074.濃霧と大韓航空
1988年11月12日、パリの宿泊先で目が覚めると、窓の外の通りの反対側の建物も霞んでよく見えないほど霧が立ち込めていました。その日は日本に帰国する予定になっていたのですが、私は濃霧が意味することもよくわからずに普段通りに荷造りをして、メトロに乗ってシャルル・ド・ゴール空港へ向かいました。
ところが、空港に着いたらものすごく大勢の人々で溢れかえっていて、聞くと、濃霧のため全便欠航中だというのです。パリに到着予定の飛行機も近くまで来たものの着陸できず、スイスやベルギーなどの近隣諸国の空港に臨時着陸しているということでした。
チェックインカウンターでもいつ飛び立てるのかはわからず、とにかく霧が晴れるのを待つしかないということでした。その時点で既にベンチはすでに満席でしたから、仕方なく植木の周りを囲っている仕切りの縁に腰掛けて、いつとも知れないフライトを待つことになりました。
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前回、(073)80年代の航空事情の中で、私が大韓航空を選んでフランスへ行った経緯を書きましたが、その値段の安さに惹かれて、以来私は毎年のように大韓航空でフランスへ出かけていました。
当時、東京から大韓航空を利用してパリに行くには、まず成田からソウルにある金浦(きんぽ)空港に飛んで、そこで北回りのパリ行きの便に乗り換えました。帰りはその反対でパリ→アンカレッジ→ソウルと飛んで、ソウルで成田行きに乗り換えて帰ってくるのでした。
成田→ソウルが約2時間、ソウル→アンカレッジが約8時間、給油に2時間、アンカレッジ→パリがまた8時間と、待ち合わせ時間を入れるとざっと24時間の旅でした。
初めて金浦空港に降り立ったのは1985年でしたが、1988年9月にはソウルオリンピックが開催されるというので、毎年毎年、活気に溢れる韓国がどんどん変化していくのを肌で感じてきました。1985年の金浦空港は、羽田空港が当時そうであったのと同じように床のピータイルが印象的な建物でしたが、オリンピックに合わせて新しい建物が完成していました。
当時は韓流ドラマはもちろんなく、近くて遠い国と呼ばれていた韓国(というより当時は大韓民国)の情報に触れる機会は、私の場合ほとんどなく、大韓航空に搭乗して初めて韓国・朝鮮語を耳にし、ハングル文字を初めて目にしたような状態でした。
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濃霧のため全便が欠航しているシャルル・ド・ゴール空港には、そうとは知らない旅客が次から次へとやってきますが、出発する人は誰もいないので人は溢れかえる一方です。人々はその辺の壁際の通路にも座り込み、災害時の避難所のような状態になっていきました。
私は、植木の仕切り台に腰掛けていましたが、たまたま隣に腰掛けている三十代くらいの男性といつしか雑談をして気を紛らしていました。彼はカナダのトロントに行くフランス人でした。まさか濃霧でこんなことになるとはねと、あと一体何時間待てば良いのかわからない中であれこれ世間話をしていました。
するとしばらくして「大韓航空のお客様は、カウンターへお越しください」とのアナウンスがありました。お隣の人が席を確保してくれるという言葉に甘えてカウンターへ行くと、フライトの見通しはまだ立っていないということでしたが、乗客全員にオレンジジュースとサンドイッチが配られました。
席に戻ってこれが配られたと言うと、カナダ航空は何にもくれないのに大韓航空のサービスはすごいねと言われました。とてももらえないと遠慮する彼にも半ば強引にサンドイッチの半分を押し付け、お返しにビスケットをもらったりして、また延々と時間潰しをしていました。
そしてさらにしばらくして、大韓航空のカウンターからまた呼び出しがありました。今度はなんだろうと思って行くと、韓国人はハングルで、外国人は英語でメッセージを書けば、自宅へでも職場へでも何通でもメッセージをお届けしますというのです。私の両親は英語はわからないので頼みませんでしたが、親切なサービスでした。
席に戻って隣の人にそれを話すと、大韓航空は素晴らしいサービスだと絶賛してくれました。私は自分の国の航空会社でもないのに、同じアジアの国の航空会社を褒められてちょっと得意な気持ちになりました。実際に、大韓航空以外の航空会社が飲食物を配っている様子もメッセージサービスをしている様子もありませんでした。カナダ航空からも何のアナウンスもありませんでした。その頃には壁際どころか、歩くスペースを探すのも大変なほど、そこら中に人々が座り込んでいました。
何時間くらい待ったのか定かではありませんが、霧が晴れてきて、近隣諸国に臨時着陸していた飛行機がパリに到着し始めて、今機内清掃をしているからもうしばらくお待ちくださいなどというアナウンスが始まり、地べたに座り込んでいた人々もそろそろ立ち上がり始めたのは、かれこれ7、8時間も経過した頃でした。
カナダ行きの飛行機も、ソウル行きの飛行機も無事に準備が整い、隣の人と手を振りあって別れ、無事に機上の人となった時には心底ホッとしたものでした。
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給油のためにアンカレッジ空港に到着し、空港内の毛皮売り場やうどん屋さんの辺りを散策するまで気がつかなかった私も私ですが、「ソウルからの乗り換え便はどうなるんだろう」という日本語での会話が耳に飛び込んできて、初めて今夜の宿の心配をすることになりました。
本来の飛行予定では、ソウルに16:00着、乗り換え便は18:00ソウル発、20:00成田着の予定でした。しかし、パリで7、8時間も待っていたのですから乗り換え便には到底間に合いそうもありません。まあ、長い人生こういうこともあるだろうと思い、さっきのシャルル・ド・ゴール空港のように、最悪でも地べたにでも座って一晩過ごせばなんとかなるだろうと思うことにしました。
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ところがソウルに到着すると、乗り継ぎの乗客はこのまま係員の指示に従ってくださいと言われました。1988年当時は、日本人が韓国に入国するにはあらかじめVISAを申請しておかなくてはなりませんでしたが、私たちは特例ということで、大韓航空機の太極文様の直径5センチ位の丸いシールを左肩のところに貼られました。これが臨時VISAで、出国するまでずっと肩に貼っておくようにとの指示でした。
その日私は、シルクと綿のツルツルした糸で編んだ少し光沢のあるグレーのセーターを着ていたので、もしこのシールがなにかの弾みで落っこちてしまったらどうしようと思って、心配で何度も何度も左肩のシールを押さえていたことを思い出します。
肩にシールを貼った私たち一行は、最終目的地ごとのバスに乗り込むように言われました。私の乗り込んだバスは、成田、大阪、福岡、香港に行く人が乗るバスでした。バスに乗り込むと、日本語と英語と、多分中国語(広東語?)で次々に説明がありました。
私たちはこれから大韓航空の用意したホテルに宿泊することになるということ、ツインルームで部屋割りはこちらに任せてもらいたいということ、ホテルのレストランは本来はもう閉店時間だけれども、特別に開けてもらっているからまずは食事を済ませてから部屋へいくようになどということを、マイクを持ったひとりの係官が3ヶ国語で次々に説明するのでした。
そしてこれから翌朝の朝食券を配ると言いました。成田に行く人と、もう一ヶ所どこかへ行く人は朝早いフライトなので空港内での朝食券を、それ以外の行き先の人はホテルの朝食券を配りますと言って、実際に成田行きともう一ヶ所の人は手を挙げるように言われ、空港内の朝食券がひとりひとりに手渡されました。なんときめ細やかなサービスなのかと私は感心しました。今回の濃霧による遅れは、大韓航空には一切の落ち度はないというのに、素晴らしい心配りでした。
ホテルに着くと、入り口に折り畳みの机が用意されていて、そこで私たちはひとりずつ名前を呼ばれてルームキーを受け取りました。私と共に同じナンバーのキーを受け取ったのは、同じ二十代と思われる女性でした。性別と年齢で組み合わせをしたのかもしれません。そしてそのまますぐ隣にあるレストランに案内されました。
レストランは表の灯りは既に消えていて、私たちのためだけに定食のようなものが既にテーブルの上に人数分用意されていました。それでも温かいものは温かく提供されました。本場の韓国料理というのを私は初めていただきました。キムチも、今では普通に誰もがいただくキムチですが、その頃の私は、日本の唐辛子で漬けたものなのか、火を噴くほど辛いキムチしか食べたことがなかったので、出されたキムチを恐る恐る口に運んでみると、まろやかな深みのある味のキムチで大変驚きました。どのお料理も大変おいしくいただきました。
食べ終わった人から順にホテルの部屋へ入って良いということでしたので、私は同じ部屋のルームキーを持っている女性と共にエレベーターに乗って部屋に入ると、ものすごく豪華な部屋で2人で顔を見合わせるほどびっくりしました。
夜だったし、辺りは暗く、バスに乗せられて言われるがままにやってきたので事情がよくわかっていませんでしたが、そこは四つ星だか五つ星だかの高級ホテルでした。洗面所には化粧水やクリームなどのセットも置かれていて、それまで私は二つ星ホテルにばかりに宿泊していたのであまりの豪華さに目が眩む思いでした。その上、部屋に入るとすぐに電話がかかってきて、ひとり一本の国際電話をかけても構わないという案内もありました。
私たちはそれぞれ自宅に今夜はソウルに一泊する旨を連絡し、あれこれと夜遅くまでおしゃべりしました。彼女は百貨店の洋服のバイヤーで、よくパリを往復していると話していましたが、こんな経験は初めてだと言っていました。なんだか同志という感じもしてその晩はちょっとウキウキした気分でした。
翌朝早くにホテルをバスで出発し、明るくなったソウルの景色を眺めたら、草木が欧州のものではなく、ああアジアに帰ってきたんだと感じました。それにしても浦島太郎ではないけれど、濃霧のおかげで龍宮城のようなホテルに宿泊させてもらって誰になんと御礼をいえばよいのだろうかと思いました。
空港内のレストランで、昨夜配られたチケットを出すとすぐに朝食セットが用意されて、たまたま同席した4人で仲良く食事をし、なんだか連帯感が芽生えていたのでお互いの職業のおもしろいエピソードなどを語り合いました。そのまま成田に到着してそれぞれ帰途につきましたが、忘れられない思い出となりました。
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濃霧による飛行機の遅延は、航空会社の責任でないことはもちろんですが、それにしてもここまで心配りのあるサービスを提供する航空会社があるとは私は感激しました。あの日シャルル・ド・ゴール空港に溢れかえっていた人々の内、乗り継ぎが必要だった旅客は世界中で大勢いたに違いありませんが、大韓航空以上のサービスを提供した会社があるとは思えませんでした。
濃霧があった日は、ソウル・オリンピックからおよそ1ヶ月余り後のことでもあり、韓国自体がホスピタリティに溢れていたことも背景にあっただろうと思いますが、このサービスを決断した会社の上層部から担当係員やホテルの人の対応まで素晴らしいと感じました。
帰国してから、1985年に大韓航空を選んだ時にソ連に追撃されるからやめた方がいい、値段が高くても他の航空会社にした方がいいと忠告してくれた知人・友人に、私はせっせと今回の濃霧と大韓航空の話をしてまわり、大韓航空の私設PR係を務めたものでした。
そして長い月日が経って、2008年、ちょうど濃霧から20年経ったある日、たまたまある会合で、私は若い韓国人留学生の女子学生と知り合いになり、その子が1988年生まれだと言ったので、そういえばと濃霧の時の話をしました。
彼女は、自分の国の航空会社をそんなに評価してもらえてとても嬉しいと感激して、韓国に帰ったらみんなに話したいと言ってくれましたが、嬉しかったのはこちらの方でした。
今回、この稿を書こうと思って調べてみると、私たちが肩にシールを貼ってバスに乗り込んだ金浦空港は、20年前の2001年に仁川空港が完成したため、主に国内線が就航する韓国の第二空港になったのだそうです。
前回の記事で、大韓航空は事故ばかり起こしているように印象付けてしまったかもしれませんが、このように何年経っても忘れられないサービスを提供してくれたのも同じ大韓航空なのでした。
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