先日テレビのニュース番組を見ていたら、日経平均株価が終値で3万円を超えたと報じていました。そして「終値で3万円を超えるのはいわゆる『バブル景気』のさなかの1990年8月以来、30年6か月ぶりです」とナレーションが入ると同時に、芝浦のディスコ「ジュリアナ東京」のお立ち台で、長い髪をして扇子を振り回して踊っている女の子たちの映像が流れました。
ジュリアナは1991年開業1994年閉店なので、あの時代を生きていた私としては微妙に時代が違うとテレビ画面にツッコミを入れたくなりましたが、それでもディスコの映像には懐かしさがこみ上げてきました。
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私はディスコで踊るのが好きでした。とにかく私は踊ることが大好きで、バレエでも盆踊りでも、音楽が鳴り出すと踊り出したくなる性分で、1978年、大学一年生の時に、大学の仲間に初めてディスコに連れていってもらった時には、こんなに楽しいところがあるのかと思ったくらいでした。
ジュリアナ開業時には既に三十歳を越えていたので、さすがに芝浦まで踊りに行ったことはありませんが、学生時代には仲間と連れ立って、六本木のあちこちのディスコによく踊りに行きました。中でもスクエアビルにはよく足を運びました。
男女で入場料が違っていて、女子は1,000円だったか3,000円だったかとにかく安かったことを覚えています。一旦中に入ってしまえば、飲み放題食べ放題だったので、夕飯を兼ねて食べて飲んで踊って汗をかいて、それでその程度の金額だったのでお得な感じがありました。
ディスコにもよりけりでしたが、入り口に服装をチェックしたり、男同士で入ろうとする人を止めたりする強そうな男性がいました。それでも女の子同士ならいつでもスイスイと入場できました。私の服装は以前にも書きましたが(063.JJと『なんクリ』)、アルバイトで学費や生活費を出していたので、いつも「なんちゃってニュートラ」ファッションでしたが問題なく入れてもらえました。
70年代には、みんなで一斉に同じ振り付けで踊らなくてはならないような曲があったりして戸惑いましたが、80年代に入るとそんなこともなくなりました。お気に入りのDJや曲などにこだわる人もいたようですが、私は大音響の中に身を置いて、ただひたすら踊っていられればそれで満足でした。
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1982年に新卒で就職してからも、相変わらず六本木には時々踊りに行きました。同期の仲間たち大勢で行ったり、気の合う数名の女の子同士で行ったりしました。あの頃一番よく行ったのは芋洗坂にあったディスコでした。一度行くと割引券や招待券をくれるので、夕飯を兼ねて時々踊りに行きました。
六本木のディスコではよく友人・知人に会いました。一度、仲良しの同僚と行った時、社内の他部署の男性が美女と共に、私たちの座っているソファの目の前を横ぎって、すぐそこのソファに腰掛けたかと思うと、いきなり美女にキスをし始め、私たちが呆気にとられて見つめているとも知らず、ソファに押し倒さんばかりの勢いで強烈なキスをし続けて、私たちの方が目のやり場に困って場所を移動したということもありました。
色気より食い気の私たちは、ディスコに入るとまずは荷物をコインロッカーに預けると、その足で食べ放題のお皿を片手にあれこれと食べて、ひと息入れてからダンスフロアーに出ました。入り口で男同士の人に一緒に入ってくれと頼まれても、中で待ち合わせしてるからなどと誤魔化して、ディスコは純粋に食べて飲んで踊る場所だと思っていました。あの頃はハイヒールを履いて、何時間も踊っていられたものでした。
大声で叫んでも聞こえないような大音響に包まれながら、ひたすら踊っていると一種の恍惚感を味わうことができました。いつまでもいつまでもこの音と光の洪水に身を任せていたいと思っていました。
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しかし当時のディスコは1時間くらい踊り続けると、一転曲調が変わって、チークタイムと呼ばれる、恋人同士が抱き合ってしっとりと踊る時間になりました。そうなると、私たちはしばらく休憩となりました。
ダンスフロアからドリンクカウンターに行って飲み物を手にすると、ソファに向かいました。私はお酒に弱いので、もっぱら烏龍茶ばかり飲んでいましたが、それでも時々は当時流行っていたソルティードッグやカルーアミルクなどを舐めながら、ミラーボールの輝くディスコの片隅のソファに体を沈めて踊り疲れた体を休めました。すると、私の脳裏には決まって一冊の本が浮かんでくるのでした。
それは『きけ わだつみのこえ』という、戦没学生の手記でした。
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『きけ わだつみのこえ』とは、太平洋戦争末期に戦没した日本の学徒兵の遺稿集です。初版は1949年(昭和24年)で、推定発行部数は200万部を超える戦後のロングセラーでした。
「わだつみ」とは、海神・綿津見などと書き、日本神話の海の神のことを指し、転じて海・海原そのものを指す言葉なのだそうです。手記を公募した際に送られてきた次の歌から書名に選ばれたものでした。
薄暗いディスコの中で、ミラーボールに反射する光を見つめながら、私とほぼ同じ年齢で戦場に散っていった若者たちが、命をかけて守りたかった祖国とはどのような姿だったのか聞いてみたいという思いが浮かんでくるのでした。
愛する家族や、次の世代に伝えたかったことは何か、もし戦死せずにすむならば、どんな社会を築いていきたいと願っていたのか聞いてみたいと思いました。よもや目の前に広がるこの光景ではないだろうと思いました。
芭蕉の「おもしろうて やがて悲しき鵜舟かな」ではありませんが、楽しければ楽しいほど、それと引き換えに虚しさを感じるものかもしれません。私はディスコで踊るのが楽しくて仕方がなかったので、一層深い虚しさを味わっていたのかもしれません。
照明が消された暗闇の中、写真の連続フラッシュのような閃光に照らされながら、不思議と精神の一部が覚醒するのを感じました。チークタイムが終わり再びダンスフロアーに降り立って、音と光の洪水の真っ只中に身を置きながら、自分の生き方や社会のあり方がこれで良いのかと自問自答したものでした。
私の手元にある1982年発行の『きけ わだつみのこえ』に最初に収録されているのは、次の手記です。
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私たちのひとまわり上の団塊の世代は、政治の季節と呼ばれる時代を生きましたが、私たち世代は無気力・無関心・無責任の三無主義、これに無感動を加えて四無主義などと揶揄され、大学はレジャーランド化していると言われてきました。『きけ わだつみのこえ』を読むと、手記を書いて死んでいった青年たちは、とても私たちと同じ年齢とは思えませんでした。
私の父は終戦の時は二十歳、手記を寄せた戦没学生らとほぼ同世代でした(052. 父の召集令状)。その父があの頃、何かの話をしていて「波や風などで船が傾いた時、ある程度までは転覆せずに持ち堪えることができるけれど、ある限界点を超えるともう持ち堪えることができなくなる」という例を出して「もう日本はその限界点を超えたようだ」とつぶやいたことがありました。
映画「ALWAYS 三丁目の夕日 」の鈴木オートの社長が、戦争で生き残ってしまった自分のことを亡くなった戦友に対して申し訳なく思い続けていたように、私が子どもの頃は、日々の生活の中に戦争の影はまだ色濃く残っていました。三種の神器の登場を喜びながらも、多くの大人たちは鎮魂の思いを抱きながら生活するということが日常だったように思います。
60年代、70年代が過ぎ、戦後35年の月日が流れた1980年には、戦後の復興や高度成長期を牽引してきた戦争を知る世代の大方は、定年退職などで社会の第一線から退いていました。父が、日本がその限界点を超えたと言ったのはこの頃だったと思います。
そして日本は空疎なバブル景気、失われた二十年と呼ばれる時代に向かって突き進んで行ったのです。
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私は子どもの頃からフランスかぶれでフランス文学の翻訳者のお名前には馴染みがありましたが、あの頃『きけ わだつみのこえ』の冒頭を飾る名文を書かれたのが、フランス文学者の渡辺一夫だとは気づきませんでした。
渡辺一夫については、私の note の初期の頃に(005. アンベルクロード神父)と(006. お末さん)で、随筆の名手ということで紹介したことがあります。
『きけ わだつみのこえ』の冒頭の「感想」は次の通りです。
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株価が再び3万円を超えた今日、私たちの社会は今度はどこへ向かうのでしょうか。日本証券業協会会長は、実体経済との乖離が指摘されていることについて、バブルではないとのコメントを出しました。
テレビのニュースを見て、ジュリアナ東京のお立ち台で扇子こそ振っていなかったけれど、あの時代、心の片隅にわだつみ(海神)の声を聴きながらも、彼女たちと同じように音とリズムと光の熱狂に身を任せながら、時代に呑み込まれていった若かった自分のことを思い出しました。
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