1964年、王貞治(24歳)の「三冠王」を阻止した男たち

2022年のセ・リーグのペナントレースは、東京ヤクルトスワローズが2年連続で制した。

今季は新型コロナウイルスが流行し始めてから、各チームともコロナ感染拡大の影響をもっとも受けたシーズンとなった。

今季のNPBでは、春先には佐々木朗希(千葉ロッテマリーンズ)が完全試合を達成し、そして82年ぶりに、ノーヒットノーランが5度も達成されるなど、「投高打低」が喧伝されたが、シーズン途中からプロ野球ファンの耳目を集めたのは、ヤクルトの2連覇に貢献した村上宗隆の打撃である。

村上宗隆は7月31日の阪神タイガース戦(甲子園)と8月2日の中日ドラゴンズ戦(神宮)に掛けて、NPB史上初となる5打席連続本塁打をマークするなど打棒が爆発。
9月13日の読売ジャイアンツ戦(神宮)ではシーズン55号本塁打を放ち、日本生まれの選手としては1964年に王貞治(巨人)がつくった記録に58年ぶりに並んだ。
この時点で、ヤクルトの残り試合は15試合あり、2013年にウラディミール・バレンティン(ヤクルト)がつくったシーズン60本塁打の記録更新も時間の問題かと思われた。

しかしながら、その後、村上は10試合、半月ほどホームランが出ていない。
さらに、2004年に松中信彦(福岡ダイエーホークス)が達成して以来となる「三冠王」も秒読みに入っていたが、打撃不振により打率を下げており、打率リーグ2位の大島洋平(中日ドラゴンズ)との差も8毛差に縮まっている。
セ・リーグはヤクルトの2連覇が決まったいま、クライマックスシリーズ進出チームの最後の一枠の争いと、ヤクルトの残り5試合での村上の動向にさらに注目が集まる。

1964年、王貞治が24歳でシーズン55号本塁打を達成した時も、同時に王は「戦後初の三冠王」を競っていた。
シーズン最多本塁打記録を達成した王は、シーズン終盤、三冠王を目指して、どのような戦いを続けていたのだろうか。

NPBシーズン最多本塁打記録を更新した24歳の王、「戦後初の三冠王」に挑戦

1964年9月3日、王貞治はシーズン53号本塁打を放ち、前年、野村克也(南海ホークス)が打ち立てた日本プロ野球のシーズン最多本塁打記録を塗り替えた。
24歳で、ホームランバッターとして日本プロ野球の頂点に立った。
こうなると、野球ファンの注目は、王が戦後初の「三冠王」を獲得できるかどうかである。
王は本塁打記録もさることながら、二リーグ分立後では初、一リーグ時代から数えても1936年の中島治康(巨人)以来、史上2人目となる「三冠王」も射程圏内に入ってきた。

これまで、「三冠王」にあと一歩まで迫りながら、逃した強打者たちがいた。
西鉄ライオンズの中西太は1953年、1955年、1956年、1958年、4度も三冠王を僅差で逃している。
1953年は打率において4厘差で岡本伊三美(南海ホークス)に次いで2位、1955年は打点において1打点差で山内和弘(毎日オリオンズ)に譲り、1956年は打率において4毛(.0004)差で同僚の豊田泰光(西鉄ライオンズ)に敗れ、1958年は打点において1打点差で葛城隆雄(毎日大映オリオンズ=大毎)に競り負け、それぞれ残り一つのタイトルを奪われた。
前年、シーズン52本塁打で最多本塁打記録を更新した野村克也も2年連続の打撃二冠王を獲得したが、首位打者は獲得できずにいた。

この年、夏以降、王は本塁打部門、打点部門ではセ・リーグを独走していたが、打率部門では強力なライバルが立ちはだかった。
それが、中日ドラゴンズの江藤慎一である。

王のライバルは「闘将」江藤慎一

江藤慎一はノンプロの日鉄二瀬から1959年に強打の捕手として中日入りすると、一塁手や外野手として出番を掴み、新人から5年連続で全試合出場、シーズン二桁本塁打を続け、中心打者となっていた。
江藤はこの年、開幕からハイアベレージを維持した。
6月終了時点で、王とは1分3厘の差があったが、7月にはついに王を追い抜いた。
しかし、王も8月に再び、江藤を抜き返し、デッドヒートを繰り広げていた。

画像2

勝負の9月

王と江藤の首位打者争いの勝負は9月に持ち越された。
巨人は残り16試合、中日は23試合。
王の打率は.325、江藤の打率は.316と、9厘差あった。
巨人は8月終了時点で、首位の阪神タイガースから9ゲーム差の3位、中日も最下位に沈んでいた。
王はシーズン最多本塁打の記録が懸かっているが故、欠場は考えにくく、打率では江藤になるべく差をつけたいところであった。
だが、王は8月27日、シーズン51号本塁打を放ってから、日本記録への重圧か、6試合ホームランなしというスランプに陥った。

王は9月6日の大洋戦、第1打席でNPBタイ記録の52号、第3打席で新記録となる53号本塁打を放ち、安堵したのも束の間、その間、打率をジリジリと下げていった。

一方、江藤は3試合連続でマルチ安打と打率を上げて行った。

1964年

巨人・王と中日・江藤との直接対決

9月8日、後楽園球場には37000人もの観衆が詰めかけた。
すでに優勝の望みが消えた3位の巨人と6位の中日というカードにも関わらずである。
集まった観衆の多くは巨人ファンであろうが、特に王貞治のシーズン本塁打記録の更新、そして、王と江藤慎一の首位打者争いを見るためであったと想像される。
この試合に入るまで、王の打率は.3190、江藤の打率は.3182。わずか8毛差であった。

第1ラウンドは、王、江藤ともに双方の投手に勝負を避けられたこともあり、共に2打数ノーヒット、2四球と痛み分けに終わった。

画像3

9月9日の第2ラウンド。
中日の先発は中山義朗。中山はかつて2年連続シーズン20勝を挙げた投手である。
一方、巨人の先発は高橋明。前年から2年連続で二桁勝利を挙げている若き右腕である。
王は中山に、江藤は高橋にそれぞれ2打席とも抑えられた。
勝負が動いたのは第3打席目。
江藤は高橋を捉えて、左中間に二塁打を放った。この安打で王の打率をわずかに上回った。
すると、今度は王が中山の球を逆らわずにレフト方向へ流す技ありのヒット。
再び、王が江藤の打率を上回った。

巨人先発の高橋明は初回と4回の1点づつのみで中日の攻撃を2点で凌いできたが、巨人打線も中日先発の中山の前に初回以来、点が奪えない。
1-2で迎えた8回表、ついに試合が動いた。
高橋は中利夫に二塁打を打たれると、自らの暴投で三塁に進まれ、一死三塁のピンチを招き、続く、3番のジム・マーシャルに犠牲フライを打たれ、3失点目を許した。
続く4番の江藤を迎えた。

江藤の「執念」、元エースの「意地」

江藤は熊本県出身、「肥後もっこす」を体現するような男だ。
「闘将」と綽名された男である。
チームが最下位をひた走る中、当然、王の三冠王阻止に燃えていた。
江藤が再び、王の打率を上回るためにホームランは狙う必要はない。1本のヒットでいい。
だが、巨人ベンチは、気落ちした高橋明を続投させたのが仇となった。
江藤は高橋が投じたボールを捉えると、打球はレフトへ。
江藤の執念が乗り移った打球は後楽園球場のフェンスを越えた。
シーズン21号ホームランで、江藤は三度び、王の打率.3176を超え、.3183。
ヒットの数は共に142本だが、わずか凡打1本の差で江藤が打率トップに躍り出た。

試合は4-1のまま、9回裏へ。
巨人は一人、走者が出れば4番の王に打順が廻る。
しかし、中山が最後の力投を見せ、3番の長嶋茂雄を打ち取りゲームセット。
王に打席を廻さなかった。

中山は翌1965年のオフに現役を引退するが、この登板が現役最後の勝利(83勝目)、しかも完投勝利であった。
江藤の執念と、元エース・中山の意地が王の行く手を阻んだ。

画像4


9月10日の第3ラウンド。
中日の先発は前年15勝を挙げた山中巽、巨人の先発はチームトップの勝ち頭、17勝を挙げている城之内邦雄で始まった。
巨人は山中を攻め、2回途中、5失点でノックアウトしたが、王は蚊帳の外だった。
王は中日2番手・近藤光郎からもヒットを打てず、4打席で3打数ノーヒット、1四球。
一方、江藤は好投する城之内から1安打をもぎ取り、2打数1安打としたところで、試合途中で退いた。
江藤は打率を.3192に上げ、王は打率を.3156に下げため、3厘6毛差と引き離した。

画像5


こうして、このシーズンの、巨人と中日の直接対決は終わった。
巨人の残り6試合は、中日の残り試合は13試合。
王は江藤の打率を上回るまで試合に出続けなければならず、一方、江藤は王の動向を見て、試合の出場を決めればよい。

「戦後初の三冠王」か、「シーズン最多本塁打記録更新」か

王は「シーズン最多本塁打記録更新」と「戦後初の三冠王獲得」という「二兎」を追うことが一気に難しくなった。

9月11日、巨人は試合がなく、中日は国鉄と対戦、江藤は3打数1安打で打率.319。
しかし、王は諦めていなかった。
9月12日の国鉄戦、4打数3安打2打点、と息を吹き返したのである。
一方、江藤は大洋戦で4打数1安打。

画像6

9月13日、巨人は国鉄と対戦。
国鉄の先発はこのシーズン、26勝を挙げている金田であった。
前半は7本塁打と金田をカモにしていた王だが、金田はルーキーの堀田一郎に2安打、長嶋茂雄に3安打を許しながら、王のことは単打の1安打に抑えた。
これで王は4打数1安打となり、打率.319。
一方、江藤を擁する中日は、リーグ優勝を目指す大洋とダブルヘッダーで対戦。
第1試合、江藤は大洋投手陣から3安打を放って、打率を.322に引き上げた。
第2試合も、江藤は3安打を放ち、打率は.325。
ついに王と6厘6毛差がついた。

9月15日、巨人は試合がなく、江藤は阪神戦で2打数無安打、打率を.324に下げたところで、退いた。
9月16日の阪神とのダブルヘッダー、9月18日の大洋戦は、江藤はいずれも守備固めで出場しただけで打席に立たず、王の出方を待った。

画像7

元メジャーリーガーの「王キラー」

9月18日、巨人は後楽園球場で5日ぶりに試合に臨んだが、首位・阪神との最終戦。
阪神は6連敗を喫し、2位・大洋の猛迫を受けていた。
阪神・藤本定義監督はサイドスロー左腕、ピート・バーンサイドを先発に送った。
バーンサイドはメジャー通算196試合に登板、この年から来日して阪神に入団、4勝7敗と勝ち星に恵まれなかったが、巨人戦に強く、4勝のうち3勝を挙げていた。
しかも、王にめっぽう強く、ホームランはおろかほとんどヒットを打たれていなかった。

かくして藤本監督の采配は的中した。王は4打数ノーヒット。
打率を.316に下げ、江藤とは8厘差に開いた。

画像8

これで王の三冠王の夢はほぼ潰えたと言ってよかった。
残り3試合で、江藤を上回るためには、少なくとも6打数6安打か、10打数7安打、13打数8安打以上を放つしかなくなった。

王、最終戦で55号

これで王は吹っ切れたのだろうか。
9月21日、広島市民球場での広島カープ戦、王は4回に広島先発の安仁屋宗八から54号ソロホームランを放った。
実に9試合ぶりの一発であった。

そして、9月23日、後楽園球場での大洋戦ダブルヘッダー。
この日が巨人のシーズン最終戦となる一方、大洋は優勝へのマジックを「3」としていた。
第1試合、大洋はエースの秋山登を先発させたが、初回に、王の先制タイムリー安打などで2点を奪われると、三原監督は2回から、「完全試合男」である島田源太郎にスイッチ。
島田はロングリリーフで巨人の攻撃を1失点に抑えてきたが、7回、長嶋茂雄に手痛い一発を浴びた。
大洋は8回表、二死満塁のチャンスをつくって食い下がるが、代打・箱田淳の打球はショートへ。
ショートの広岡達郎が簡単にさばいてダブルプレーでチェンジ、のはずが、二塁のベースカバーが遅れたため、広岡が慌てて一塁に送球、これが悪送球となって1点差。
なおも、二死満塁から関根知雄が三遊間に放ったゴロをサードの長嶋が弾き(記録はヒット)、一気に逆転した。
大洋はまさかの逆転勝利でマジックを「2」とした。
王はタイムリー安打の1本だけで3打数1安打、1四球。

第2試合は雨の中、始まった。
三原監督が先発に指名したのは、プロ3年目の佐々木吉郎であった。
佐々木はこの年、38試合目の登板で、リリーフ・先発をこなしており、防御率2点台と貢献していた。
大洋は第1試合からの勢いに乗り、巨人の先発・高橋明を攻略、先制、中押し、ダメ押しと5回までに6-0とリード。
5回裏、王に2回目の打席が廻った。
王は佐々木の投球をライトスタンド上段に叩き込んだ。
シーズン55号。

佐々木はこの時の様子をこう振り返っている。
「(王に55号ホームランを打たれた時)反射的に空を見上げた。
見事な放物線を描いてましたね。どこまでも高く上がって、ゆっくりと落下していく。
完璧ですね、ホームランとしては」
余談だが、佐々木吉郎は1966年5月1日に広島カープ戦で史上8人目の完全試合を達成している。

王は次の打席、7回裏にも佐々木から右中間に二塁打を放ち、それを口火に巨人は2点を返して佐々木をノックアウトしたが反撃もここまで。
雨脚が強まり、7回裏の巨人の攻撃が終了した時点で、コールドゲームが宣告された。

王はプロ6年目の全日程を終了した。
140試合すべてに出場、472打数151安打、打率.3199、55本塁打、119打点。
打撃3部門でキャリアハイを記録した。
王はこのシーズン、誰よりも多く打席に立ち、本塁打、打点、得点、塁打、四球、敬遠四球、出塁率、長打率、など、ほとんどの部門でリーグトップ。
しかし、打撃主要3部門のうち打率だけは江藤慎一を上回ることができなかった。


セ・リーグの優勝争いの中、三冠王争いに終止符

大洋は9月23日に巨人に連勝したことで、大洋の優勝へのマジックが「1」となった。
大洋があと残り2試合のうち、1勝するか、阪神が残り5試合で1敗した時点で、大洋が1960年以来、2度目のリーグ優勝が決まることになった。

その残り2試合は阪神との直接対決であった。
ところが、9月26日、甲子園でのダブルヘッダーで1勝すれば優勝であったが、大洋は連敗を喫してしまい、全日程を終了。
そして、阪神は9月29日の国鉄戦で勝利。2位の阪神の逆マジックが「1」となった。
阪神は7連敗の後、7連勝と快進撃を続け、残り2試合のうち1勝すれば、大洋を抜いて逆転優勝となるのである。
いよいよ風雲急を告げてきた。

阪神はシーズン最終戦となった9月30日、甲子園球場で中日とのダブルヘッダーに臨んだ。
この試合、阪神と大洋にとっては重要な試合であったが、最下位の中日にとっては消化試合にすぎない。
中日ナインにとって、目の前で敵チームの優勝、胴上げを見るのは嫌なことだが、双方のチームのモチベーションの差は火を見るより明らかであった。

自身初の首位打者が確定した江藤は第1試合に先発し、2打席凡退したところで退いた。
阪神は初回から山内一弘のタイムリー安打で先制するなど順調に加点し、12-3で圧勝。
藤本定義監督が1962年に続いて、阪神を2度目の優勝に導いた。
大洋の三原監督は1962年と同じく、阪神に優勝をさらわれた。
(そして、翌日10月1日から阪神と南海ホークスとの日本シリーズ、いわゆる「御堂筋シリーズ」が始まった。
この年、東京五輪が10月10日に開幕する関係で、プロ野球は強行日程を強いられていたのである。10月10日、南海が日本一を決めた)

中日はこの年、開幕から低迷し、杉浦清監督が休養、代わりに「初代ミスター・ドラゴンズ」と謳われた西沢道夫が監督代行を務めたが、チーム状況は上向かず、球団創設以来、初となる最下位を味わった。
しかも、最後は敵地・甲子園で目の前で阪神の優勝と藤本監督の胴上げを見せつけられたが、その中で唯一、江藤だけは充実感が残った。
江藤は自身初の打撃タイトルで王貞治の「戦後初の三冠王」を阻止した。
二人の打率の差は、7毛差、ヒットわずか2本分の差であった。

画像9


江藤慎一、2年連続で王貞治の三冠王を阻止

王は翌年1965年も、42本塁打、104打点、打率.322という成績を収めたが、4年連続の本塁打王、2年連続の打点王は獲得したものの、打率は2位に終わり、またも三冠王を逃した。
江藤慎一が打率.336で2年連続で首位打者に輝き、王の三冠王をまたも阻止したのである。

長嶋茂雄が1958年にデビューして1974年に引退するまでセ・リーグで2年連続で打撃タイトルを獲得したのは長嶋茂雄、王貞治、そして江藤慎一だけである。

王貞治が逃した「戦後初の三冠王」の称号は、翌1965年、30歳の野村克也が手に入れた。
野村は生涯唯一の首位打者を獲得したシーズンに、「トリプルクラウン」に輝いた。
それは、野村がシーズン最多本塁打記録をわずか1年で塗り替えた王に対する、「意趣返し」のようであった。
結局、王が三冠王を獲得するのは1973年。
33歳になるまで待たなければならなかった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?