005.アンベルクロード神父

「死というのは2度あって、1度目は息をひきとる時、2度目はその人が人々の記憶から消え去る時」という話をどこかで聞いたことがあります。

NHKで放送している「ファミリーヒストリー」という番組を見ていると、数代前の祖先のことも伝わっていないケースがあるのを多々見かけます。家族の記憶からですら消えてしまうのですから、子や孫のいない人などはあっという間に2度目の死を迎えることになるのでしょう。

私には、縁もゆかりもなく、面識どころか同時代に生きていたこともない人物でも、誰かの記憶の中で生き続けて欲しいと願う人物がいます。2度目の死を迎えずにいて欲しいのです。

そのひとりは、アンリ・アンベルクロード Henri Humbertclaude 神父です。1878年(明治11年)にフランスで生まれ、1955年(昭和30年)に箱根で倒れるまで、暁星学校や、旧制第一高等学校や東京帝国大学などで教鞭を取った人物です。

私自身は、暁星とも東大ともキリスト教とも何の関係もありません。アンベルクロード神父の話を私の心に刻み付けたのは、フランス文学者の渡辺一夫の随筆でした。

渡辺一夫は、ラブレーの『ガルガンチュワとパンタグリュエル』の翻訳やエラスムスの研究で知られる高名なフランス文学者ですが、『きけわだつみの声』の編纂者や『敗戦日記』の著者としても広く尊敬されてきました。

昭和天皇と同年の1901年(明治34年)、東京市本郷区真砂町に生まれた渡辺一夫は、小学校から暁星学校でフランス語を学び、旧制一高、東京帝国大学文学部仏文科を卒業した後、東京大学などで教鞭をとり、多くの文学者を育てました。その教え子には、加藤周一、中村真一郎、二宮敬、辻邦生、串田孫一、森有正、菅野昭正、清岡卓行、清水徹、大江健三郎など燦然と輝く名前が連なっています。

私は若い頃に、神田の古本屋で渡辺一夫全集を買い求めたほど彼に傾倒してきましたが、本業のラブレーは理解するには遠く及ばず、ファンだと名乗ることすらおこがましい限りですが、「随筆の名手」とも呼ばれた渡辺一夫の随筆だけは繰り返し読んできました。こんな私ではありますが、今回は、何十年も心に残り続けたアンベルクロード神父について述べたいと思います。

 (前略) アンリ・アンベルクロード先生は、1878年(明治11年)10月8日に、フランスのロレーヌ地方オート・ヴォージュ県のラ・ブレスという町で農夫の次男として生れられた。満一歳の時に、父を失われ、17歳の頃からカトリックの修道団体であるマリア会に入られた。先生が、どうして、お若いときから、こうした道を選ばれたのか僕には全く判らないが、ご家庭の事情もあったことだろうし、先生御自身の精神上の問題も色々とあったことであろう。ブザンソン、次いでパリで勉強され、文学士の称号を獲得されているが、その傍、マリア会関係の学校で教鞭も取られた。次いで、スイスのフリブール大学で研究を続け、神学博士になられ、ほとんど同時に、司祭の資格をも得て居られる。
 1908年(明治41年)2月2日に、アンベルクロード先生は、日本に向けて出発され、東京マリア会の暁星学校に来任されたのは、同年3月12日である。丁度、先生が三十歳になられた時のことである。その後、1955年(昭和30年)8月8日、箱根の強羅で卒中に倒れられる時まで、約半世紀の間、アンベルクロード先生は、日本で、司祭として、また献身的な教育者として、地味で静かな生活を送られたのである。
 マリア会という特殊な修道会のためであったと思うが、暁星学校(現在の暁星学園)の外人の先生方は、その当時、夏も冬も、黒いフロックコートを着て居られた。見たところ、特にいわゆる「坊さん」らしくはなかったが、さりとて、普通の社会の人々とも、どことなく違っていた。しかし、この黒いフロックコートが、アンベルクロード先生には、よく似合っていたように思う。僕は、小学校の時分から、この暁星学校のご厄介になっていたが、その当時から、アンベルクロード先生のお姿は、垣間見ていた。そして、そのお姿は、戦後1946年の夏、横浜の聖ジョゼフ学園でお目にかかった時も——そして、その後、僕はお目にかからずじまいになってしまったが、——先生御自身が年を取られたことは別として、ほとんど変わりはなかった。中肉中背のどちらかと言えば、華奢な体を、きりりと黒いフロックコートに包み、山高帽子を被り伏目勝ちに歩いておられた先生の姿は今でもはっきり眼に見える。血色の良い顔をして居られ、写真でしかしらないが、アンリ・ベルクソンを思わせるような目鼻立をして居られた。

 僕が初めて、直接アンベルクロード先生のお教えを受けたのは、暁星中学校の四年か五年かの時である。それまで、この学校では、地理や歴史までがフランス語で教えられていたのであるが、僕が中学校にはいった時分には、もうそういう制度はなくなっていて、日本人の先生方が多く、フランス人の先生たちは、主として外国語の教授だけに当たっておられた。(中略) 
 僕が、アンベルクロード先生から最初に教えていただいたのは、「修身」だった。これは、今述べた暁星学校の昔の学制の名残りとして、恐らく、僕の級ぐらいまでかろうじて保たれていた特別授業だったように思う。勿論、日本人の先生の官制「修身」の授業もあったが「忠孝」一点張りの官制「修身」よりも、アンベルクロード先生の「修身」のほうが、はるかに面白かった。先生は、ローマ字で書かれた教案を、日本語で読まれ、時々、フランス語を交えられたが、毎週行われる試験(どの学科もそうだったが)の時には、ローマ字で日本語の答案を書いても、フランス語で綴っても、それは自由だった。僕は丁度、高等学校をフランス語で受験する予定だったので、作文の練習のたしにするつもりで、大抵は下手なフランス語で答案を書いた。そして、フランス語で書くと、どんなにでたらめな答案でも、七十五点以上はもらえるということも判った。その後、アンベルクロード先生に、こうした奸計を用いた旨を告白すると、先生は「きゃらきゃら笑って」(この表現は、前にも記したが、先生独得の日本語で、「からから笑う」と同義である。Kara Kara をフランス流に、しかも、若干パリ風に発音すると、きゃらきゃらとなるのである。カフェーをキャフェーと発音するように。)——先生は、「きゃらきゃら笑って」「理由は何であろうと、フランス語で書こうとする善意 Bonne volonté も修身(モラル)の一部ですからね」と言われた。(中略)
    ある時のこと、毎週の試験の折に「人間とは何ぞや?」という題を先生は出された。勿論答えとしては、肉体プラス霊魂という風な公式を基として論を展開すべきものであったし、それは十分心得ていたのに、僕は、何か虫の居どころが悪かったせいか、「H2SO4+......=人間」という風な、全く物資主義的な答案をわざと書いてしまった。例によって、でたらめなフランス語で綴る善意 Bonne volonté だけは棄てていなかったので、その時も、たしか七十五点(?)ぐらい頂戴できたと思うが、授業がすむと、僕は、アンベルクロード先生に、廊下に呼び出されてしまった。そして、先生は僕の考えがどんなに浅はかなものであるかを、懇々と説かれた、先生は、少しも怒ってはおられず、むしろ眼に涙をためておられた。生意気な中学生の僕も、これには撃たれてしまった。今でも、あの時の先生の悲しそうな顔は忘れられない。そして、現在、あの時以上に、人間の問題について、僕が浅はかでなくなっているかどうかも自信がないが、あのお顔の思い出は、とにかく外道的な考え方に走り易い僕を制御してくれることも事実である。
  僕が第一高等学校に進むと、アンベルクロード先生は、一足先に、一高の先生になっておられ、改めて、フランス語を教えていただけることになった。そろそろフランスの小説など濫読し始めた頃であったが、ある時、アルフレッド・ド・ミュッセの小説を読んでいたら、lupanar(淫売屋)という字が出てきた。当時はまだ白水社の『模範仏和辞典』も出ていない頃だったし、どうしても、この語の意味が判らなかった。しかたがないので、アンベルクロード先生におたずねすると、先生は、ぽっと頬を赤くされて「リュパナールへは行っていけません」と言われた。妙なことに、それで意味が大体判ってしまった。
 高校時代にもう一度、中学時代に見たのと同じような先生の悲しい顔に接したことがある。会話の時間に、先生は学生一同に「趣味」について質問された。僕の番になると、僕は、どういう魔がさしたものか「読書と散歩」とか「音楽と絵画」とか答えればよいのに、そうは答えずに「食べて眠ること」Manger et dormir と言ってしまったのである。先生は、はっとして、僕を見られたが、すぐ眼を伏せ、しばらく黙りこまれ、「悲しいことですね、ワタナベさん C'est triste!  Monsieur Watanabé」と言われた。人間を化学方程式で表現しようとした中学生の僕のことを、先生は思い出されていたかどうか、僕は知らないが、僕自身は、ぎょっとして、中学時代に一度見た先生の悲しげなお顔を思い出し、全く悄然として腰を下ろしたことだけは確実である。大学へ進むとふしぎなことにアンベルクロード先生は、またして一足先に、大学の先生になって居られた。丁度辰野隆先生が御留学中の頃で、当時僕ら六、七人だったフランス文学科の学生は、アンベルクロード先生だけから、フランス文学語学の指導を受けた。(鈴木信太郎先生は、助手をしておられた。辰野先生には、大学二年生の時から御厄介になった。)
 大学におけるアンベルクロード先生に関しては、我々門下生一同が、各々、数々の思い出を持っている筈だが、共通の深い感銘となっていることが、恐らく二つある筈だ。一つは、時々してくださった作文の添削である。細かい字体で、我々の下手なフランス文を訂正し、評を添えてくださるのであったが、現在、日本にいるフランス人の先生であれほど丁寧に指導してくれる人は決して多くないだろうと思う。もっとも、現在、どの学校でも、フランス文学科の学生の数は必要以上に多く、どんなに善意のある先生でも、三十人、四十人の学生の作文をあれほど詳細に点検し添削することは、困難かもしれない。(中略)

    作文のこと以外に、忘れられないのは、文学史と特殊研究との講義であった。アンベルクロード先生は、毎時間、藁半紙へぎっしりとガリ版印刷された講義要約を学生たちに下さったものである。色々な文学史を綜合された極めて公平な内容のものであり、作家別に、その生涯や作品が、かなり詳しく記述されていたが、最後にかならず、「総評」Appréciation générale という項目がついていた。そこには、常に「内容(フォン)」fond と「形式(フォルム)」forme という二つの細目があり、前者には、当該作家の思想、感情、想像力などが規定され、後者においては、主として、文体の問題が論ぜられてあった。当時、このように作家を簡単に裁断することは、やや滑稽に思われたので、我々は、茶飲み話に、よく「君のフォンはXXで、フォルムはXXだ」などと、ふざけあったものである。しかし、こうしたフランスの学校式の裁断法は、それが作家の目鼻立ちを、とも角も、大づかみに捉えるには、甚だ適当であるということが、年をとるにつれて、我々にも判ってきたのであり、いつも、このプリントのことをなつかしく思い出すのである。我々と言ったが、僕は勿論そのなかにはいるが、今日出海氏も、当然そのなかにはいる。氏は、自ら僕に語られたごとく、講演される時などに、屢々この「フォン」と「フォルム」とを利用して、作家や人物を概評され、「非常に便利なものですな」と言って居られたことでも判るであろう。

  この文学史や特殊研究用のプリントは、アンベルクロード先生御自身が、毎週ガリ版で切られるのであり、その労力は並大抵のものではない。僕も、その真似をして、二、三年前から、ある特殊講義の資料をプリントして学生さんに配っているが、一週に一度ガリ版を切るのには、甚だ強い意志を要する。僕などは、時折心が挫けたり時間が足りなかったりして怠けたくなる。現在、昔アンベルクロード先生に教えていただいた連中のなかには、かなり多くの教員がいるわけだが、あのプリントのことを思うと、全く粛然たらざるを得まい。あれだけの献身をし通せる先生というものは、恐らく少いであろう。そして、教育法の変化ということは別問題とすれば、現在、日本におられつ外人教師のうち、アンベルクロード先生のように週に平均三、四枚のガリ版を自ら切るだけの意志のある人々は、ほとんど皆無ではないかと思われる。(中略)アンベルクロード先生は、東大には、1921年から1932年まで教鞭をとられていたが先生の教育方針は、全く始終一貫して変わらなかった。この十年間に、先生の教室に出た人々は以上述べた先生の地味な献身を忘れることはあるまい。(中略)

 マリア会に所属して居られた先生は、一高や大学から支給される月給は、全部、マリア会の共通収益として納められていたらしい。小さな共産的団体であることは、多くの修道会と同じことなのであろう。黒いフロックを着、山高帽子を被り、雨の日も風の日も雪の日も、九段の暁星学校から本郷台まで常に同じ道を、常に同じ姿勢をして通われたアンベルクロード先生は、ただこれだけのことをして、日本の土となられた。しかし、このただこれだけのことのなかには、例えば、あの丁寧な作文添削もあるし、あの親切なプリント作製もある。なかなか普通の人にはできない「ただこれだけのこと」である。
    現在も暁星学園には、僕が教えていただき、アンベルクロード先生の同僚だったフランス人の先生方が居られる。例えば、ルネ・ガヴァルダ先生、ゲットレーベン先生、ヘグリ先生などである。皆、アンベルクロード先生同様に、マリア会士として、地味に、日本人のために身を献ぜて居られる。皆、お歳を召してしまった。これらの先生方は、異口同音に、「アンベルクロードさんに会いたいと思ったら、この暁星学校のなかか、さもなくば、あの町のある通りを歩けば必ず会える」と言っておられた。つまり、アンベルクロード先生は、自分で引かれた線の上を、常に正確に、少しも踏みはずすことなしに歩いて居られ、それが日々の生活にもよく現れていたのであり、散歩の時も、常に同じ道しか歩かれなかったのである。カントのように。
(後略)
「アンリ・アンベルクロード先生のこと」1956年 初出  『白日夢』講談社文芸文庫 p.111-125 より抜粋

長い引用になってしまいましたが、それでも「社会的制裁」sanction sociale についてのエピソードや、アンベルクロード神父を語る上で重要な博士論文『エラスムスとルッター』についてのエピソードなどは、著作権に配慮して割愛しました。

まったく面識もなければ何の縁もゆかりもない人物についてなぜ私がこのような文章を書くのかというと、それは、アンベルクロード神父がこの世に存在し、見知らぬ外国の土地で「献身的に」教育者として生きたということが、私自身の人生を節々で支えてくれたからなのです。

この文章を読んで以来、私自身の傍には、いつも化学式で人間を表わそうとする生徒に涙を浮かべ、「食べて眠る趣味」を心から悲しむ人物が寄り添ってくれているように感じてきました。またアンベルクロード先生のみならず、先生の教えを全身で受け止め、ユマニストとしてその教えを体現した渡辺一夫という人物の存在に支えられたと言うべきなのかもしれません。

私は生きる意味を見失いがちで、しばしばどのように生きていったらよいのかと途方に暮れてきました。しかし、アンベルクロード先生が黒いフロックコートに身を包み山高帽子をかぶって、地味に静かに、カントのように同じ道を往復する姿を思い浮かべると、その姿こそが「生きるということ」なのだと、一筋の道を示されるように感じてきました。

私などは人の評価を求めがちで、やれ自己実現だ自己研鑽だなどという流行りの言葉に踊らされ、その度に意気込むくせに元来の無精な性格があちこちで首をもたげ、ずいぶんと無計画な人生を送ってきました。

アンベルクロード神父は、天命を果たすために、地味で静かだけれど強靭な精神力に支えられ、ただただ献身的にその人生を捧げてこられたのでしょう。

綺羅星のように渡辺一夫の弟子、孫弟子、曽孫弟子が多くおられる中で、私のような門外漢がこのような文章を書くのは僭越も甚だしいのですが、若い人が多く読む note でアンベルクロード神父を紹介することによって、ひとりでも多くの人の記憶の中で生き続けていてもらいたいと願い、この文章をしたためました。


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