117.悲しくてやりきれない

本稿は、2019年10月26日に掲載した記事の再録です。

日本中に大きな爪痕を残した大きな台風が過ぎ去ってみると、季節が変わっていました。すっかり涼しくなった道を歩きながら思わず小声で、ちいさい秋、ちいさい秋、ちいさい秋、みぃつけた…という歌を口ずさんでいるのに気づきました。

これはサトウハチローの作詞、中田喜直作曲の「ちいさい秋みつけた」という童謡です。哀愁を含んだその詩と、郷愁を誘うその旋律とによって、いつの間にか幼い日の情景の中に引き戻されてしまいます。(Youtubeはこちら

ちいさい秋みつけた
作詞:サトウハチロー
作曲:中田喜直

誰かさんが 誰かさんが
誰かさんが みつけた
ちいさい秋 ちいさい秋
ちいさい秋 みつけた
めかくし鬼さん 手のなる方へ
すました お耳に かすかに しみた
よんでる口笛 もずの声
ちいさい秋 ちいさい秋
ちいさい秋 みつけた

誰かさんが 誰かさんが
誰かさんが みつけた
ちいさい秋 ちいさい秋
ちいさい秋 みつけた
お部屋は北向き くもりのガラス
うつろな 目の色 とかした ミルク
わずかなすきから 秋の風
ちいさい秋 ちいさい秋
ちいさい秋 みつけた

誰かさんが 誰かさんが
誰かさんが みつけた
ちいさい秋 ちいさい秋
ちいさい秋 みつけた
むかしの むかしの 風見の鳥の
ぼやけた とさかに はぜの葉 ひとつ
はぜの葉 赤くて 入日色(いりひいろ)
ちいさい秋 ちいさい秋
ちいさい秋 みつけた


サトウハチローといえば、平成生まれの人たちには、映画「この世界の片隅で」のオープニング曲、コトリンゴの「悲しくてやりきれない」の作詞家といったほうがわかりやすいかもしれません。(Youtubeはこちら

原曲は、1968年に加藤和彦がまず曲を作り、それにサトウハチローが歌詞をつけたもので(Youtubeはこちら)、ザ・フォーク・クルセダーズのロングヒット以来、様々なアーティストによって歌い継がれてきました。

悲しくてやりきれない
作詞:サトウハチロー
作曲:加藤和彦

胸にしみる 空のかがやき
今日も遠くながめ 涙をながす
悲しくて 悲しくて
とてもやりきれない
このやるせない モヤモヤを
だれかに告げようか

白い雲は 流れ流れて
今日も夢はもつれ わびしくゆれる
悲しくて 悲しくて
とてもやりきれない
この限りない むなしさの
救いはないだろうか

深い森の みどりにだかれ
今日も風の唄に しみじみ嘆く
悲しくて 悲しくて
とてもやりきれない
このもえたぎる 苦しさは
明日も続くのか


それにしても、透明感のあるこの軽やかな曲に、サトウハチローはなぜこの歌詞をつけたのでしょうか。

私は今から20年近く前に佐藤愛子の書いた『血脈(上・中・下)』を読むまでは、サトウハチローといえば、「お山の杉の子」「かわいいかくれんぼ」などの童謡を作詞したり、「詩集 おかあさん」などの詩人だとばかり思っていました。

しかし『血脈』には、サトウハチローの、というより佐藤家の人々の壮絶な生き様が描かれていました。佐藤愛子はこの小説で第48回菊池寛賞を受賞しています。

「本当におもしろい小説とは、気がついたら朝だったなどというものではなく、一行一行じっくりと味わい深く読むのにふさわしい小説のことである」などと言う人がいますが、それは「おもしろい」の意味が違うのであって、読者に一気呵成に読ませるパワーを持った小説というのは確かに存在します。佐藤愛子の『血脈』はまさにその類の小説でした。

サトウハチローは、1903年(明治36年)(昭和天皇より2歳年下)、佐藤紅緑の長男として東京牛込薬王寺前で生まれました。サトウハチローの異母妹・佐藤愛子は父親の佐藤紅緑について次のように書いています。

佐藤洽六は雅号を紅緑といい、新聞小説をかかせれば当代人気随一と言われている大衆小説家である。彼が新聞に小説を書けば購読部数が伸び、その小説を劇化すれば必ず当る。小説を書くようになる前は、彼は松竹新派の脚本を書いていた。その前は子規門下の俳人で、その前は新聞記者だった。
『血脈(上)』佐藤愛子著 文春文庫 p.12 より

そして不本意ながらも引き受けた少年小説が大当たりして、「あゝ玉杯に花うけて」で少年倶楽部の発行部数をたちまち30万部から45万部へと押し上げたという伝説の持ち主となりました。講談社の野間社長をして「佐藤紅緑は文士としてでなく国士として遇せよ」と言わせたほどでした。

しかし同時に、佐藤紅緑はサトウハチローら4人と夭折した4人の合計8名の子どもを最初の妻ハルに産ませた上に、いねという芸者上がりの妾を囲い、そこにも後に劇作家・大垣肇となる子をもうけ(もうひとり男の子がいて、それは紅緑の子どもではないけれど、ついでだからと認知)、さらに二十歳の時に女千人斬りを豪語したように、女義太夫を囲い、三味線弾き、芝居茶屋の女中、寄席のお茶子など手当たり次第に関係を持ち続けました。

挙句の果てに、女優を目指して佐藤紅緑を訪ねてきたシナに狂ったような恋をして、サトウハチローの母ハルを離縁して、シナと再婚し、そこにも3人の子どもをもうけました。そのひとりが『血脈』の作者・佐藤愛子です。

佐藤紅緑に漲る才能は、ハル、いね、シナと母親こそ違えど、サトウハチロー、大垣肇、佐藤愛子に受け継がれ、次世代で再び大輪の花を咲かせました。

佐藤愛子が1989年から2000年まで12年に渡って「別冊文藝春秋」に連載を続けた「血脈」が遂に完結し、2001年2月に単行本のためのあとがきが書かれましたが、そこには次のようにあります。

 佐藤紅緑には少年時代に紅緑の書く少年小説を読んで勇気と力を得たという七十代、八十代の読者がまだ健在で、そういう人たちから時々手紙を貰う。またサトウハチローさんは何て優しい純情な方でしょう、ハチローさんの詩集「おかあさん」を読むと心が洗われて涙が出てきます、という人にもよく出会う。「血脈」はその人たちをどんなにか失望させ、憤らせることだろう。書きながらいつもそのことが気にかかっていた。暴露小説だと批判されるかもしれないとも思った。だがそう思ったからといって、書くのをためらうという気持ちは起こらなかった。それを書くことは私にとって必然だった。そう考えるようになっていった。
 紅緑は人一倍高い理想を持ちながら、どうすることも出来ない情念の力に押されて、我と我が理想を踏みにじってしまう男だった。ハチローは感じ易くセンチメンタルで、無邪気な人間であるが、その一面、鋼鉄の冷たさと子供のエゴイズムを剥き出しにした。若い頃の私は紅緑の小説を造り物だと批判し、ハチローの詩を嘘つきの詩だと軽蔑していた。だが「血脈」を書くにつれてだんだんわかってきた。欲望に流された紅緑も本当の紅緑なら、情熱籠めて理想を謳った紅緑も本当であることが。ハチローのエゴイズムにはナイーブな感情が背中合わせになっていたことも。
 紅緑、ハチロー。そしてその血を引く佐藤家の者たちはどうにもならぬ力に押されてまわりを苦しめつつ、自分の胸の奥に人知れず苦しい涙壺を抱えていた。書き終わった時、私の中には、この始末に負えない血に引きずられて苦しんで死んで行った私の一族への何ともいえない辛い哀しい愛が湧き出ていた。
 世間の誰もが理解しなくてもこの私だけはわかる。我がはらからよ。
 今はそう言った充足感だけが私の胸の底にある。
『血脈(下)』文春文庫 p.662−663 より

サトウハチローを始めとしたハルの4人の息子たちは、シナへの愛に狂った紅緑に捨てられ、まるで父親に復讐するかの如く、これでもかこれでもかというように次々に借金、色ごと、夫婦喧嘩、あるいは詐欺まがいの事件を引き起こしていきました。親に金の無心をし続け、放蕩の限りを尽くした後、次男は原爆で、三男はフィリピンの戦場で、四男は女と心中して果てたのでした。

そして「血は水よりも濃い」の言葉のように、生き残った長男サトウハチローは次々に作品を発表し、次々と妻を変えていきます。最初の妻くみ子との間の3人の子どもは、長女ユリヤが11歳の時、突然母親と別れることとなりました。

動物園に連れて行ってもらえるとの約束に、ユリヤ、鳩子、忠の3人の子どもは、てるてる坊主を作って心待ちにしていたある日、母くみ子から「さあ、ランドセルを背負うのよ」と声をかけられ、動物園に行くのになぜランドセルがいるのだろうと不思議に思いつつ用意して車に乗ると、母は眩しそうに額の上に手をかざし、「いっておいで」とひとこと声をかけると車は出発しました。このあとくみ子は役者と駆け落ちします。

子どもたちを乗せた車はサトウハチローが2番目の妻るり子と暮らす家へと向かい、以来、子どもたちは新しい母と暮らすことになります。しかし、その時には3番目の妻となる愛人「蘭子」もいたし、浅草には「まゆみ」もいました。

蘭子が痴話喧嘩で家出をした時など、サトウハチローは仕事が手につかなくなり、そうなると2番目の妻るり子が「大丈夫よう、帰ってきますよう」と母親のように慰める有り様でしたが、弟たちに「頼むよう、めっけてきてくれよう」「蘭子がいないと駄目なんだよう。わかってるだろ、何もできないんだよう、オレは」などと子どものように声をあげて泣くのでした。またある時は「そんなこといったって、一人じゃ足りないんだよう」と小さな目から大きな涙をポロポロとこぼれさせたと言う逸話も残っているのでした。

 昭和27年8月28日の新聞は、サトウハチローの妻蘭子がアドルムを飲んで自殺を図ったことを一斉に報道した。それは八郎が留守中のことで、八郎の書斎で倒れている蘭子を次男の四郎が見つけ、順天堂病院へ運んで自殺は未遂に終わった。
 「夫人は江川蘭子という芸名で浅草の玉木座やムーラン・ルージュなどの舞台に立っていたレビュー女優で、ハチロー氏の先妻のるり子さんが死亡する以前から同棲。第3番目の妻になったもので、家族関係は複雑をきわめ、先々妻のくみ子さんとの間には二女と長男忠君があるが、二女は既婚、忠君は最近勘当同然で自宅によりつかず、現在は先妻るり子さんの子供の次男四郎君(15)、三男五郎君(13)との4人暮らしだった。(後略)」
『血脈(下)』p.36−37 より


サトウハチローは、父・佐藤紅緑を凌ぐほどの売れっ子となり、「リンゴの唄」は戦後日本を一世風靡しますが、一方で妻妾同居、ヒロポン中毒と私生活は相変わらず破天荒でした。それでも詩歌や童謡を作り、多くの人の心を揺さぶり続けるのでした。

そんなサトウハチローも、1963年には還暦を迎え、1966年には紫綬褒章を受賞します。「悲しくてやりきれない」が作られたのは、1968年でした。3番の歌詞「悲しくて 悲しくて とてもやりきれない このもえたぎる 苦しさは 明日も続くのか」は、サトウハチローの人生そのものであったような気がします。私には、加藤和彦の静かで軽やかな曲にだったからこそ、自分の胸の奥に人知れず抱えてきた苦しい涙壺の中身を書けたように思えてなりません。


<再録にあたって>

今年は秋がなくて、夏からいきなり冬に突入してしまったような感じがします。それでも私は「ちいさい秋みつけた」という唄が大好きで、枯葉や紅葉を目にすると思わず口ずさんでしまいます。自分の口元からこぼれ落ちたこの唄を耳にしてはこの稿のことを思い出してきた2年間でした。

佐藤愛子は、数年前の『90歳、何がめでたい』が大ベストセラーとなり、読書習慣のない人からも佐藤愛子の名を聞くほどでした。その度に私は『血脈』のおもしろさを語ってきました。その頃、たまたま日比谷公園の松本楼の前を通りかかったら、和服姿の佐藤愛子の写真撮影が行われていました。書籍の宣伝かインタビュー記事のためのものだと思われますが、本当は駆け寄って「先生、素晴らしい作品をありがとうございました!」とお礼を言いたい思いでした。


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