017.お見合い結婚

私の父が、母とのお見合いに指定された場所へ向かおうと大阪駅近くのホテルのエレベーターに乗ったら、振袖を着ている女性がいたのでお相手はきっとこの人だろう、そしてこの女性と結婚することになるのだろうと思っていたら、実際そうなったと話してくれたことがありました。

私の両親は、1958年(昭和33年)に結婚しました。東京タワーができた年です。親同士が決めたお見合い結婚ではなく、紹介結婚と呼んだ方がふさわしいものでした。数学の教員をしていた父の家の近くに住んでいた年配の女性が、縁を取り持ってくれたのだそうです。彼女の仕事の取引先の銀行に勤務していたのが母でした。

その方から「ちょっと変わってるけど、いい人なのよ。会ってみない?」と言われたのが始まりだったそうです。母の目にはお見合い写真の父がハンサムに見えたらしく、会うのが楽しみだったと言っていました。来年米寿を迎える母が若い頃には、このように縁談を取り持ってくれる人はあちこちにいたようです。

恋愛結婚件数がお見合い結婚の件数を上回ったのは、1960年代半ばのことでした。その中間のような紹介結婚も「過渡期」のその頃に流行っていたようです。父も母もお見合いの場所にはそれぞれがひとりで行ったのだそうです。紹介者が両者を引き合わせてくれると、あとはふたりでコーヒーを飲みながら話をしてその日は帰ってきたと言っていました。

その後何度かデートして、半年ほどの交際期間を経て結婚しました。それでも母にとって最終的な結婚の決め手は、祖父が父を気に入ったからだったと言います。この頃は、小津安二郎の映画にも数多く描かれているように、娘の縁談というのは父親にとっては人生における大仕事だったようです。

「お見合い」という言葉から私が連想するのは、料亭のようなお座敷で、お仲人さん・両親らの中で初々しい若いふたりが座布団の上で恥じらいながら、特に女性は振袖を着て指先で畳に「の」の字を書いているというものです。会話といってもせいぜい「ご趣味は?」「茶道を少々」というもので、きっとドラマや映画などでそのようなイメージが形成されたと思われます。

明治の昔は写真だけで決めたものだとか、親同士が決めた相手と初めて会ったのは結婚式の当日、それも式がすべて終わってから初めて顔を見たなんていう話も読んだり聞いたりしました。そういう夫婦でも何十年も互いに支え合っているのだから、一時の情熱に任せての恋愛結婚よりも、家柄のつりあったお見合い結婚の方が良いともよく耳にしました。


上皇陛下が皇太子だった時、軽井沢のテニスコートで正田美智子さんを見初められご成婚に至ったという「皇太子の恋」は、今では誰もが知っているエピソードですが、当時の国会答弁では、宮内庁長官がこれを完全否定するやりとりがありました。

1959年(昭和34年)2月6日(金曜日)の第031回国会 内閣委員会 第5号の議事録は、出席委員の平井義一議員と宮内庁長官の宇佐美毅氏の質疑応答からの抜粋は次の通りです。太字は引用者によるものです。

平井委員 皇太子殿下の御結婚につきましてお尋ねいたしますが、新憲法のもと恋は自由でございますから、皇太子殿下も人間だから恋をするだろう、こうおっしゃるでしょう。それもまことにけっこうでございましょう。しかし民族の象徴という観点から見まして、もしも天皇陛下が皇后陛下と銀座を毎晩散歩しておる、あるいは自分のしたいことをするということになっても、民族が尊敬をし崇拝をすると思われておるかどうか。私は決してこの御結婚に反対をするものではありませんけれど、要するに、もしも皇太子殿下、天皇が民族の象徴とするならば、国民の声によって——いろいろお相手を探したけれどもなかった、民間からぜひもらっていただきたいとあなたから進言をされて御結婚あそばすならば、これは民族の声である、ほんとうに国民の声でありますから、私は大歓迎でございますが、もしも伝え聞くように、皇太子殿下が軽井沢のテニス・コードで見そめて、自分がいいというようなことを言うたならば、ここにおられる代議士さんの子供と変りない。私の子供と変りない。これが果して民族の象徴と言い得るかどうか私は知りませんが、あなたから進言をされたものか、皇太子殿下が自分で見そめられたものか、この点をお尋ねしたい。
宇佐美説明員 皇太子様の御婚約の実際についてのお尋ねでございます。これは世上いろいろ間違って伝わっておりますので、ただいまご質問がありましたので、私はこの機会にはっきり申し上げておきたいと思います。
 今回の御婚約につきましては、数年前からいろいろ準備を事務的に進めておったのでございますが、もちろんその選考の方針その他につきましても、皇太子殿下御自身はもちろん、両陛下のお考えも伺って、われわれとしては慎重にいたしておったわけでございます。殿下御自身の御性格も非常に慎重な方でございまして、御自身の義務というようなことにつきましては、はっきりとお考えをお持ちになっている方でございます。今回の御内定になりました方につきましては、世上で一昨年あたりから軽井沢で恋愛が始まったというようなことが伝えられますが、その事実は全くございません。もちろん軽井沢でテニスを一、二度なさったことは事実でございます。しかしそれ以上の交際があったわけではもちろんございませず、この御婚約につきましても、その当時は何らそういう方がわれわれのあれにも入っておりません。しかしいろいろ候補者を選考して参りましたが過程におきましても、殿下に一々ごらんに入れているわけでございます。昨年の春ごろからいよいよ何人かの候補者をしぼって御相談申し上げ、そのうちからわれわれも御推薦申し上げ、殿下も冷静な観察をなさって御決心になったわけでございます。世上伝わるような浮ついた御態度というものは、私どもは実際において全然お認めすることはできません。むしろ非常に老成された考え方を持って注意深く進められたものでありまして、このことはあの当時の発表後におきましても私どもは外に向かってもはっきり申しております。世上そういうふうに伝わっておることは事実と反していると私は考えます。なかなか先に出ますと後から幾ら申しても徹底をいたしませんで、この点は非常に残念でございます。ただいま御質問をいただきましたのは、私としましてはむしろありがたいことでございます。


これを読むと、「恋愛結婚はけしからん」というのは質問者、回答者のいずれにとっても大前提になっているようです。しかしこのご成婚が広く好意的に受け止められたのは周知の通りです。ご成婚効果もあったのか、この数年後には、お見合い結婚件数と恋愛結婚件数は逆転しました。

それでも、当時は「縁談」という表現がよく使われ、当人のあずかり知らぬところで、両親や周囲の人によって物事が進んで行くということが多かったようです。特に上流階級、中産階級、地方の名家と言われるような格式の高い家などでは、恋愛結婚はご法度という空気がありました。


時は流れて、私が適齢期と言われた1980年代半ば頃になると、お見合い結婚をする人はずっと少なくなりました。それでもまだお見合いは、選択肢のひとつとして存在していました。国立社会保障・人口問題研究所の統計によれば1980〜84年のお見合い結婚の割合は24.9%なので、4人にひとり程度ということになります。ただ当時東京で四年制大学を卒業して働いていた私の肌感覚ではもっと少なくて、せいぜい8〜10人にひとりという感じでした。

私たちが20代だった頃は「結婚適齢期」がクリスマスケーキに例えられていました。22、23日くらいからぼちぼち売れ始め、クリスマスイブの24日には予約注文・店頭販売とも大盛況、25日は多少値引きすればまだ売れるけれども、26日以降はぱったり売れ残ってしまうというものです。

実際に、内閣府の初婚年齢の推移を見ても、女性の初婚年齢、1950年は23.0歳、1955年は23.8歳で、1960年から1990年までは24.4歳〜25.9歳でした。私が24歳になったのは1983年でしたから、私の周りでも「適齢期」を過ぎた女性は「売れ残り」という不名誉な称号で呼ばれていました。1989年のNHK大河ドラマが「春日局」だったので、それ以降は被害者予備軍であるはずの当の独身女性自身が、職場の20代後半から30代独身女性を「お局様」などと呼ぶことさえありました。


私の周りでも、お見合いで結婚した友人は何人かいました。大学の同級生では、ひとりっ子なので両親が二世帯住宅を建てて、県庁に就職が決まり、あとはお見合いをしてお婿さんをもらうだけという子がいました。育児は実の親に任せて自分はキャリアウーマンとして働いていきたいという希望でした。そんなに計画通りに人生はなるのかしらと半信半疑に思っていましたが、実際に県庁にお勤めの方とお見合いで結婚し、子宝にも恵まれ、ご両親がお孫さんを可愛がってくれるという人生になりました。私も披露宴に参列しましたが多くの方々に祝福されて幸せそうでした。

大きな病院の院長先生のお嬢さんが「今日は家にカメラマンが来てくれて、お庭でスナップ写真を撮るのよ」と聞いて驚いたこともありました。写真館で正装していわゆるお見合い写真を撮るよりも、自然な写真が流行りだと聞かされましたが、そんな写真を撮っているのは彼女くらいしか知りませんでした。大企業の御曹司との縁談がまとまったのはそのスナップ写真のおかげかもしれません。

こちらの披露宴には新郎新婦には一度も会ったことのない政財界のお偉方がずらりと参列していて、家同士の結婚というのはまだまだあるのだと思いました。ところが当の新郎新婦はこの上なく幸せそうな様子で、結婚やお見合いというものを別の角度から見たような気持ちになりました。

当時、書店で購入した本を入れてくれる紙袋には、「アルトマン」というコンピュータで相手を選ぶ結婚相談所の宣伝が必ずといっていいほど入っていました。クイズが印刷してあって、好きな色はどれかとか、この中で気に入った絵はどれかなどを選び、ハガキを投函すればコンピュータが相手を選んでくれるというものでした。お見合いでも恋愛でもない新しい結婚形態に思われましたが、アルトマンは結局倒産してしまったようです。それでもこのような登録システムは、お見合い結婚に代わってこのあと増えていきました。

古い家制度に縛られた他力本願の縁談から、「一生に一度の相手と恋に落ち、結婚して愛する子どもを育てることが素晴らしい」というロマンチック・ラブ・イデオロギーへと価値観が転換していくのを肌で感じていましたが、それでも、まだまだ昔ながらのしきたりを見聞きすることはありました。

房総半島出身の同級生から、結婚式の当日、お姑さんが花嫁衣装のお嫁さんの手を引いて近隣を挨拶して回るという話を聞いたり、福島県出身の同級生からは、本家の子どもはホテルや結婚式場では結婚してはならず、自宅で分家筋を全員を招待して行うものだという話を聞いたのは今も忘れられません。そのために家の蔵には百人分くらいの婚礼の食器が用意されていると話してくれました。残念ながら私は地方の結婚式に出席する機会はありませんでした。

私と同年代の森昌子(1958年生)、古手川祐子(1959年生)、田中裕子(1955年生)の3人が主人公の山田太一脚本ドラマ「想い出づくり。」が放映されたのは、1981年、私が大学生4年生の秋のことでした。名作「北の国から」の裏番組でしたが、当時は「想い出づくり。」の方が高視聴率だったという人気番組でした。

このドラマは、偶然知り合った3人の適齢期の女性のお見合い、恋愛結婚のあれこれを、家族を交えて描いたものでした。最近動画サービスで観たら、当時の結婚観が蘇ってきました。私などは、古手川祐子の来ているワンピースの色違いを持っていたとか、田中裕子の持っているバッグは友人の持っていたものと同じだったなどと思わぬところに懐かしさを覚えました。このドラマを見直して一番感じたのは、当時の女性の人生における結婚の重みが今よりもずっと大きかったということです。

「婚活」という言葉は、2007年に社会学者の山田昌弘が「就活」をもじってAERAで発表したと言われています。「婚活」の当時者には男女が等しく含まれていますが、「縁談」「お見合い」はもっぱら女性ものというイメージが強いように感じます。結婚は女性ひとりではできないにもかかわらずにです。大学を卒業する頃は、結婚を「永久就職」と普通に呼んでいました。「嫁入り前の娘」という表現や「そんなことでは嫁の貰い手がなくなる」という言い回しも日常に溢れていました。

そういう私自身は30代後半で結婚しました。副社長の秘書をしていた憧れの女性に「結婚なんて30を過ぎてからすれば十分よ。20代のうちは世界を見て歩いたらいいわよ」とアドバイスされ、その気になってしまいました。

そんな私でも、釣書を書くようにと言われたことは何度かありました。釣書とはお見合い用の履歴書のことで、釣り合いの取れた縁談をという意味なのだそうです。釣書は縦書き・自筆で書くものでした。氏名、生年月日、本籍、現住所、家族構成、学歴、職業、趣味、それに身長や体重(!)を書いてお仲人さんに渡す書類です。でも私には、釣り針の先にひっかけられた情けない自分の姿が目に浮かんできてなりませんでした。

結婚は地域や時代、環境によって様々ですが、気がつくと国立社会保障・人口問題研究所のレポート((2)出会いのきっかけ参照)にもあるように、戦前には約7割を占めていたお見合い結婚は、その後一貫して減少を続け、1960年代末に恋愛結婚と比率が逆転し、その後も20世紀を通じて減少傾向にあり、1990年代半ばには全体の1割を切って以降は低い水準で推移し、2010~2014年には5.5%になりました。


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