218.文字に色「共感覚」
これはフランスの詩人アルチュール・ランボーの「母音」という詩の冒頭です。青空文庫から中原中也訳による出だしを引用しました。私がこの詩に出逢った時の衝撃は大変なものでした。自分以外に文字に色を感じている人の存在を、初めて認識した瞬間でした。私は三十代になっていました。
私の場合、物心ついた時からすべての文字に色がありました。ひらがなにもカタカナにも漢字にもアルファベットにも数字にも音符にも、すべての文字に色がありました。
今回は、私自身の共感覚の認知の過程について述べてみようと思います。
子どもの頃のエピソード
子どもの頃、自宅で近所の子どもたちと共に遊んでいると、時々母宛てに電話がかかってきました。母が買い物などでいない時には、誰からの電話だったかを必ずメモするように言いつけられていましたが、私は大抵遊びに夢中でそれどころではなく、受話器を置くとすぐに遊びの輪の中へ戻り、電話をかけてきた人の名前を覚えたつもりでも、その内にすっかり忘れてしまうのでした。
夕方になって母が戻ってきて、
「電話なかった?」と聞かれると、ハッとして
「あった」と答えます。
「誰からだったの?」
「……」
「あら、またメモしなかったのね」
「ごめんなさい」
「誰だったの? 佐藤さん?」
「ううん。違う。赤い名前の人」
「まあ、この子はまた訳のわからないこと言って…。じゃ、田中さん?」
「ううん。田中さんは青いから違う」
「じゃ井上さん?」
「ううん。井上さんは黄色」
「それじゃ、渡辺さん?」
「あ、渡辺さんは赤いけど、もっと明るい色の人」
「明るい色の人って言ったって…。じゃ、加藤さん?」
「そう! 加藤さん! 明るい朱色」
「加藤さん? 加藤さんでいいのね。間違いないのね」
「うん。色がぴったりだから間違いない」
「まったくこの子は、いつも何を言っているんだか…。これからはちゃんとメモするのよ。忘れちゃダメよ」と言いながら、母は加藤さんに電話をかけます。色がぴったりの時に相手が違っていたなどということはありませんでした。
私は遊びに心を奪われると言いつけを守れない子どもだったので、このようなやりとりは幾度となく繰り返されました。
◇ ◇ ◇
私にとってすべての文字に色がついているというのはごく普通の感覚で、その感覚は誰でも備わっていると思っていました。まさか文字に色がついていない人がこの世にいるとは想像もしていませんでした。しかも他者とそれぞれの文字の色は共通なのだと思っていました。晴れた日に空を見上げれば誰しもが空は「青」に見えるように、「空」という文字を見れば誰しもそれはほんのりグレイがかった白に見えるのだとばかり思っていました。
それが、もっとも身近な母との間で会話がチグハグになるのは不思議なことでした。加藤さんが朱色なのはわかりきったことなのに、なぜ母にはそれがわからないのだろうと思っていました。
このような感覚について近所の子どもたちと交わすことはなかったのですが、大きくなるにつれて、どうやら他の人は文字に色はついていないらしいことが次第にわかってきました。
しかし、私にとって文字に色があることはあまりにも当たり前のことなので、そうでない人がいるとは、もしかしたら、他の人は空の色が青ではなく、黄色やピンクに見えているのかもしれない、でも小さな頃から黄色に見える空の色を青と呼ぶのだと教えられて生きているのではないかなどと、真面目に心配しているような子どもでした。
学校で新出漢字を習うと、習ったその時点で既に色がついていました。
小学生も高学年になると、日常生活の中にデジタル時計が登場してきました。文字の色は大抵黒や白一色でしたが、私にはひとつひとつの数字に違った色が見えました。デジタル時計を眺めていると、パラリ、パラリと分の数字が変わるたびに、色がどんどん変わっていくのが美しくてしばしばうっとりと見惚れていることがありました。時々十の位の数字と一の位の数字が同時に変わったり、正時になると一斉に文字の色が変わるのは壮観でした。
加藤さんと佐藤さん / 藤山さんと藤岡さん
この文字に色がついているという感覚は便利でした。学生の頃は曜日ごとの仕分けは、月火水木金土日のそれぞれの色のファイルを用意しておけば楽だったし、年号などの暗記の時には、配色を覚えればそれで良かったからです。ただ円周率の冒頭部分は甘くておいしそうな配色でしたが、途中からなんだか固そうになって覚えるのを放棄したということもありました。
勤め始めてからも、顧客の名前は色ごとに整理すれば、いちいち見出しをつけなくて済むので便利でした。この色彩で記憶するというのは、とても印象的なので間違うことはまずありません。
人の名前を思い出せない時に「ほらほら、あの人。あの目が大きくて、色白で」などと顔は思い出せるのに名前が思い出せないというのに似ています。視覚的な記憶の方が、言葉よりも記憶に残りやすいように思えます。ですから子どもの頃、赤い名前の人などという変な記憶の残り方をしたのではないかと思います。とはいえ、今でも名前は思い出せなくても、その人の色は覚えているということはよくあります。
人や物の名前の場合には、大抵最初の文字の色によってそのもの全体の色が決まります。加藤さんと佐藤さんでは、二番目に来る「藤」という文字は同じでも、加藤さんは朱色で、佐藤さんは桃色とはっきりとした色の違いがあります。ところが藤山さんと藤岡さんでは、ほぼ同じ色で紫がかった紺色に見えます。山の文字は白っぽく、岡は焦茶色なので、藤岡さんの方が全体的に黒っぽい感じはありますが、紫がかった紺色という第一印象が大きく変わることはありません。
学生時代や就職してから、仲の良い友人に、文字に色があることを話したことはありますが、同じ感覚を持っている人には出逢ったことはありませんでした。それでもみんなおもしろがって、決まって「私は何色?」と質問されました。名前の漢字をひとつずつ答えると「へえ、私って◯色なんだ」と感心したり「え〜、もっと綺麗な色が良かったな」などと反応が返ってきました。
次に「中国にしかない漢字にも色があるの?」とか「この色は変わらないの?」などと質問をうけました。中国にしかない漢字でも部位によって色が喚起されることもあれば、見たことのない漢字の場合ほとんど無色で色を感じないこともありました。ちなみにアラビア語やタイ語やハングル文字など、私にとってあまり馴染みのない言語の文字に色を感じたことはありません。
私の場合、文字の色は生涯を通じて変化しませんが、中にはシチュエーションに合わせて、色が変化する文字がいくつかあります。単語の中の何番目の文字に位置するかで色が変化することがあるのです。また縞々の色を持った文字もあります。そしてすべての文字に優劣がないのと同じように色にも優劣はありません。これらの感覚に自分の意志は関わりません。ただ見えるものをそのまま受け入れるだけです。
音符にも色があります。とはいえ、私の場合は、ドレミファソラシドというカタカナそのものに色がついているのです。前に絶対音感があるということを書いたことがありましたが(023. ピアノのお稽古)、私には音楽はすべてソミミ、ファレレ、ドレミファソソソと言うように聞こえてくるのですが、それは水桃桃、青黄黄、茶黄桃青水水水というように感じるのでした。
ただし、音を聴いて音そのものから色を感じるという「色聴」というわけではなく、音がソミミなどという文字に変換されて聴こえるため、その変換された文字の色を感じるという少しややこしいことになっています。
Urbannet とアーバンネット
大抵の場合、文字の色は便利でしたが、一度だけこの感覚のせいで顧客との約束に遅れそうになったことがありました。私の文字の色はそれぞれの文字に固有なので、同じ対象物でもそれを表現する文字がカタカナなのかアルファベットなのかによって色が違うということに原因がありました。
ある時、顧客を訪問しようと同僚とビルの一階で待ち合わせをしていたのですが、十分前という約束時間に同僚が現れません。その頃はまだ携帯電話もなく、どうしたものかと思っていた時、ふと、これから訪問する顧客は外国人なので、電話でアポイントメントを取った時、会話が英語だったのでメモも自然に英語で取っていたことを思い出しました。
その日私は、大手町のファーストスクエアビルの一階で待っていました。ところがよくよく思い出してみると、メモで Urbannet と書いていたため、U=青、つまり青いビルだと思い込んでいて、First Square Building、ファーストスクエアビルだと勘違いしているのではないかと思い当たったのです。なぜならファーストスクエアビルはアルファベットで書いてもカタカナで書いても、どちらもF=青、ファ=青なので、ファーストスクエアビルは青いビルという認識がありました。
ところがアーバンネットビルの方は、 カタカナで書くとアーバンネット。ア=赤なので、普段から赤いビルという認識でしたが、その日に限ってアルファベットで Urbannet とメモしてしまったので、U=青で、青いビルとインプットされてしまい、青いビルのファーストスクエアビルに来てしまったのではないかと思い当たりました。無意識のうちに色で判断していたようです。
幸いなことにファーストスクエアビルからアーバンネットビルまでは徒歩五分程だったので、きっと私の色の勘違いによるものだと思い、すぐにアーバンネットビルの一階の大型スクリーンの前に行くと同僚がちゃんと待っていました。なんとか遅刻せずに約束の時間ギリギリに顧客のもとを訪ねることができたという経験がありました。
こんな複雑でなかなか理解してもらえそうもない言い訳は、しても仕方ないと約束の十分前に来られなかったことを謝っただけでしたが、自分の中では驚くべき失態だと深く反省しました。以後アルファベットのメモは要注意だと肝に銘じました。
立花隆著 『臨死体験』
そんなある日のこと、それは1994年の秋の休日ことでした。出版されたばかりの立花隆著『臨死体験』という本を読んでいた時のことです。次のような文章に出逢いました。臨死体験をしたというアトウォーターさんという人物にその時の様子を著者がたずねている場面でした。
この箇所を読んだ時、私は狂喜乱舞する思いでした。初めて自分以外に文字に色を感じる人の存在を知ったこと、しかもそれが憧れの天才詩人ランボーだということ、さらにこの感覚には名前がついていて「共感覚」あるいは「色聴」と呼ばれていることなど、これまで自分しか知り得なかったこの感覚に関して、圧倒的な情報が自分の中に入ってきて、脳内の情報処理が追いつかない思いでした。
興奮冷めやらぬまま、私は居間にいた母にこの本を見せました。母の反応は「この子は小さい頃から変わった子だとは思っていたけれど、他にも同じような人がいたのね」というものでした。
少し気持ちが落ち着いて、再度この文章を読み返してみると「Aは黒、Eは白、Iは赤、Uは緑、Oは青」と書かれています。その時、突然ランボーの両肩に手を置いて「何を言っているの? よく思い出して! Aは赤、Eは緑、Iは黄、Uは青、Oは黒に決まっているじゃない」と両肩を揺さぶってやりたいような気持ちに襲われました。なぜそんな当たり前のことがわからないのかという思いでした。
そしてしばらくするうちに、もしかしたら文字に色がある人といえど、その色は人によってまちまちで共有されていないのかもしれないと思うようになりました。ランボーの詩「母音」を知って初めて気づいたことでした。それでも「共感覚」と「色聴」という言葉を手に入れたので、それをキーワードに色々と調べられるのではないかと思うようになりました。
V.S.ラマチャンドラン著 『脳のなかの幽霊、ふたたび』
2000年代に入ると、「共感覚」についの情報量が飛躍的に増えました。
その一つは2005年7月に出版された V.S.ラマチャンドラン著『脳のなかの幽霊、ふたたび』という書物でした。この本は1999年に発行された同じ著者の『脳のなかの幽霊』の続編です。解剖学者の養老孟司が解説をしているということで当時の新聞各紙の書評などでも大きく取り上げられていたのでご存知の方もいらっしゃると思います。
著者のV.S.ラマチャンドランは、カリフォルニア大学サンディエゴ校の脳認知センターの教授および所長で、ソーク研究所の兼任教授でもありました。視覚や幻肢の研究で知られています。切断された手足がまだあると感じるスポーツ選手や自分の体の一部を人のものだと主張する患者などの奇妙な症状を手掛かりに、脳の仕組みや働きについて考えた本書は、文学的で美しい修辞に溢れ、ベストセラーになりました。
その続編の『脳のなかの幽霊、ふたたび』の方では、「共感覚」について多くのページが割かれていました。例えば次のような文章がありました。
さらに次のような文章にも出逢うことができました。
私はこの最後の一文「共感覚者を対象にした脳機能画像の実験では、共感覚者にモノクロの数字を見せると紡錘状回の色の領野が活性化することが示されています」を読んだ時、子どもの頃から黒一色のデジタル時計がパラリ、パラリと変わっていくたびに美しいとうっとり眺めていた時、私の脳の中の紡錘状回の色の領域が活性化していたのかと思いました。
私の場合、数字ではありませんでしたが、遅刻しそうになった時のエピソードは「色を喚起するのは(数の概念ではなく、数)字の視覚的な外形だということを示しているからです」の一例ではないかと感じました。そこにはビルそのものの色やビル名の発音や意味などはまったく関係なく「紡錘状回は、数字や文字の視覚的外形を表象するところ」の一例だったように感じます。
さらに次の文章が続きます。
私は、この本を読んで興奮しました。現代脳科学の専門家である神経内科医が共感覚にアプローチするということは、こういうことなのかと思ったからです。
BBCの「共感覚」ドキュメンタリー
V.S.ラマチャンドラン著『脳のなかの幽霊、ふたたび』が日本で翻訳して出版される前年の2004年、英国のBBC放送が「“共感覚”の不思議~言葉誕生の謎に迫る」 という番組を制作しました。日本ではNHKのBS1で、2005年11月6日(日)午後11・10~深夜0・00 に放映されました。この時の番組は次のように紹介されました。
私はこの番組を録画して、何度も何度も繰り返して見ました。私の共感覚などまったく平凡なもので、数字が立体的な配列を持った人や、音と色が関連づいている人や、立体的でカラフルなカレンダーが常に目の前に現れている人物などが次々と紹介されていました。
これまで文字では共感覚の説明を読んできましたが、他の共感覚者が見える世界を色彩豊かな映像で見るのは初めてのことで、驚くべき世界があるのだということを知りました。私の感覚など「低次の共感覚」だとしみじみ感じました。
mixi の「共感覚コミュニティ」オフ会
2006年頃、mixi に「共感覚」というコミュニティがあることを発見しました。BBCの番組のように、日本でも様々な共感覚をもった人々が自分の共感覚について語り合っていました。色鉛筆で描いた自分の共感覚の画像をアップしている人もいました。おもしろそうなので私も入会してみました。
しばらくして、その中の一人が「オフ会でもしませんか?」というトピックスを立てました。その方は「私が横浜に住んでいるので、興味がある人が4人以上なら企画してみようかなと思います」と提案してくれたのです。
そして2008年9月6日土曜日、横浜駅近くの居酒屋でおよそ10人ほどの共感覚者と、共感覚の研究者が集まり、初のオフ会が開かれました。私にとってはもちろん、他の参加者の多くも、生まれて初めて自分以外の共感覚者に会うという記念すべき日になりました。
会場となった居酒屋は、入り口で靴を脱ぎ、下駄箱に入れてそれぞれの番号札を抜き取って席に着くというシステムを取っていましたが、まだ自己紹介もしていないうちから、参加者は「私は23番だから、黄色と桃色」「僕は46番だから赤と青」などと口々に言いながら番号札を抜きました。横から「え? 23番なら緑と茶だよ」などという横槍も入りました。
そこにいる全員が、自分の思ったことをそのまま口に出しました。それは、みんな生まれて初めての経験でした。全員が、興奮気味に自分の共感覚について自由に語りました。そこは自分と一緒、そこは私とは違うなどとたくさんの意見交換をしました。どの人の話もとても興味深かったし、これほど共感し合える人たちがいるなんてと感激しました。
全員が二次会にも参加しました。お店を移る間に車の音を聞いて、今のエンジンの音は何色かという話にも発展しました。音や色や匂いや文字や数字や音符など参加者それぞれに様々な共感覚がありました。中には数字と重さの関係を口にする参加者もいました。
「数字の1と2を比べると1の方が重い。2と3を比べると3の方が重いよね」と言うので、「それでは1と3はどっちが重いの?」と尋ねてみたら、しばらく考えて「それは一度も比べたことがないからわからない」と答えました。みんなこれまで口にしなかったような感覚をどんどん表現しました。
この時のメンバーには、翌年2009年7月5日(日)に京都造形芸術大学で行われた「表象文化論学会第 4 回大会」でのパネル発表につなげた参加者もいたし、実際に本を出版することになった参加者もいました。
共感覚をもっと知る書籍
先に引用した立花隆著『臨死体験』 文藝春秋社 1994や、V.S.ラマチャンドラン著『脳のなかの幽霊、ふたたび』 角川書店 2005 以外にも、2000年代以降、共感覚に関する書籍も数多く出版されるようになってきました。私の手元にあるだけで、次のような書籍があります。本のタイトルを見るだけで、豊かな共感覚の世界が感じられます。
○ リチャード・E・シトーウィック著 山下篤子訳『共感覚者の驚くべき日常 形を味わう人、色を聴く人』 草思社 2002年4月30日
○ パトリシア・リン・ダフィー著 石田理恵訳『ねこは青、子ねこは黄緑 共感覚者が自ら語る不思議な世界』早川書房 2002年7月20日
○ ジョン・ハリソン著 松尾香弥子訳『共感覚 もっとも奇妙な知覚世界』 新曜社 2006年5月20日
○ ダニエル・タメット著 古屋美登里訳『僕には数字が風景に見える』 講談社 2007年6月11日
○ 岩崎純一著『音に色が見える世界 「共感覚」とは何か』 PHP新書 2009年9月29日
○ 岩崎純一著『私には女性の排卵が見える 共感覚者の不思議な世界』幻冬者新書 2011年5月30日
○ ジェイミー・ウォード著 長尾力訳『カエルの声はなぜ青いのか? 共感覚が教えてくれること』 青土社 2012年1月10日
○ 望月菜南子著『1は赤い。そして世界は緑と青でできている。「文字に色が見える」共感覚の話』 飛鳥新社 2020年8月13日
○ 伊藤浩介著『ドレミファソラシは虹の七色? 知られざる「共感覚」の世界』 光文社新書 2021年3月30日
多くの著者が指摘している通り、私の場合においても子どもの頃の方が共感覚が強くて、見える色も鮮やかでしたが、還暦を過ぎた今ではその感覚が薄らいでいるのを感じます。それでも今日でも無意識のうちに人や物を色で記憶したり、色で判別したりしています。デジタル時計は相変わらず一分ごとに色が変わってきれいです。今日の日経平均株価は全体的に黄色っぽいなと思うこともあります。
◇ ◇ ◇
私にとっては共感覚自体は、子どもの頃から当たり前にある感覚ですが、大人になって、この感覚には「共感覚」という名前がついていて、他にも様々な共感覚があることを知り、ついには同じ共感覚者の方々と直接お会いできるようになったという認識の過程は、現代社会ならではの醍醐味だと感じました。
多くの研究者が指摘するように、詩人ランボーを始め、画家のカンディンスキー、作家のナボコフ、作曲家のメシアンなど様々な分野に共感覚者が存在していたことがわかっていますが、この感覚は遺伝が指摘されていますから、19世紀にも18世紀にも、日本ならば明治時代にも江戸時代にも、国内外を問わずもっともっと昔から共感覚者は一定数存在していたと思われます。
しかし、大半の共感覚者は自らのもつその感覚について何も知ることなく生涯を終えていた時代に比べて、現代は、出版、放送、インターネット上のSNS、学会と様々な媒体によって、共感覚者が自分の感覚を知り、相対化し、共感覚者同士が交流できるという時代になったのだと思いました。地球がグングンと小さくなるのを実感した三十年でした。
本稿をお読みくださった方の中にも、おそらく共感覚者はいらっしゃると思います。何か情報があれば教えてくださると幸いです。
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