【1990年日本シリーズ】「野球観が変わった」28-8から30年後

2020年の日本シリーズは、戦いの場を大阪から福岡に移した。


1990年の日本シリーズに時を戻そう。

1990年のセ・リーグ覇者は読売ジャイアンツ、パ・リーグの覇者は西武ライオンズであった。

ジャイアンツは、2位の広島カープに22ゲーム差をつけて独走した。

一方のライオンズも、2位のオリックス・ブレーブスに12ゲーム差をつけて勝ち上がった(尚、ブレーブスの愛称はこの年を限りに消滅、上田利治監督は勇退した)。

藤田元司監督率いるジャイアンツは、斎藤雅樹、桑田真澄、木田優、香田勲男の先発4本柱がいずれも10勝以上を挙げ、全員が防御率2点台という、現在からみれば驚異的な成績で、セ・リーグの防御率トップ4を独占し、チーム防御率はリーグ唯一の2点台。

特に斎藤雅樹は20勝を挙げて最多勝、最優秀防御率、最高勝率の投手三冠王になった。

打線は原辰徳が唯一の3割打者だが、チーム打率・打点ともにリーグ2位。リードオフマンの緒方耕一は盗塁王のタイトルを手にした。

前年に続く、セ・リーグ連覇で、前年1989年の日本シリーズでは近鉄バファローズと対戦し、3連敗から4連勝を果たし、2年連続での日本シリーズ制覇に死角はないはずだった。

一方、森祇晶監督が率いるライオンズも、この年のレギュラーシーズンではチーム防御率がリーグトップ。先発陣には最多勝の渡辺久信を筆頭に、渡辺智男、石井丈裕の3本柱に加え、郭泰源、工藤公康、リリーフにこの年ルーキーの潮崎哲也、セーブ王の鹿取義隆と盤石の布陣。

ライオンズは打率・得点こそリーグ3位であったが、クリーンアップは秋山、清原、デストラーデの「AKD砲」を形成し、デストラーデが106打点で打点王、43本塁打で、ホームラン王の2冠に輝くと、秋山も35本塁打、しかも51盗塁で盗塁王、清原は無冠ながら、37本塁打、94打点。

この打線で、打率・得点がリーグ3位というのも信じがたいが、野手陣は脇役に、辻、平野、石毛、伊東勤などを擁し、投打、それに守でもバランスのよいチームをつくった。森監督は前年リーグ3位から2年ぶり4度目となるリーグ優勝を掴み、ジャイアンツとは3年ぶりの対戦となる日本シリーズに乗り込んできたのである。

だが、結果は残酷だった。

第1戦 5-0
第2戦 9-5
第3戦 7-0
第4戦 7-3

28-8。

ライオンズが投打でジャイアンツを圧倒し、4連勝で勝負はついた。
しかも、終わってみれば、1試合も接戦はなかった。

最終戦、ジャイアンツは9回2死走者なしから、最終打者となった駒田徳広が、ライオンズのルーキーの潮崎にピッチャーゴロに打ち取られ、ファーストベースまで走らず、逃げるようにダグアウトに引き返すシーンを覚えている、

当時、ジャイアンツの選手会長だった岡崎郁は、シリーズ敢闘賞に選ばれたが、第4戦の試合後、「野球観が変わった」と述べた。敗軍の将、藤田元司は「全て監督がヘボだから負けました」と語った。

翌年の1991年、藤田元司率いるジャイアンツはリーグ4位、12年ぶりのBクラスに転落した。そして、ジャイアンツは第二次長嶋茂雄監督の下、再び日本シリーズに進出するのに4年のシーズンを要した。

一方のライオンズは、この後、森監督の下、1994年までリーグ優勝、うち1992年まで日本シリーズ3連覇を成し遂げた。森監督は就任9年の間に、8度のリーグ優勝、2度の3連覇を含む6度の日本一に輝いた。

森監督は前任者の広岡達郎監督をしのぎ、西武ライオンズ最長の黄金時代を謳歌したのである。

あれからちょうど30年。

当時、ジャイアンツで主軸を張っていた原辰徳、ライオンズでエースを張った工藤公康が監督という立場で、日本シリーズという舞台で2年連続で相まみえている。

しかも、ホークスは昨年からジャイアンツに7連勝、日本シリーズ4連覇に王手をかけた。

二人の胸に去来するものは何か。

戦いがまた始まる。

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