223.お弁当の味

1964年(昭和39年)、前回の東京オリンピックが開催された年、私は幼稚園に入りました。私が住んでいた地域では、ほとんどの子どもが近隣の3つの幼稚園のどれかを選んで入園していました。私の幼稚園の決め手は母の一言でした。「ママはお弁当なんて作れないから、給食のあるこの幼稚園にするわね」。

このようなわけで、私は幼稚園、小学校、中学校と合計11年間、給食を食べて過ごしました。お弁当は、運動会や遠足のような特別な日に母が作ってくれました。

昭和40年代前半(1966年〜1970年)には、運動会のお弁当といったら三段重ねのお重箱という雰囲気が色濃くありました。家族席にゴザやシートを広げて、玉子焼きやら煮物やら、それにおにぎりなどがぎっしり詰まったお重箱を、両親や祖父母、兄弟姉妹みんなで囲む風景があちこちで見られました。

こんな日には、私の母も前の晩から下拵えをして、当日の朝も暗いうちからお重箱作りに精を出していました。もしかすると徹夜で作っていたかもしれません。運動会のお重箱にはおにぎり、おいなりさん、太巻きがずらりと並び、鶏の唐揚げや玉子焼き、タコ足のウィンナー、それにうさぎの耳のリンゴなど子どもが好きそうなものがぎっしり詰まっていました。でもどんな味だったのか、不思議なことにあまりよく覚えていません。

私にとって忘れられないのは、遠足のお弁当です。小学校の頃、遠足のバスの中で何度かバスガイドさんに「今日はおにぎりいくつ持ってきましたか」と質問されました。「1つの人いますか」という質問には誰も手をあげなくて、「それでは2つの人はいますか」という質問で、ハイ、ハイ、ハイとあちこちから手があがりました。「3つの人」というとパラパラ手が上がり、「4つの人」という質問に体の大きい男子が一人手をあげると、クラス中「やっぱりね〜」などと笑いが渦巻きました。

なぜこの質問を私がよく覚えているかというと、私は一度も手をあげたことがなかったからでした。なぜなら私は毎年おにぎりを6つ持っていたのです。母は食べやすいようにと小さなおにぎりに、梅、鮭、たらこ、鰹節、高菜など様々な具を入れて持たせてくれていました。「6つの人」という質問になる前の「5つの人」という質問すらありませんでした。

しかし、実は私のお弁当は6つのおにぎりだけではありませんでした。私はさらに食パン一斤に相当する量のサンドイッチも持たされていたのでした。耳は落とされていましたが、玉子サンド、ハムサンド、トマトやきゅうりの入った野菜サンドが色とりどりに並んでいました。「おにぎり6つと食パン一斤分のサンドイッチ」これが私の遠足の決まった。お弁当でした。母は前の晩から寝ずにお弁当を作ってくれました。

みんなが2つか3つしかおにぎりを持っていないのに、私だけ6つのおにぎりと、さらにサンドイッチを持ってきていることを周囲に知られないよう、私はみんなから少し離れたところで、モノも言わずにひたすらお弁当を口に押し込みました。そもそもおしゃべりなどしていたら、お昼の時間内に6つのおにぎりと食パン一斤分のサンドイッチを食べ切ることなんてできませんでした。

毎回遠足のたびにお弁当は同じ味がしました。ずっと大人になったある時、食べ物が胸につかえたことがあって、水で流しこもうとした時に「あ、これは遠足の味だ!」と思い至りました。

遠足は、300円以内のお菓子を持って行ってもいいことになっていて、前の日に近所の友人と一緒にスーパーマーケットでお菓子選びをして、チョコベビーとかサイコロキャラメルなどを持って行ったのに、私はおにぎりとサンドイッチを食べ切るだけで精一杯で、大好きなお菓子を楽しむ余裕はありませんでした。

よく「遠足の前日の子どものように」という表現を見かけます。これは嬉しくて興奮して眠れないことを意味するようですが、私は、遠足の前の日には、いつも「明日の遠足のバスは、目的地に到着する前に谷底に落ちればいいなぁ」と願っている子どもでした。

◇ ◇ ◇

中学校を卒業して高校に進学したら、給食はなくなりました。級友の多くはお母さんに作ってもらったお弁当を持参していました。私の通った高校には食堂はありませんでしたが、朝パンを注文することができました。そこで私は母からお金を貰ってパンを買うことにしました。パンを買うのは大抵運動部の男子で、お弁当を早弁用とお昼用の2個持ってきているにも関わらず、それでも足りなくてパンを買っていました。

女子でパンを買う子は滅多にいませんでした。お母さんが病気になったとか、なにか突発的な出来事があった緊急の場合に買う子がいる程度でした。それでも私は母からいつもパンを3個買うお金を貰って、実際には2個か1個しか買わないようにしていました。そうすれば、その分お金が浮いて、荒井由美やQUEENのLP レコードを買うことができました。

ですから、私は周囲の子たちの可愛らしいお弁当を見ても少しも羨ましいとは思っていませんでした。「うちの母親はお弁当作りに命をかけるくらいしかやることがないんだよね」と反抗期らしい自虐ネタで周囲の笑いを取る友人の、彩り豊かな、そしてプチトマトがアクセントになっているお弁当を見ても、売店で買う玉子やハムが挟まったコッペパンの方が実利的でいいと思っていました。

当時流行り始めていたサンリオの可愛いキャラクターが柄についているスプーンやフォークをみても、お弁当箱を包むナプキンを見ても、通学カバンも軽くて済む売店のパンの方がずっといいと思っていました。

それでも、そんな日々の中、私は自分でお弁当を作ろうと試みたことが何度かありました。しかし、母は冷蔵庫の中の食材を勝手に使ってもらっては困る、台所も家を出るまでにきちんと全部片付けなさいと迷惑そうな様子でした。母の機嫌を損ねてまでお弁当を作るくらいなら、パン3個分のお金をもらう方がずっと楽だったので、いつに間にか自作弁当も立ち消えになりました。

そんなある日のことでした。3歳違いの弟が通っている中学校、それは私の卒業した中学校でもありましたが、そこの給食センターから火が出て全焼してしまいました。しばらくの間、給食室が再建されるまでの間、中学校の生徒は自宅からお弁当を持参しなくてはならないこととなりました。

中学校には売店もないので「とにかくなんでもいいから作ってよ」と弟にせがまれた母は、晩御飯のおかずの残りを適当に詰めてお弁当を作ることになりました。その時、母は弟のお弁当だけを作りました。もしかすると、あの時「私の分も作って」とお願いしたら作ってくれたかもしれません。でも私には頼めませんでした。

なぜなら、母はお弁当が作れないから給食のある幼稚園を選んだということを私はよく覚えていました。運動会の時も、遠足の時も、母はお弁当といえば前日から寝ずにお弁当作りにいそしみました。そして、一旦作るとなれば、おにぎりとおいなりさんと太巻きとを全部をお重箱に並べたり、また、おにぎり6つとサンドイッチ一斤という極端なものしか作れないことをよくわかっていました。

弟は、せっせと母にお弁当の注文をしました。友人のお弁当は海苔と海苔の間に鰹節とご飯が交互に入っているんだよとか、別の友人のお弁当には近頃流行りの冷凍食品のハンバーグやシュウマイが入っているんだよとか、あれこれ母を指導(?)しているうちに、母もそれらしいお弁当が作るようになっていきました。

弟のお弁当作りは半年、あるいは一年くらい続いたでしょうか。でもその間、ただの一度も母は私のお弁当を作ることはありませんでした。作ろうかと聞かれたこともありませんでした。私も作って欲しいとは言いませんでした。

毎朝母から今日のお昼のパン代をもらう時に、母はどうして私のお弁当を作ろうと思わないのだろうかと思いました。客観的にいっても母は料理が得意でした。一人分も二人分も手間はそれほど変わらないと思うのに、母には私のお弁当を作るという発想自体がないようでした。

そのうちに、給食センターも復旧し、母のお弁当作りも終了しました。それからしばらくして、弟が高校へ進学すると、再び弟の指導のもと(?)、母のお弁当作りは再開しました。弟の高校進学と同時に私は大学へ進学したので、私のお弁当は当然のようにありませんでした。自分で作ると母に対して当てつけがましいようで、自分で作ることもありませんでした。

就職してから、同期の子らがお弁当を持ってきているのを傍目に、私はいつも外食していました。買ってきて食べることもありましたが、自分でお弁当を作ることはありませんでした。私にとって手作りのお弁当は無縁、でした。

◇ ◇ ◇

それから、何十年もの月日が経ちました。

平成を飛び越して令和の世になってからのことです。父が他界してからおよそ20年間、実家で一人暮らしをしていた母ですが、米寿近くになると、包丁の手つきも危うい様子になってきました。母自身は「大丈夫、大丈夫」とはいうものの、どう見ても全然大丈夫ではありませんでした。それでも母は一人暮らしを続けると主張しました。

日々の買い物や食事を心配して、私は何度も高齢者の食事を作り置きしてくれる家事代行サービスを頼んではどうかと提案しましたが、母は他人に家の台所に入って欲しくないと言い張り、弟に直談判して、冷凍食品の宅配弁当を送ってもらうように算段してしまいました。弟からも本人が嫌がっているからという理由で、食事の作り置きサービスの提案は却下されてしまいました。

しかしながら、冷凍食品は解凍ムラがあり、どれを食べても同じ味で、というよりそもそも味などしないし、これこそが本当に「味気ない食事」だと感じました。それでも最初のうちはなんとか一人で解凍していた母ですが、その内、電子レンジでの解凍すらもなかなか大変になってきました。実家への訪問頻度を上げ、私があれこれおかずを作ったり、果物を持って行くようになりました。

それでも毎週とはいかないので、最初は、冷蔵の宅急便で、甘夏の皮や薄皮をむいて食べやすくしたり、メロンやパイナップルを切ったものをタッパーに入れて送るようになり、その内、おかずを作って送るようにしました。冷凍の宅配弁当もあれこれ会社を変えてやわらかいお弁当を探したりしましたが、結局、私が自分自身でお弁当を作って送ることにしました。

私は料理が好きで、朝食も、昼食も、夕食も、お菓子も色々なものをよく作ります。ただ、お弁当だけは一度も作ったことがありませんでした。「お弁当」と思い浮かべるだけで、どこか切ない気持ちになるからでした。それでも、年老いた母にはお弁当を作って届けてあげたいと思うようになりました。

ひとり、家の台所に立って、どうやったらやわらかく、食べやすく、おいしいお弁当がつくれるかを考えながら包丁を入れ、煮付け、炒めていると、「なぜ母は私にお弁当を作ってあげようと思わなかったのか」という疑問が、体の奥深いところから何度も何度も湧き上がってきました。

「子どもに少しでもおいしいものを食べさせてやりたい」という思いは母にはなかったのかと聞いてみたいという思いが、抑えつけても抑えつけても、止めどもなく突き上がってくるのでした。小学校の遠足の時、高校生の時、私は本当は何を望んでいたのだろうと何度も反芻しました。

母にこの問いを突きつける代わりに、万感の思いを込めて、母が好きなものを中心に、やわらかくて、おいしくて、食べやすく、痛みにくいお弁当を作りました。週に二度、自宅に集荷に来てもらい、冷蔵でお弁当を送りました。昼間作ったお弁当が翌朝には実家に届く便利な時代に感謝しました。

冷蔵のお弁当ならば、解凍ムラはできません。母は「おいしいわねぇ」「いつもありがとう」と言ってくれました。うん、そうでしょう、おいしいでしょう? ママの笑顔を想像して作っているのよ。

母はついに昨年の春、救急搬送されたのを機に一人暮らしは断念し、私の住まいのすぐ近所の有料老人ホームに引っ越してきてもらいました。徒歩5分、自転車で1分の近居です。今は週に一度、母と昼食を食べにお出掛けするという習慣になりました。

◇ ◇ ◇

私は、長い間、摂食障害に苦しんできました。食べても食べても満腹にならないのです。苦しい日々が続きました。重篤な病気にならないかと心配するほどでした。幸い今日まで元気に暮らしていますが、40代から50代にかけてカウンセリングに通ったり、大きな病院の内分泌科に通ったりと随分ジタバタしてきました。

摂食障害の原因のひとつに母娘関係があると多くの専門家が指摘しています。それを見聞きするたびに、私は6つのおにぎりと一斤のサンドイッチという過剰な遠足のお弁当や、手作り弁当を食べている級友の中でたった一人パンを買って食べていた高校生の自分の姿を思い起こしました。

私の人生はダイエットとの闘いだったのですが、ふとこの前、これからは自分のためにお弁当を作ろうとと思いつきました。夫の分も作ろうかと聞いてみたら、会食も多いし、昼時に街をふらつくのは一種の気分転換だからいいよと言われてしまったので、自分の分だけ作ることにしました。

お弁当箱は家にあるいつものタッパーで、普通にご飯を詰めて、肉や魚や野菜のおかずと玉子焼きを入れるだけのなんの変哲もない普通のお弁当を作りました。これこそ何十年もの間、私にとっては思い浮かべるだけで胸の奥が苦しくなるお弁当なのでした。ある日、憑き物が落ちたように「お弁当を作ろう」と思ったのです。

職場にお弁当を持って行きました。高校生の頃みんなが包んでいたような可愛らしいナプキンなどないので、スーパーの袋に入れて、割り箸を添えました。そして小学校の遠足の時に、みんなと少し離れたところでお弁当を開けたように、隣のビルの一階の休憩室までわざわざ行ってお弁当箱を開けてみました。

私のために作られたお弁当でした。

お弁当の蓋を開けて、箸をつけ、おかずを口に運ぶと胸がいっぱいになりました。作ったのは私自身ですが、自分が大切にされているのを感じました。お弁当を作るということは、誰かを大切にするということなのだと思いました。

幼稚園選定をしたのはおそらく入園の前年の1963年だったことでしょう。あの日「ママはお弁当なんてつくれないわ」と言った母の表情と口調を覚えてます。それから丁度60年。暦がひと回りした今年2023年に、私は積年の思いの詰まった自作のお弁当を食べました。誰かに全身をそっと包まれて、大切にされている感じを味わいました。これがお弁当の味なのかと思いました。

今では週に何度か、自分の作ったお弁当によって、自分自身が大切にされているのを感じています。


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