190.女性蔑視発言

本稿は、2021年2月6日に掲載した記事の再録です。

要人による女性蔑視発言が、国内外で批判を浴びています。このような発言が報道されるたびに、私の脳裏には若かった頃のみずからの葛藤が蘇ります。

◇ ◇ ◇

私は1987年に欧州系の会社に転職しました。この会社には新卒で就職した会社とは違って「結婚と同時に退職する女性社員だけに結婚祝金を出し、その上に退職金まで満額支給する」という社内規定はなく、表面上は男女平等ということになっていました。

しかし、もちろんそんなことは建前にすぎず、管理職はほぼ男性のみでしたし、営業部門では、日本の多くの会社と同じように営業職は男性のみ、営業事務は女性のみでした。

それでも日々あからさまな男女差別のあった前の会社に比べれば(054. 会社の男女差別)、私にとってはずっと働きやすい会社でした。

その頃、営業職は男性社員に限るという理由を「会社としては男女どちらでも良いと思ってはいるが、日本企業が女性の営業職を受け入れないからダメなのだ」というまことしやかな理由をつけていました。

ところが1990年代に入った頃、私が個人的に心の中で「黒船事件」と呼んでいる事件が起こりました。それは、いわゆるオックスブリッジと呼ばれる名門校を卒業して欧州本社で営業職として働いていた日本人女性が、配偶者の転勤に伴って東京に来ることになり、これまで通り営業の仕事に就きたいと希望を出したという事件でした。

その時、会社の上層部は慌てました。なぜならば配偶者の転勤に伴って社員が共に赴任地の支店に転勤し、現行部署と同じ部署で働くということは、世界中でごく当たり前のように行われていたことだったからです。彼女を営業職につけない理由など、世界的な社内基準からみてどこにもありませんでした。

結局、彼女は東京に転勤してきて、本社でも担当していた外資系のグローバル企業を担当することになりました。何ら問題はなく、彼女は男性社員と同じように営業職を務めました。数年後、また彼女は配偶者と共に他国へ転勤していきました。その後、彼女のポジションは別の女性社員が務めることになりました。

1990年代、次第に女性の営業職も増え、最初は顧客も外資系企業だけに限られていましたが、少しずつ日本企業も女性が担当するようになっていきました。それでもあの「黒船事件」がなければ、女性社員の営業職への登用はなかったか、少なくともあと十年は遅れただろうと私は思いました。

◇ ◇ ◇

1990年代中頃、私は顧客サポート部門で中間管理職となって、自分でも新入社員を採用をしたり、部門のマネージメントに当たることになりました。

当時の私の上司は英国人で、さまざまな仕事を自由にやらせてくれました。

しかしそれでも「ガラスの天井」を感じない日は一日たりともなかったほどで、とりわけ日本人男性社員のほんのちょっとした言葉遣い(例えば今話題の「わきまえている」など)の中にも女性蔑視が感じられました。しかし、そんな言葉尻に一々めくじらを立てていたら日々の仕事などできないので、適当に受け流しながら毎日を過ごしていました。

しかし新人採用の時、とりわけ新卒の採用面接で、目をキラキラと輝かせながら「この会社は外資系なので、昇進などで男女差別はないと聞きますが、本当にそうなのでしょうか」という直球の質問を受けた時、私は心にもなく「はい。男女差別はありません」などと答え、後から強烈な自己嫌悪で苦しんだことは忘れられない思い出です。

昇進の男女差別は誰がどう見てもありました。もしも完全に平等ならば管理職の男女比率は同じでなくてはなりません。しかし管理職の大半は男性でした。ただ以前勤めていた会社のように「男女差別」が社内規定で明文化されていたわけではありませんでした。そして常々言葉の端々に女性蔑視を漂わせている男性社員こそが、どういうわけか本気で「この会社は男女平等だ」と思っているようでした。

複数人で面接をしている時など、そんな男性社員が胸を張って「この会社は、外資系だから日本の会社とは違って完全に男女平等です。実情を女性の管理職から直接聞いてみてください」などといって私に振り、いかに差別がないかを言わせようとしたことも何度もありました。彼らは本気で男女差別のない会社だと思い込んでいたようでした。

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少しでも職場環境を改善したいと様々な工夫を凝らした中で、海外の本社や支社との間で社員の交換プログラムをしたことがありました。

欧州の本社と、米国の支社とそれぞれ一人ずつ同じ顧客サポート部門間で期限付きの社員交換をしました。日本から海外に出て働くスタッフにとっても貴重な経験になりますが、海外から来たスタッフと共に働くことになる東京のスタッフにとっても良い刺激になると思ったのです。

顧客サポート部門ということで、東京の私のスタッフには女性社員の比率が高かったのですが、はからずも欧州本社からも米国からも応募してきたのは男性社員ばかりだったので、その中から選考してどちらも男性社員に来てもらいました。

プログラムが始まって半年ほど経った頃、欧州本社から来たスタッフと今後についての面接をした時、私は彼の言葉に大きなショックを受けました。彼は「今の職務は本社と同じ顧客サポート部門で、同じ職務内容のはずだというのに、日本ではサポートスタッフがサポートしているのは顧客ではなく、営業マンです」というのでした。

彼はいくつかの例を挙げて「これでは誇りを持って働いていくことはできません」とも言いました。「職種と性別は全く関係がないのに、日本では職種と性別がほぼリンクしていて、男女の性別の上下関係がそのまま職種の上下関係になっています。本社ではそのようなことはなく、大変ショックを受けました」とも言いました。

その上、彼は私を責めるどころか逆に「このような社内環境で、社員交換プログラムなどをして職場環境の向上に努めていて、マネージャーの努力には感謝しています」と言った時に、私はあまりに自分が情けなくて返す言葉を失いました。

◇ ◇ ◇

そんなある日、上司の英国人が転勤になり、そのポジションには日本人男性が就きました。基本的には同じ仕事を同じように行なっていくことになっていました。私は自分の英語力が不足していて、前の英国人の上司とは100%意思疎通ができていたとは言い難かったので、日本人上司はありがたいはずでした。しかし、実際にはそんなことはありませんでした。

ある時、欧州本社で新製品の発表がありました。私の部門でもスタッフを一人出張に出してその新製品の研修を受けてもらい、帰国したのちに今度はそのスタッフに講師になってもらい、東京や他のアジア諸国のスタッフへ向けて研修をしてもらう必要がありました。

その製品の分野に詳しく、英語が堪能で、研修スキルのあるスタッフということで、一名選んで任命しました。本人もやる気があって任命されたことをとても喜んでいました。

その週の内だったと思いますが、新しい日本人上司も含めて数名で仕事の打ち合わせの時、たまたまその出張の人選の話題になり「誰にしたの?」と聞かれたので、そのスタッフの名前を告げました。すると彼は「なんだ、彼女はこの前結婚したばかりじゃないか。出張に行っている間、彼女の旦那さんの食事は誰が作るんだ?」と言ったのです。

周りにいた男性管理職も「そりゃ、旦那が可哀想だよなあ」と合いの手を入れました。

私は「プロダクトの分野、英語力、研修スキルからの人選です。航空券などすべて手配済みです」と微笑みながら答えました。いらぬ波風を立てたくないという一心からでした。しかし私はこれまでの仕事人生の中で、一番落胆したのはその時でした。どこから何に手をつけて良いのかわからない思いでした。なんだかこれまでやってきたことのすべてが、足元から音を立てて崩れていくような、奈落の底へ落ちていくような気分でした。

◇ ◇ ◇

そのような日々のある晩、仕事が終わって、私は新宿駅から小田急線に乗りました。相変わらず混んでいて、発車間際にようやく乗りこんだので吊り革も既にいっぱいでした。重い鞄を両手で抱え、両脚で踏ん張ってポジションを取ったとき、頭上のスピーカーから「この電車は、急行小田原行きです。前4両は…」とのアナウンスが聞こえてきました。

忘れもしないその声は、生まれて初めて聞く女性車掌の声でした。

男性王国と謳われた鉄道会社で、遂に女性が「車掌さん」になったのかと思った途端、私の両目から涙がハラハラと溢れ出てきました。今、この文章を書きながらも、あの日の感動を思い起こすと涙が滲みます。

あの頃の私は、いっぱいいっぱいでした。男性たちの「悪気のない」一言に日々傷ついていました。でも傷ついたとは感じないように、傷ついたことを悟られないように、自分のできることを探す日々でした。面と向かって「その発言は撤回してください」「それはいくらなんでも失礼です」と言いたい思いを呑み込み、あとになって、なぜあの時言い返さなかったのかと自己嫌悪に陥ったことも数知れずありました。

職場で些細な言葉尻に傷ついていた頃、私は半ば本気で、戦前のように「男は女より偉いのだから、女は引っ込んでいろ」と最初から教育されていたら、こんなに苦しい思いはしなくて済んだのではないかとすら感じていました。

そんな日々において「この電車は、急行小田原行きです」のアナウンスは、つらい思いをしているのは私だけではない、女性が電車の車掌さんになる時代が来たのだと心の底から励まされました。お名前も存じませんが、私はあの日あなたのアナウンスで救ってもらったのですと、心から御礼を伝えたいと思います。

◇ ◇ ◇

2008年か2009年頃、ある会合で知り合った若い女性編集者と雑談していたら、彼女は「上の世代の人たち話していると、男女差別について『昔はこんなにひどかった、あんなにひどかった、でも我々が努力してここまできたのよ』などと言われてとても不愉快です。それは時代なんだから仕方がないと思うのです」という主旨の発言をしました。

私はそれを聞いてこれまでにない衝撃を受けました。その時の状況からいって、彼女はもしかすると、私も彼女に同調すると考えていたかも知れないと思われる節がありました。ですから純粋にそのように感じていたのだと思うと、どのように返答すべきか迷いました。

私は長いこと女性蔑視の発言に感情を閉じて傷つかないようにをしたり、傷ついても傷つかない振りをしたり、不快に思っても言い返さず黙ってやり過ごしてきました。なぜなら社会的に上の立場の男性と正面切って対立するのは精神的な負担もさることながら、実質的に大きなリスクを伴いました。

そこから何かを得られる可能性よりも、何かを失う恐れの方がずっと大きかったからです。私自身が「生意気な女だ」と烙印を押されてポジションを奪われ、男性管理職にとって替わられるよりは、部門全体のことを思えばここは私が耐えた方がまだマシではないかと、できない我慢もしてきました。

しかしながら、若い編集者とのやり取りで、これではいけないと思うようになりました。私にはほんの小さな声を上げることしかできないかも知れないけれど、それでもおかしいことはおかしい、傷ついたことは傷ついたと発言しようと思うようになりました。

2020年、日本のジェンダーギャップ指数が世界153ヵ国中121位という大変不名誉な順位にあるのは、これまで私の声があまりにも小さ過ぎてほとんど誰にも届いていなかったからではないかと、大いに反省しました。

以前、(055. 腰掛け就職)という回でも引用したことがありますが、1985年に労働省(現・厚生労働省)の初代婦人局長として男女雇用均等法の制定に尽力された赤松良子氏の次の言葉をここに再掲したいと思います。

 本書の執筆中に、しばしば私を励ましてくれるフレーズがあった。それは「男女平等実現のための長い列に加わる」という言葉である。幸い、私の前には具体的に多くの優れた先輩たちの姿が見えた。私の時代よりもずっと苦難の多い時代に、迫害や中傷に屈せず闘ってこられた方々である。その方々の努力があったからこそ、私の時代に、女子差別撤廃条約ができ、男女雇用機会均等法を論議できるようになったことを忘れてはならないと思った。その列は、日本ばかりではない。ヨーロッパやアメリカ、果てはニュージーランド(世界ではじめて女性の参政権が実現した)からも続いているのだ。さらに幸いなことに、この列に加わって働こうという後輩たちが続いている。その人々はきっと私の代ではできなかったことを、仕上げてくれるに違いない。平和で平等な世界を実現するために。
赤松良子著『均等法をつくる』勁草書房(2003)p.iiiより (太字引用者)

今回の要人による女性蔑視発言が、「災い転じて福となす」のきっかけとなるように、私も小さくてもはっきりとした声をあげたいと思います。


<再録にあたって>
世界における日本ジェンダーギャップ指数の順位は、この稿を書いた前年の2020年は153ヶ国中121位、2021年は156ヶ国中120位、2022年は146ヶ国中116位と、相変わらず低迷を続けています。これは様々な要因によるものでしょうが、私の声が小さかったこともそのひとつだったと反省しています。

私はこの稿で次のように書きました。「私は長いこと女性蔑視の発言に感情を閉じて傷つかないようにをしたり、傷ついても傷つかない振りをしたり、不快に思っても言い返さず黙ってやり過ごしてきました。なぜなら社会的に上の立場の男性と正面切って対立するのは精神的な負担もさることながら、実質的に大きなリスクを伴いました。そこから何かを得られる可能性よりも、何かを失う恐れの方がずっと大きかったからです」

しかし時間が経って自分の書いた文章を読み返してみると、赤松良子氏の文章にあるように、先人たちは「私の時代よりもずっと苦難の多い時代に、迫害や中傷に屈せず闘ってこられた」のに、私はただ単に迫害や中傷を恐れて屈してきただけだったのではないかと気づき、深く反省しました。

今後の世代において、男女平等が実現され、平和で平等な世界を実現するために、私も努力していきたいと思っています。


000. 還暦子の目次


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