年には北京五輪の日本代表にも選出された。
ホークスがリーグ優勝を果たした2010年にはシーズン17勝を挙げ、プロ8年目にして、自身初の投手タイトル獲得となるパ・リーグ最多勝のタイトルを獲得、自身初のシーズンMVPも受賞した。
2011年にはNPBの左腕では史上最速(200試合)となる通算100勝をマークした。
ホークスには在籍9年で通算107勝を挙げ、開幕投手を3度、務め(2005年、2009年、2011年)、リーグ優勝3度、日本シリーズ制覇1度に貢献するなど、同学年の左腕・杉内俊哉と「ダブルエース」として君臨し、オールスターゲームにも4度出場するなど、球界を代表する左腕に成長、2011年オフに海外FA権を行使して、米国MLB/ボルティモア・オリオールズに移籍した。
米国/ボルティモア・オリオールズ(2012年-2013年)
2011年オフに、ボルティモア・オリオールズにメジャー契約で入団したものの、左肘痛からトミー・ジョン手術を受け、メジャー昇格がないまま、自由契約となった。
米国/シカゴ・カブス(2014年-2015年)
2013年オフにシカゴ・カブスにマイナー契約で入団、2014年に待望のメジャー初勝利を挙げたが、2年間で5勝にとどまり、2015年オフに古巣のホークスでNPBに復帰した。
福岡ソフトバンクホークス(2016年-2024年)
NPBに復帰した2016年にいきなり15勝を挙げ、自身10年ぶり2度目となるリーグ最多勝を獲得、工藤公康監督の下で、リーグ制覇2度、日本シリーズ4連覇に貢献した。
2017年には自身4度目となる開幕投手を務め、NPB通算1500奪三振をマーク、2022年には日米通算150勝、NPB通算150勝、2023年には通算2000投球回をマークしたが、今季2024年は度重なる故障で8試合の登板、わずか2勝にとどまった。
NPBでは通算334試合の登板のうち、先発は325試合で、通算160勝89敗、防御率3.18。MLB通算では21試合の登板、通算5勝5敗、防御率3.26。
ホークスに在籍した18年で、リーグ優勝5回、日本シリーズ制覇6度を数える。
和田毅の引退によって、いわゆる「松坂世代」(1980年4月から1981年3月までの生まれ)は全員、NPBから引退した。
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