089.ドラマ「黄色い涙」

青春時代に見た思い出深いテレビドラマは数々ありますが、そのドラマによって自分の精神的骨格が作られたと言えるようなテレビドラマはそれほど多くありません。私にとってそんなドラマのひとつが1974年に放送された「黄色い涙」でした。この時、私は中学三年生、15歳になったばかりでした。

このドラマは、昭和49年(1974年)11月25日から12月20日まで、NHKの「銀河テレビ小説」という枠で、夜「ニュースセンター9時」という番組に引き続き、21:40〜22:00まで放送されていました。全20回でした。

「黄色い涙」は永島慎二の青年漫画『若者たち』が原作で、脚本は市川森一でした。オープニングでは永島慎二のイラストで登場人物たちの横顔が描かれ、そのタイトルバッグには、毎回、佐藤春夫作詞、小椋佳作曲・唄、小野崎孝輔編曲の「海辺の恋」が流れるのでした。舞台は昭和38年(1963年)の初冬のことです。

主な出演者は、森本レオ(売れない漫画家の村岡栄介役)、岸部シロー(小説家志望の向井竜三役)、下條アトム(画家志望の下川圭役)、長澄修(歌手志望の井上章一役)、それに児島美ゆき(食堂の娘時江役)、山谷初男(喫茶店「シップ」のマスター役)、保倉幸恵(喫茶店「シップ」のウェイトレス役)でした。

◇ ◇ ◇

このドラマを観てからおよそ半世紀の間、折に触れ私はこのドラマのことを思い出し、心の中で自分の原点のように思い続けていました。しかし、あらすじと言ってもほとんど何も覚えていなくて、「昭和三十年代の若者たちが、オンボロのアパートで夢を追いながら共に暮らしていた話」としか説明できませんでした。

それでは、そんなあらすじも思い出せないようなドラマのどこが自分の原点なのかと問われると「それはドラマ全体から匂い立つ、何もかもすべて」としか答えようがないのでした。自分でも一体全体、このドラマのどこにそれほどまでに惹かれているのかよくわかっていませんでした。それでもこのドラマを観ていなければ、今日の私はなかったと言い切ることができました。

私の持っている永島慎二の漫画『若者たち』は、大学生になったばかりの頃に購入しましたが、今では電子書籍でも読むことができます。これが原作だと言われればそれはそうかも知れないけれど、主要登場人物の数も違っていてテレビドラマには登場していなかった詩人がいるし、彼らの出逢いのエピソードも違っているように思えるし、いつか再放送を観たいと思い続けて来ました。しかし、ただいたずらに時は流れるばかりでした。

ドラマ放送から何十年も経ちインターネット時代になったある日、「黄色い涙」を検索してみようと思い立ちました。すると最寄りのNHK「公開ライブラリー」で誰でも無料で見られるようになっていることがわかりました。インターネット上での情報によれば、NHKには放送に使用したビデオテープは残っておらず、この映像は主人公を演じた森本レオが家庭用ビデオで録画したものだという情報まで載っていました。

是非見てみたいとNHKへ数日間通い、全20回すべてを見直すことができました。改めて見てみると、なぜこのドラマを自分の原点だと思い続けていたのかがよくわかりました。そしてそれと同時に若かった私が突きつけられた問いを、今この歳になって再度突きつけられたようで心が痛みました。

◇ ◇ ◇

あらすじは、私が記憶していた以上のものは特になく、ひょんなことから知り合った若者たちが、それぞれの夢を追いながら、売れない漫画家の主人公のオンボロアパートの狭い部屋に転がり込み、質草になりそうな金目の物ははもちろん、ズボンやらコタツまですべて質入れしてしまって、ガランドウの部屋で一枚の毛布に皆んなでくるまりながら腹を減らし、小銭を数えて暮らしているという話です。

彼らの行動範囲は、阿佐ヶ谷のアパート「あけぼの荘」、喫茶店「シップ」、時江ちゃんが働く近所の定食屋「さかえ屋」、あとはせいぜい銭湯と駅の改札口と写生する公園くらいです。それでも、喫茶店へ行けばマスターの淹れる香り高いコーヒーとシャンソンのレコードが待っています。定食屋では牛丼、天丼、焼きそばなど温かい食事でお腹一杯になるし出前もしてくれます。ただ問題なのは、その喫茶店も定食屋もツケが溜まりに溜まっているということです。

ドラマのほとんどは彼らの青春の苦悩が描かれます。それは金がない、腹が減った、片想い、そして夢の実現です。金がないと腹が減ったはほぼ同義語ですが、アルバイトをしていては夢を実現するための時間が奪われてしまいます。自由とはなにか。それは、漫画を、小説を、油絵を、歌謡曲を、好きなことを好きなようにやっていくことこそが自由であり、これをせずに生きる意味などどこにあるのだろうか、しかし腹が減るという苦悩です。

生きるとは何か。芸術とは何か。主人公は語ります。「自分の描く漫画に対してだけは永遠に純粋でありたい。金儲けのために漫画を描いているんじゃない。子どもの頃、学校の帰り道とか、柿の木のてっぺんとか、冬のこたつの中とかで、そういうところで手塚治虫や鮫島治の漫画に没頭した感動な、あれなんだよ。あの感動を永遠に忘れたくない」

しかし問題は「自分の本当に描きたいものは売れない」ということです。「金稼ぎに走ると自分のやりたい仕事の時間がなくなる」「金さえあれば」「問題は簡単。金さえあればすべて解決する」 そこでなんとか生活を立て直し、好きなことだけをして暮らしたいと、主人公の徹夜続きの漫画家アシスタントのアルバイト料を軍資金に自炊計画を立てます。

鍋の代わりに顔を洗う洗面器でおじややカレーを作っていたら底が抜けてしまいましたが、それでもなんとか暮らしていきます。しかし計画通りにはいかないもので、有り金はあっという間になくなり、挙げ句の果てには、商売道具の万年筆やギターも質入れすることになりますが、背に腹はかえられません。

それでも、記録的な寒波がやってきたこの冬の、彼らの暮らしの中に散りばめられた言葉の数々は、

俳人松本たかしの一句であり、

風花の華やかに舞ひ町淋し

フランスの詩人ランボーの「いちばん高い塔の歌」からの一節であり、

束縛されて手も足もでない
うつろな青春。
こまかい気づかいゆえに、
僕は自分の生涯をふいにした。

 ああ、心がただ一すじに打ち込める
そんな時代は、ふたたび来ないものか?

(金子光晴の翻訳より)

知の巨人と言われた生田長江の歌も、さらりと引用されます。

人は知らじな火を噴きし山のあととも
*****
原歌は「ひややかに」
冷ややかに 水をたたえて かくあれば
人は知らじな 火を噴きし 山のあととも
(火口湖は水をたたえ静謐である。かつて火を噴いた山のあととも知られぬように、ゆめ泣き言などは人に漏らすなという意)

全編を通してシャンソンが流れ、喫茶店の窓にはステンドグラスが嵌め込まれ、画家志望が恋する幻の少女に出逢うシーンではチャイコフスキーのピアノ交響曲第一番が高らかに鳴り響き、小説家志望が恋人を想う場面では古いイタリア映画「終着駅」が想起されるのです。私の憧れが詰まったドラマでした。

昭和38年(1963年)も暮れ、昭和39年(1964年)の幕が開けます。この年の秋に行われる東京オリンピックに向けて、世の中は高速道路や新幹線が突貫工事で建設されていきます。

四人の生活も次第に行き詰まりを感じていく中、ある日、喫茶店のマスターが昔映画のシナリオを書いていたことがわかります。その時のマスターのセリフは、「ただ一生のうちで、一編ロマンが書ければいいと思ってる。芸術と生活は切り離して考えるべき」というものでした。

そして春が来て、三人の居候たちはアパートを後にし、それぞれの道を歩き始めます。画家が漫画家に宛てた手紙には次のようなことが書かれていました。

「好きなことをするための冬籠もりが、それを捨てるきっかけになったことは皮肉です。なぜこんなことになってしまったのか。結局、我々には、ひとつのものに打ち込む強い意志と、孤独に耐える力の持ち合わせがなかったのです。ひとりになると、すぐ誰かを探しに出歩いてしまう。意志の弱い、平凡で俗っぽい人間たちだった。そういう己れを知り得たことが収穫だった」

このドラマの最後には、小椋佳の唄う佐藤春夫の「海辺の恋」が三番まで流れる中、その後の彼らの人生が描かれます。自動ドアのセールスマンとなって「シップ」のマスターにも売り込む元小説家志望、会員制クラブのマネージャーとなって政財界・芸能界のトップと付き合いがあるという元画家志望、渋谷のマンションを手がける建設会社に勤める元歌手志望。

高度成長期の日本を支えて生きていく道を選んだ彼らの姿を映し、最後には著者・永島慎二の名前を、ドラマの主人公「村岡栄介」に書き換えられた原作本『若者たち』が大写しになって、このドラマは終わります。

海辺の恋 YouTubeはこちら
作詞:佐藤春夫
作曲:小椋佳

こぼれ松葉をかきあつめ  
をとめのごとき君なりき
こぼれ松葉に火をはなち  
わらべのごときわれなりき

わらべとをとめよりそひぬ  
ただたまゆらの火をかこみ
うれしくふたり手をとりぬ
かひなきことをただ夢み

入日のなかにたつけぶり
ありやなしやとただほのか
海べの恋のはかなさは
こぼれ松葉の火なりけむ

この曲はいつまでも心に残り、高校生になってから学校の図書室で佐藤春夫を調べてみました。「海辺の恋」は『殉情詩集』「同心草」に収められていました。それから佐藤春夫の評伝を調べると、昭和五年八月十七日、谷崎潤一郎、千代、佐藤春夫の三人連名の「我等三人はこの度合議をもって、千代は潤一郎と離別致し、春夫と結婚致す事と相成り…」という挨拶状が新聞社や関係方面に送られ、「細君譲渡事件」として一大センセーションを巻き起こしていたことを知りました。

拝啓
炎夏之候尊堂益々御清榮奉慶賀候
陳者我等三人此度合議を以て千代は
潤一郎と離別致し春夫と結婚致す事
と相成潤一郎娘鮎子は母と同居致す
可く素より双方交際の儀は従前の通
に就き右御諒承の上一層の御厚誼を
賜度何れ相當仲人を立て御披露に
可及候へ共不取敢以寸楮御通知申上候
              敬具
昭和五年八月 日
            谷崎潤一郎
               千代
            佐藤 春夫

『新潮日本文学アルバム59 佐藤春夫』『同7 谷崎潤一郎』より

高校の図書室からは、佐藤春夫だけでなく谷崎潤一郎の本も借りてきました。このように思わぬ形で谷崎文学へいざなってくれたのもこのドラマでした。

◇ ◇ ◇

NHK公開ライブラリーに電話で問い合わせをした時に「黄色い涙」と口にすると、電話口の若い女性が「はい、あの『黄色い涙』ですね」という言い方をしたのでたずねてみると「『黄色い涙』は今も時折問い合わせがありますから」という返事でした。このドラマが心に残っている同士が他にもいるのかと嬉しくなりました。

ドラマを見直しながら気づいたことですが、彼らがどれほど貧乏で腹をすかせていても、侘しさや惨めさはあまり感じませんでした。NHKから帰る道すがら理由を考えてみたら、部屋があまりにもすっからかんで、そこにはカップラーメンやコンビニ弁当の空き容器やペットボトルが散乱することなく、あるのは定食屋のおやじさんが作った温かい丼物を平らげたあとの、重ねた丼しかなかったからかもしれません。プラスチック文化が始まる直前の時代でした。

彼らはまた、故郷から東京に出てきて孤独と闘っていましたが、その「孤独」というのも、今日、英国に続き日本も「孤独・孤立担当大臣を」任命することになった「21世紀の孤独」とはまったく異質なものでした。

◇ ◇ ◇

今回この稿を書くのに色々調べていたら、このドラマは2007年に犬童一心監督により映画化されていたことがわかりました。こちらも脚本は市川森一で、シナリオブックを図書館で見つけました。巻末にスタッフのインタビューが収録されていて、脚本家市川森一のインタビューも載っていました。

ドラマの冒頭で、四人が知り合うきっかけとなる「偽インターン事件」は、友人の長野県に住むお母さんが癌になった時、仲間と共にインターンに化けて東京の病院に運び込んだという市川森一自身の学生時代の実体験だとありました。当時の若者の心根の優しさが伝わってきます。またシナリオライター修行時代に友人が市川森一に書いて送ってくれたフランスの詩人の詩も取り入れながら、これらのエピソードや詩を、原作『若者たち』に見事に融合させてドラマを完成させる手腕には感服しました。

◇ ◇ ◇

若き日の私に向けられた問いは、自分の人生を、自分に誠実に生きられるかということでした。自分の才能を信じて、金儲けになどには脇目もふらず、「自由に」生きていけるかということでした。自分の人生を振り返ると、私には「ひとつのものに打ち込む強い意志と、孤独に耐える力の持ち合わせがなかった」のだと心が痛みます。

15歳だった私は齢を重ね還暦を過ぎましたが、このドラマは、若きの私にとってばかりでなく、これまでの生涯に渡って私の精神的な支柱となりました。それは自分の創り出す作品に対して永遠に純粋でありたいと願う主人公の生き方に心から感動したからだろうと思います。あらすじは覚えていなくとも、主人公のいうように感動だけは永遠に忘れないのです。


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