Feminism isn't only women's〜女性であり、女性でない自分がフェミニズムを再考する〜
今回、「Feminism isn't only women's」(フェミニズムは、女性だけのものじゃない)というタイトルで、友人2人とノンバイナリーの目線からフェミニズムについてnoteを執筆した。
友人のnoteはこちらから↓
・Feminism isn't only women's~私はいつも、女性に”擬態”する~ by さや
・Feminism isn't only women's〜「フェミニズム」はみんな(のため)のもの〜 by けいぞう
はじめに
2021年8月6日に発生した小田急線刺傷事件。
犯人の男性の供述によると、「6年くらい前から、幸せそうな女性を見ると殺してやりたいと思っていた」「勝ち組っぽい女性を見つけ狙った。相手は誰でも良かった」という動機から、彼は男女合わせて10人を切りつける犯行に至った。
この事件により、「フェミサイド」という言葉がSNS上で話題となったことを知る人は多いのではないだろうか。
そして同時に今回の事件は、男女問わず一定数の人々に日本社会に蔓延るミソジニー(女性蔑視)について考えさせたようだ。
女性として、フェミサイドのターゲットとなり得る可能性からミソジニーへの批判と対抗に改めて声をあげる人もいたし、男性として自己体験を通して経験しづらいミソジニーの実態について改めて考える人もいた。
しかしながら、私自身が、女性として知覚されながらも、男性でも女性でもない性を自認する人間として感じたのは、自分と同じように男女でない性を持つ人(ノンバイナリーやXジェンダーなど)がいかにこのミソジニーと関わっていくか、対抗していくかは、メインストリームで議論されていないという事である。
この実感から、ここではミソジニーに対抗していくムーブメントとして「フェミニズム」に着目し、自らのジェンダーと身体を介して、改めてフェミニズムについて考えていきたいと思う。
フェミニズム(Feminism)とは
フェミニズムと言うと、未だに間違った解釈として「フェミニズム=男性嫌悪」という理解がされる事があるが、本来フェミニズムは決して男性嫌悪ではない。(ここ重要!)
フェミニズム(Feminism)とは、社会的、経済的、政治的などのあらゆる面でのジェンダー平等を目指そうとする思想である。(Britannicaより)
そして、現在、フェミニズムの主流は、女性の地位向上と女性の権利向上に関するムーブメントである。
この動きは決して、男性の地位を貶めようとするものではなく、これまでの歴史的な流れの中で男性と同等の社会的特権(優遇)を与えられてこなかった女性が、男性と同等の社会的権利を持てるようにするムーブメントである。
そして、女性権利向上と女性の活躍可視化のムーブメントとしての現在のフェミニズムにおいて、社会では女性は”当事者”としての立場として位置付けられる。
わたしについて〜自己紹介〜
私のフェミニズムについての見解を話す前に、私が何者かについて少しご紹介。
現在、大学生(22歳)。カナダの大学でジェンダー学と宗教学を研究し、なんやかんやで3つのジェンダー系学生団体に関わっている。
女性として生まれ(ヴァギナとブレストを持ち、ペニスを持たない身体)、男性でも女性でもない性を自認する。私の場合、それは、男性と女性の中間でも、両方でも、男女の間を流動しているわけでなく、男女とはまた別の性なのだ。
これが私の性である。
社会で”女性”として認識されて生きる人間として、明らさまな女性蔑視でなくとも、”若い女性”であるが為にナメられたり、偏見を押し付けられたりすることは日常の中にある。
「女子だから・・・」「女子なのに・・・」「女子は・・・」そんな枕詞とともに繰り広げられる会話は数え切れないほど聞いてきたが、それは単に偏った女性像を押し付けられてきただけでなく、女性性の押し付けというミスジェンダー(本人が自認するジェンダーと異なる取り扱いをすること)の経験でもある。
これが非常に厄介なのは、「それは偏見である」という反論と、「見た目は女性だが、私は女性と自認していない」という反論の2つが同時に存在し、そもそもジェンダーをあまり深く理解していない人にこの2つを説明するのは、骨の折れる作業だからだ。
だからこのような場面に出くわした時、私は前者の反論のみをするようにする。
が、それはあくまでも女性としての反論と世間では認識されるのである。
つまりは、社会的に女性と知覚されながらも、女性ではない性を持つという点で、社会と自己との間で自分の性に対する認識に乖離があるのである。
そしてこれが、私がフェミニズムを語る上でかぎとなる部分だ。
わたしはこのようにフェミニズムを定義する
今のフェミニズムの議論において、一般的に女性が”当事者”として捉えられる。
しかし、私が強く思うのは、だからといって女性だけがフェミニズムの担い手というわけではないという事だ。
私が考えるフェミニズムは、性別、ジェンダーに関わらずすべての人が主体になり、考え、意識を変え、関わるべき事象である。
なぜなら、フェミニズムが目指すジェンダー平等を阻む諸問題に関わっているのは女性だけではないから。
今の社会に根強く残る女性蔑視をどうしたら撲滅していくのか、と考えたとき、意識と行動変革が必要になのは明らかだが、そのとき変革の主体になるべきなのが、やはり、女性蔑視を内在化してしまっているすべての人、女性蔑視の言説を根深く強固にしている今の社会の一員であるすべての人だと思うのだ。
フェミニズムは、女性だけの変革のムーブメントではなく、万人のための万人よる変革のムーブメントと私は定義する。
わたしはどのようにフェミニズムと関わるのか
そして、私自身がどのようにフェミニズムと関わるのか。
男性も女性も自認しない自分が感じるのは、今のフェミニズムの主流である”女性活躍”や”女性の権利向上”と言われても、権利が向上する対象や活躍を可視化される対象の”女性”はあくまでも異性で、自分がそこに含まれる実感がないということだ。
もちろん、社会的には女性として知覚されているのだから、ミソジニーは身を持って経験している。
自分がフェミサイドの被害者になり得ることも理解している。
しかし、それは頭で理解しているというだけで、感覚的に自分事化できていない。
だからこそ、フェミニズムへの関わり方として、もし女性を”当事者”として位置付けるのであれば、私はあくまでもアライ(Ally)の立場をとり、フェミニストとしてフェミニズムを推し進めていく立場を取ってしまうし、取りたいと思ってしまうのだ。
世間からは、女性”当事者”として位置付けられるにも関わらず。
それは単純に、自認と社会からの認識との乖離を受け入れられていない自分がいるから。
私が女性として知覚される理由は、恐らく私の身体的特徴が女性的だからという事なのだが、自分の中で、自らの身体が女性的意味を帯びている事を受け入れられていないから。
自分の身体が帯びるジェンダー的意味の受け入れと、知覚される性の受け入れは、いかにして「自分は男性でも女性でもない」という自己の性への感覚を認める事と相反しないのだろうか。
※ここでいう「受け入れ」は単に頭で理解するという事ではなく、感覚として実感するという事を指す。
「受け入れ」ができないのは、果たして自分がミゾジニーを内在化しているからなのだろうか。
それとも、自認と知覚のずれによるものなのか。
自分が自分の性について「男性ではない」というよりも「女性ではない」を強く主張しがちなのは、単に自分が男性として認識されることは無く、普段から女性として認識されるからなのか。
それともそれは、内在化した大きなミソジニーの顕在化なのか。
そして、ミソジニーを内包しながらも、それを是正できない自分がありながらもフェミニズムに関わっていく事は、ある意味ではフェミニズムに関わる/声をあげるという行為が、自分の内在化するミソジニーへの贖罪と同時にそれの正当化に相当する行為になってしまうのか。
本当は、自分の中に横たわるミソジニーを認めつつ変えていく事で、自分はフェミニズムに関わっていきたい。
しかしながら、自分の知覚される性と自認する性のズレによって、自分のミゾジニーの正体がわからなくなってしまっている気がしてならないのだ。
そして、フェミニズムの中で自分をどのように位置づけるべきなのかも、わからなくなってしまう。
“WOMANHOOD”から”WOMXNHOOD”への転換
日本語というのは厄介で、”女性”というのがFemaleを指すのか、Womanを指すのかわからにくい。
だから、”女性活躍”で語られる”女性”の定義範囲が不明確のような気がしてしまう。
果たして、自分はその定義に入るのか、否か。
というよりも、自分でその定義に自分を入れられるのか、否か。
今のフェミニズムで言う”女性”に自分を重ねられないのは、恐らく自分の中で、この”女性”をwomenと定義しているから。
では、この”女性”の定義範囲を拡張すれば良いのでは無いだろうか..?
”WOMXN”と置き換えてみてはどうだろうか。
"WOMXN"
この言葉は2つの意味を持つ。
1)従来の"woman"には男性を意味する"man"が内包されている。それはまるで女性は男性がいなければ成り立たない/生きていけないと言っているかのようだ。男性から逸脱/自立した女性であることをWomxnは意味する。
2)womxnは、シスジェンダー女性だけでなく、トランス女性やFtX(便宜上この言葉を使用)も含む。女性として自認する/知覚される人の共通の経験を認識していく。
まだ一般的には、「”女性”=Women」である事は知っている。
だが、私はWomxnと定義し、フェミニズムと向き合ってみよう。
そうする事で、自分の身体の上に生じる性の乖離は少なくとも自己の中では解消され、自分の身体が帯びる”女性”という社会的意味を結び直すことができるかもしれない。
私は、女性であり、女性でなく、Womxnである。
自分が内包するミソジニーと真正面から向き合い、フェミニズムをより自分事化できる気がする。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
支離滅裂かつ論理だってない気がしますが、そんなもんでしょう、ということで、割り切ります。
みほ
(キャッチ画像:Pawl Czerwinski, Unsplash)
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