079.ディスコと海神

先日テレビのニュース番組を見ていたら、日経平均株価が終値で3万円を超えたと報じていました。そして「終値で3万円を超えるのはいわゆる『バブル景気』のさなかの1990年8月以来、30年6か月ぶりです」とナレーションが入ると同時に、芝浦のディスコ「ジュリアナ東京」のお立ち台で、長い髪をして扇子を振り回して踊っている女の子たちの映像が流れました。

ジュリアナは1991年開業1994年閉店なので、あの時代を生きていた私としては微妙に時代が違うとテレビ画面にツッコミを入れたくなりましたが、それでもディスコの映像には懐かしさがこみ上げてきました。

◇ ◇ ◇

私はディスコで踊るのが好きでした。とにかく私は踊ることが大好きで、バレエでも盆踊りでも、音楽が鳴り出すと踊り出したくなる性分で、1978年、大学一年生の時に、大学の仲間に初めてディスコに連れていってもらった時には、こんなに楽しいところがあるのかと思ったくらいでした。

ジュリアナ開業時には既に三十歳を越えていたので、さすがに芝浦まで踊りに行ったことはありませんが、学生時代には仲間と連れ立って、六本木のあちこちのディスコによく踊りに行きました。中でもスクエアビルにはよく足を運びました。

男女で入場料が違っていて、女子は1,000円だったか3,000円だったかとにかく安かったことを覚えています。一旦中に入ってしまえば、飲み放題食べ放題だったので、夕飯を兼ねて食べて飲んで踊って汗をかいて、それでその程度の金額だったのでお得な感じがありました。

ディスコにもよりけりでしたが、入り口に服装をチェックしたり、男同士で入ろうとする人を止めたりする強そうな男性がいました。それでも女の子同士ならいつでもスイスイと入場できました。私の服装は以前にも書きましたが(063.JJと『なんクリ』)、アルバイトで学費や生活費を出していたので、いつも「なんちゃってニュートラ」ファッションでしたが問題なく入れてもらえました。

70年代には、みんなで一斉に同じ振り付けで踊らなくてはならないような曲があったりして戸惑いましたが、80年代に入るとそんなこともなくなりました。お気に入りのDJや曲などにこだわる人もいたようですが、私は大音響の中に身を置いて、ただひたすら踊っていられればそれで満足でした。

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1982年に新卒で就職してからも、相変わらず六本木には時々踊りに行きました。同期の仲間たち大勢で行ったり、気の合う数名の女の子同士で行ったりしました。あの頃一番よく行ったのは芋洗坂にあったディスコでした。一度行くと割引券や招待券をくれるので、夕飯を兼ねて時々踊りに行きました。

六本木のディスコではよく友人・知人に会いました。一度、仲良しの同僚と行った時、社内の他部署の男性が美女と共に、私たちの座っているソファの目の前を横ぎって、すぐそこのソファに腰掛けたかと思うと、いきなり美女にキスをし始め、私たちが呆気にとられて見つめているとも知らず、ソファに押し倒さんばかりの勢いで強烈なキスをし続けて、私たちの方が目のやり場に困って場所を移動したということもありました。

色気より食い気の私たちは、ディスコに入るとまずは荷物をコインロッカーに預けると、その足で食べ放題のお皿を片手にあれこれと食べて、ひと息入れてからダンスフロアーに出ました。入り口で男同士の人に一緒に入ってくれと頼まれても、中で待ち合わせしてるからなどと誤魔化して、ディスコは純粋に食べて飲んで踊る場所だと思っていました。あの頃はハイヒールを履いて、何時間も踊っていられたものでした。

大声で叫んでも聞こえないような大音響に包まれながら、ひたすら踊っていると一種の恍惚感を味わうことができました。いつまでもいつまでもこの音と光の洪水に身を任せていたいと思っていました。

◇ ◇ ◇

しかし当時のディスコは1時間くらい踊り続けると、一転曲調が変わって、チークタイムと呼ばれる、恋人同士が抱き合ってしっとりと踊る時間になりました。そうなると、私たちはしばらく休憩となりました。

ダンスフロアからドリンクカウンターに行って飲み物を手にすると、ソファに向かいました。私はお酒に弱いので、もっぱら烏龍茶ばかり飲んでいましたが、それでも時々は当時流行っていたソルティードッグやカルーアミルクなどを舐めながら、ミラーボールの輝くディスコの片隅のソファに体を沈めて踊り疲れた体を休めました。すると、私の脳裏には決まって一冊の本が浮かんでくるのでした。

それは『きけ わだつみのこえ』という、戦没学生の手記でした。

◇ ◇ ◇

『きけ わだつみのこえ』とは、太平洋戦争末期に戦没した日本の学徒兵の遺稿集です。初版は1949年(昭和24年)で、推定発行部数は200万部を超える戦後のロングセラーでした。

わだつみ」とは、海神・綿津見などと書き、日本神話の海の神のことを指し、転じて海・海原そのものを指す言葉なのだそうです。手記を公募した際に送られてきた次の歌から書名に選ばれたものでした。

なげけるか いかれるか はたもだせるか きけ はてしなきわだつみのこえ
(嘆けるか 怒れるか はた黙せるか 聞け 果てしなき海神の声)

薄暗いディスコの中で、ミラーボールに反射する光を見つめながら、私とほぼ同じ年齢で戦場に散っていった若者たちが、命をかけて守りたかった祖国とはどのような姿だったのか聞いてみたいという思いが浮かんでくるのでした。

愛する家族や、次の世代に伝えたかったことは何か、もし戦死せずにすむならば、どんな社会を築いていきたいと願っていたのか聞いてみたいと思いました。よもや目の前に広がるこの光景ではないだろうと思いました。

芭蕉の「おもしろうて やがて悲しき鵜舟かな」ではありませんが、楽しければ楽しいほど、それと引き換えに虚しさを感じるものかもしれません。私はディスコで踊るのが楽しくて仕方がなかったので、一層深い虚しさを味わっていたのかもしれません。

照明が消された暗闇の中、写真の連続フラッシュのような閃光に照らされながら、不思議と精神の一部が覚醒するのを感じました。チークタイムが終わり再びダンスフロアーに降り立って、音と光の洪水の真っ只中に身を置きながら、自分の生き方や社会のあり方がこれで良いのかと自問自答したものでした。

私の手元にある1982年発行の『きけ わだつみのこえ』に最初に収録されているのは、次の手記です。

上原良司(うえはらりょうじ)
慶応大学経済学部学生。昭和18年(1943年)12月入営。20年(1945年)5月11日陸軍特別攻撃隊員として沖縄嘉手納湾の米軍機動部隊に突入戦死。22歳。

   遺  書
 生を享(う)けてより二十数年、何一つ不自由なく育てられた私は幸福でした。温(あたた)かき御両親の愛の下(もと)、良(よ)き兄妹の勉励により、私は楽しい日を送る事が出来ました。そしてややもすれば我儘(わがまま)になりつつあった事もありました。この間御両親様に心配をお掛(か)けした事は兄妹中で私が一番でした。それが何の御恩返しもせぬ中(うち)に先立つ事は心苦しくてなりません。
忠孝一本、忠を尽す事が、孝行する事であると言う日本に於ては、私の行動をお許し下さる事と思います。
 空中勤務者としての私は、毎日毎日が死を前提としての生活を送りました。一字一言が毎日の遺書であり遺言であったのです。高空においては、死は決して恐怖の的(まと)ではないのです。このまま突っ込んで果して死ぬのだろうか、否(いな)、どうしても死ぬとは思えませんでした。そして、何かこう突っ込んで見たい衝動に駈(か)られた事もありました。私は決して死を恐れてはいません。むしろ嬉(うれ)しく感じます。何故(なぜ)なれば、懐(なつか)しい竜(りゅう)兄さんに会えると信ずるからです。
 天国に於ける再会こそ私の最も希(のぞ)ましき事です。
私は所謂、死生観は持っていませんでした。何となれば死生観そのものが、飽くまで死を意義づけ、価値づけようとする事であり、不明確な死を怖れるの余りなす事だと考えたからです。私は死を通じて天国に於ける再会を信じて居るが故に、死を怖れないのです。死をば、天国に上る過程なりと考える時、何ともありません。
 私は明確に云えば、自由主義に憧(あこが)れていました。日本が真に永久に続くためには自由主義が必要であると思ったからです。これは馬鹿な事に見えるかも知れません。それは現在日本が全体主義的な気分に包まれているからです。しかし、真に大きな眼を開き、人間の本性を考えた時、自由主義こそ合理的なる主義だと思います。
 戦争において勝敗をえんとすればその国の主義を見れば事前において判明すると思います。人間の本性に合った自然な主義を持った国の勝戦(かちいくさ)は火を見るより明らかであると思います。

 日本を昔日の大英帝国の如くせんとする、私の理想は空(むな)しく敗(やぶ)れました。この上はただ、日本の自由、独立のため、喜んで、命を捧げます。人間にとって一国の興亡は実に重大な事でありますが、宇宙全体から考えた時は実に些細(ささい)な事です。驕れる者久しからずの譬え通り、若し、この戦に米英が勝ったとしても彼等は必ず敗れる日が来る事を知るでしょう。若し敗れないとしても、幾年後かには、地球の破裂により、粉となるのだと思うと、痛快です。加之、現在生きて良い気になっている彼等も、必ず死が来るのです。ただ、早いか晩いかの差です。
 離れにある私の本箱の右の引出しに遺本があります。開かなかったら左の引出しを開けて釘(くぎ)を抜いて出して下さい。
 ではくれぐれも御自愛のほどを祈ります。
 大きい兄さん、清子(きよこ)始め皆さんに宜(よろ)しく、
 ではさよなら、御機嫌良く、さらば永遠に。 
                             良司より
御両親様へ

『きけ わだつみのこえ 日本戦没学生の手記』岩波文庫(1982)p.13−15より
尚、太字でない部分は、考証の結果「原文」にあったとされる文章であり、kindle版『新版 きけ わだつみのこえ』(2015)岩波文庫より補いました。

◇ ◇ ◇

私たちのひとまわり上の団塊の世代は、政治の季節と呼ばれる時代を生きましたが、私たち世代は無気力・無関心・無責任の三無主義、これに無感動を加えて四無主義などと揶揄され、大学はレジャーランド化していると言われてきました。『きけ わだつみのこえ』を読むと、手記を書いて死んでいった青年たちは、とても私たちと同じ年齢とは思えませんでした。

私の父は終戦の時は二十歳、手記を寄せた戦没学生らとほぼ同世代でした(052. 父の召集令状)。その父があの頃、何かの話をしていて「波や風などで船が傾いた時、ある程度までは転覆せずに持ち堪えることができるけれど、ある限界点を超えるともう持ち堪えることができなくなる」という例を出して「もう日本はその限界点を超えたようだ」とつぶやいたことがありました。

映画「ALWAYS 三丁目の夕日 」の鈴木オートの社長が、戦争で生き残ってしまった自分のことを亡くなった戦友に対して申し訳なく思い続けていたように、私が子どもの頃は、日々の生活の中に戦争の影はまだ色濃く残っていました。三種の神器の登場を喜びながらも、多くの大人たちは鎮魂の思いを抱きながら生活するということが日常だったように思います。

60年代、70年代が過ぎ、戦後35年の月日が流れた1980年には、戦後の復興や高度成長期を牽引してきた戦争を知る世代の大方は、定年退職などで社会の第一線から退いていました。父が、日本がその限界点を超えたと言ったのはこの頃だったと思います。

そして日本は空疎なバブル景気、失われた二十年と呼ばれる時代に向かって突き進んで行ったのです。

◇ ◇ ◇

私は子どもの頃からフランスかぶれでフランス文学の翻訳者のお名前には馴染みがありましたが、あの頃『きけ わだつみのこえ』の冒頭を飾る名文を書かれたのが、フランス文学者の渡辺一夫だとは気づきませんでした。

渡辺一夫については、私の note の初期の頃に(005. アンベルクロード神父)と(006. お末さん)で、随筆の名手ということで紹介したことがあります。

『きけ わだつみのこえ』の冒頭の「感想」は次の通りです。

      感  想 
                      渡 辺 一 夫
  本書は、先に公刊された『はるかなる山河に』の続篇である。編集に当っては、組合出版部の方々が論議を重ね、その結論を顧問(こもん)格の僕が批評し、更に出版部の人々が協議して、ようやく方針が決定したのである。僕としては、全体の方針を、肯定し、適切だと思っている。初め、僕は、かなり過激な日本精神主義的な、ある時には戦争謳歌(おうか)にも近いような若干の短文までをも、全部採録するのが「公正」であると主張したのであったが、出版部の方々は、必ずしも僕の意見には賛同の意を表されなかった。現下の社会情勢その他に、少しでも悪い影響を与えるようなことがあってはならぬというのが、その理由であった。僕もそれはもっともだと思った。その上僕は、形式的に「公正」を求めたところで、かえって「公正」を欠くことがあると思ったし、更に、若い戦歿学徒の何人かに、一時でも過激な日本主義的なことや戦争謳歌に近いことを書き綴(つづ)らせるにいたった酷薄(こくはく)な条件とは、あの極めて愚劣な戦争と、あの極めて残忍闇黒な国家組織と軍隊組織とその主要構成員とであったことを思い、これらの痛ましい若干の記録は、追いつめられ、狂乱せしめられた若い魂の叫び声に外(ほか)ならぬと考えた。そして、影響を顧慮(こりょ)することも当然であるが、これらの極度に痛ましい記録を公表することは、我々として耐えられないとも思い、出版部側の意見に賛成したのである。その上、今記したような痛ましい記録を、更に痛ましくしたような言辞を戦前戦中に弄(ろう)して、若い学徒を煽(おだ)てあげていた人々が、現に平気で平和を享受(きょうじゅ)していることを思う時、純真なるがままに、煽動(せんどう)の犠牲になり、しかも今は、白骨となっている学徒諸氏の切ない痛ましすぎる声は、しばらく伏せたほうがよいとも思ったしだいだ。
 しかし、それでも本書のいかなる頁(ページ)にも、追いつめられた若い魂が、——自然死ではもちろんなく、自殺でもない死、他殺死を自ら求めるように、またこれを「散華(さんげ)」と思うように、訓練され、教育された若い魂が、若い生命のある人間として、また夢多かるべき青年として、また十分な理性を育てられた学徒として、不合理を合理として認め、いやなことをすきなことと思い、不自然を自然と考えねばならぬように強(し)いられ、縛(しば)りつけられ、追いこまれた時に、発した叫び声が聞かれるのである。この叫び声は、通読するのに耐えられないくらい悲痛である。それがいかに勇ましい乃至(ないし)潔(いさぎよ)い言葉で綴(つづ)ってあっても、悲痛で暗澹(あんたん)としている。
 僕は、人間が追いつめられると獣や機械になるということを考えるのであるが、人間らしい感情、人間として磨(みが)きあげねばならぬ理性を持っている青年が、かくのごとき状態に無理やりに置かれて、もはや逃(のが)れ出る望みがなくなった時、獣や機械に無理やりにされてしまう直前に、本書に見られるようなうめき声や絶叫が、黙々として立てられたことを思えば、もはや、人間を追いつめるような、特に若い人々を追い詰めるようなことは一切、人間社会から除き去らねばならぬことを沁々(しみじみ)と感ずる。戦争というものは、いかなる戦争でも、必ず人間を追いつめるものである。相手に銃をつきつけたら相手も銃をこっちにつきつけるであろうし、相手が銃をつきつけたら、こっちも銃を突き付けるであろう。これは追いつめられた状態の最も単純な例であろうが、こうした単純な例から抹殺(まっさつ)してゆかねばならない。「私は合法性への迷信を持つものではないが、暴力は人間としての弱さであると思う」というジャン・ジョレースの言葉を思い出すが、この弱さ、この恥ずべき弱さを、人間に強(し)いるのが戦争であり、一切の暴力運動である。
 僕は、本書が、あらゆる日本人に、特に最近の戦争のことを忘れてけろりとしている人々に、のんきに政争ばかりしている政治家に、文化生活を謳歌(おうか)する紳士淑女(しんししゅくじょ)に、深遠な学理に耽(ふけ)る大学教授に、命令一下(いっか)白い棍棒(こんぼう)や長い竿(さお)をふるう警官に、裁判所へ「人民様のお通り」と叫んで赤旗をふりかざしながら突入するモブに、娯楽雑誌以外は本など全然読まぬ実業家に、幼い頃「楓(かえで)のような手をあげて」「兵隊さん万歳」と言ったことのある若い学生諸君に…………読まれて欲しいと思う。現在流行している戦争ルポルタージュの一切に見られない貴重なヒューマン・ドキュメントの数々が、本書に見られるからである。かような苦しみの上にようやく打ち樹(た)てられた平和は、何としても守られねばならぬことが、少しでも判(わか)ることがあるかもしれぬからだ。
 僕は、出版部の人々が苦心してガリ版にされた分厚い原稿を机の上に置き、二、三枚読んだ時、黒い野原一杯に整然と並べられた白い木の十字架を見た。そして、読んでいくうちに、その白い十字架の一つ一つから、赤い血が、苦しげに滲(にじ)み出るのを見た。このような十字架は、二度と立ててはならぬはずである。たとえ、一基(き)でも。
 一九四三年にフランスで発行された「真夜中版(エジション・ド・ミニュイ)」の『詩人の栄光』という詩集に収められたジャン・タルジューの短詩を拙訳して左に掲(かか)げ、若くして非業死(ひごうし)を求めさせられた学徒諸君のために、僕は、心から黙祷(もくとう)を献(ささ)げたいと思う。

死んだ人は、還(かえ)ってこない以上、
生き残った人々は、何が判(わか)ればいい?

死んだ人々には、慨(なげ)く術(すべ)もない以上、
生き残った人々は、誰のこと、何を、慨(なげ)いたらいい?

死んだ人々は、もはや黙ってはいられぬ以上、
生き残った人々は沈黙を守るべきなのか?

                                                                         一九四九・ハ・三一   

『きけ わだつみのこえ 日本戦没学生の手記』岩波文庫(1982)p.5−9より タイトルの「感想」は、kindle版によれば「旧版序文」とあります。尚、太字は原文では傍点表記です。

◇ ◇ ◇

株価が再び3万円を超えた今日、私たちの社会は今度はどこへ向かうのでしょうか。日本証券業協会会長は、実体経済との乖離が指摘されていることについて、バブルではないとのコメントを出しました。

テレビのニュースを見て、ジュリアナ東京のお立ち台で扇子こそ振っていなかったけれど、あの時代、心の片隅にわだつみ(海神)の声を聴きながらも、彼女たちと同じように音とリズムと光の熱狂に身を任せながら、時代に呑み込まれていった若かった自分のことを思い出しました。


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