023.ピアノのお稽古

バイエル、ソルフェージュ、ブルグミュラー25、チェルニー100番、ソナチネアルバム、ハノン、チェルニー30番、ソナタ…、こうして楽譜のタイトルを並べるだけで、胸がキュンとして子どもの頃に戻ったような気がします。

私は1歳のお誕生日におもちゃのピアノを買ってもらって以来、自分勝手に弾いているうちに、ピアノの先生につきたいと自分から親に頼んで、先生を探してもらいました。幼稚園の頃でした。初回のレッスンの時に、先生の前で「腕前」を披露したら、「このレベルなら『赤いバイエル』は飛ばして『黄色いバイエル』の途中から始めましょう」ということになりました。

大人になって最相葉子『絶対音感』を読んで、絶対音感の奥行きの深さに驚かされましたが、私は初めてのレッスンの頃には既に絶対音感があったと思います。今日でも、音楽はすべてソミミ、ファレレ、ドレミファソソソと言うように聞こえてきます。かなり大きくなるまで、それが普通だと思っていました、というより、そうでない音の聞こえ方があるとは想像したこともありませんでした。

ピアノの先生についた時、オルガンを買ってもらいました。きっと父のお給料ではいきなりピアノを買うのは大変だったのだろうと思います。それでもおもちゃのピアノからは格段に鍵盤の数が多くなって、毎日何時間もオルガンでバイエルを弾いていました。学校にも足踏みオルガンがあって、休み時間には競って皆んなで弾いていたものです。

本物のピアノを買ってもらったのは小学校2年生の時でした。もう嬉しくてたまりませんでした。とは言え、将来はピアニストになるかバレリーナになるかはすぐには決められないほど、当時の私にとっては難題でした。将来ステージ上で挨拶するための練習も、ピアニスト用と、バレリーナ用と両方練習していたものでした。

最初の頃は、ピアノの練習は「もうやめなさい」といわれるまで何時間でもしていましたが、次第に飽きてきました。その上、ピアノの先生のお宅に少し早く行くと、前の子のレッスンがまだ終わっていないことがあって、その子は私よりも下の学年なのに、私よりずっと難しい曲をなんなく弾きこなしているのを見て、少しずつやる気を失っていきました。

3年生になると、ピアノのお稽古は毎週火曜日になりました。学校から帰ってきて「あ、今日は火曜日だった…」というと、ピアノの上に置きっぱなしになっている女の子の顔が描いてあるレッスンバッグの3辺のファスナーをグルリと開いて慌てて練習を始めたものでした。レッスンバッグは、大判の楽譜がちょうど入るくらいの大きさの塩化ビニール製で、目の中にたくさん星の入っている女の子の絵がついていました。

1週間ぶりにレッスンバッグを開けて楽譜を取り出すと、楽譜の右上に「あんぷ」と書かれています。「暗譜」のことです。1週間よく練習してこの楽譜を見なくても弾けるように覚えてきなさいという先生の指示です。そういえばそうだったと思っても、今からでは暗譜は間に合わず、2、3回さらって、急いで楽譜をしまいこみ、先生のお宅へ駆けていくような有様でした。

先生のお宅は母屋に建て増ししたレッスン室があって、ピアノのあるお部屋と待合室に別れていました。待合室にはモジリアニの複製画がかかっていて、暗譜をしてこなかった私のことを、その緑色の目がジッと見つめていました。

前の女の子の華麗な演奏が終わって私の番になると、モタモタする演奏に先生はため息をつき、時には2本の指を揃えて私の手の甲をピシリと叩きました。そして、楽譜の「あんぷ」という文字を赤鉛筆でぐるりと囲み、来週までには必ず暗譜をしてくるように言われるのでした。

翌週も同じことが繰り返されました。「あ、今日は火曜日…」から始まって、先週とまったく同じことが繰り返されました。違うのは「あんぷ」の文字が赤鉛筆で囲まれていることくらいでした。再びモジリアニの緑色の目に見つめられたあと、レッスン室で先生のため息を何度も聞き、今度は青鉛筆でぐるりとされてとぼとぼと帰宅しました。

さすがに青鉛筆はこたえて、その週は何度も練習をしてなんとか暗譜をし、次の火曜日にはようやく次の曲に進むという具合で、毎曲毎曲同じようなテンポで進んでいきました。

私は今でも、どこかでモジリアニの絵画を見かけると、必ず「暗譜」という言葉と、あの寒々としたピアノの待合室の光景が浮かんできます。

ピアノの発表会は、年に一度ありました。私が通っていた教室の発表会は、新宿の安田生命ホールを借り切って行なう大々的なもので、演奏を録音してレコードにまでしてくれるというものでした。ある時、なんという曲を弾いたのか覚えていませんが、私は緊張のあまり最後のところをもう1オクターブ多く弾いてしまい、それがレコードになってしまったという思い出があります。


5年生の時に引越しをしたので、ピアノの先生も変わりました。今度の先生のピアノは茶色いピアノでおしゃれな感じがしました。そして楽譜もハノンやらチェルニーやらソナチネやら毎回5冊を練習していくことになりました。延々と指の練習が続くハノンにはうんざりでしたが、それでもサボリながらもピアノは続けていきました。

6年生の時には、音楽の先生が担任の先生と共に家庭訪問に来て、将来は音楽大学へ進学してはどうか、そのためには今から専門の先生についた方がいいので是非紹介したいとおっしゃってくださったこともありました。私の両親は、お金がかかる音楽大学など我が家ではとんでもない、普通の公立の中学高校、そして普通の大学に進学させますとご好意に感謝しながらもお断りしていました。

バレエは引越ししたあとはもう習っていなかったし、ピアニストの夢もしぼんでいきましたが、それでもピアノが好きだったので、中学生になっても、高校生になっても茶色いピアノの先生のお宅へ通い続けました。いよいよ受験という頃まで習っていました。とはいえ、相変わらず練習もせず、毎回ドタバタでレッスンに行くという性格は変わりませんでした。

ピアノの生産台数のグラフをみると、私の生まれる頃の1958年(昭和33年)から統計が始まり、10万台未満だったものが1980年のピークを迎えて40万台となり、そして現在再び60年前の10万台未満に戻りました。私はピアノの生産台数がみごとに右肩上がりを続けていた頃ピアノを習っていて、ピーク寸前の1977年頃まで習っていました。

昭和40年代(1965年〜1974年)、小学校のひとクラスは45人の生徒がいて、男女ほぼ半々でした。東京郊外の私の通っていた小学校では、クラスの女子の半分の10人くらいはピアノを習っていたと思います。中学校になるとひとクラス5人くらいに減っていたでしょうか。それでもあの頃は住宅地を歩くと、どこからかつたない練習曲が聞こえてきたものでした。

今では、もうシャープやフラットがたくさんついた楽譜は読めなくなってしまいました。それでも「三つ子の魂百まで」とはよく言ったもので、最近では卓上ピアノを購入して「大人のピアノ」というハ長調の楽譜でなんちゃってショパンや荒井由美のアレンジなどを弾いて楽しんでいます。また、交響楽団の定期公演の会員になったり、好きなピアニストのリサイタルに出かけたり、バレエも先行予約会員になったりしています。もちろん好きなことに熱中しては飽き、それでも長く続けていくというのも相変わらずです。

好きなピアノ曲は何かと問われれば、ショパン、ドビュッシー、バッハ、ベートーヴェンなど数々ありますが、もしも一曲だけ選べといわれたら私は迷わず「乙女の祈り」を選びます。今、ここにこうして「乙女の祈り」と書くだけで胸の奥から熱いものが込み上げてきて涙がこぼれそうになるほどです。小さな子どもだった私のピアノへの憧れがすべて詰まった一曲なのです。

ピアノのお稽古に通わせてもらったおかげで、人生が音楽に彩られ、ハーモニーで膨らんだように感じています。プロフェッショナルの演奏家のリサイタルを聴くだけでなく、「のだめカンタービレ」「ピアノの森」のような練習自体がテーマの漫画やアニメを楽しむことができるのは、あのレッスンバッグやモジリアニの緑色の目の延長上にあるからだと思うからです。


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