235.祖母の海苔巻き

本稿は、2022年2月5日に掲載した記事の再録です。

毎年節分の頃になると、「恵方巻き」のノボリ旗がコンビニの前に立ち並び、スーパーのお惣菜コーナーにもずらりと恵方巻きが並びます。売れ残った恵方巻きが廃棄処分となるということも、社会問題となって久しくなりました。

私は恵方巻きを見かけるたびに、子どもの頃祖母が作ってくれた海苔巻きのことを思い出します。数々の祖母の手料理の中でも、とりわけ作り方の手順の記憶が鮮明なのがこの太巻なのです。祖母は海苔巻きと呼んでいました。

「さぁさ、今日は皆んなが揃ったで、海苔巻きしましょか」と、祖母が出身地の名古屋弁で声をかけながら台所へ降り立つと、私はわーいと歓声を上げ、お手伝いをしようとはりきりました。

しかし、まだ子どもだった私は足手まといになるのが関の山で、あれこれ手を出しては叱られ、結局おとなしく台所の上がりかまちに腰を掛けて、祖母の姿をずっと目で追うことになるのでした。

◇ ◇ ◇

私の祖父母は大阪に住んでいました。祖父は明治25年(1892年)生まれ、祖母は明治30年(1897年)の生まれです。

祖母の家の台所は、令和の現在ではもはや資料館の展示室でしかお目にかかれないような代物でした。

茶の間の北側のガラス戸をガラリと開けると、黒い木の板を並べた上がりかまちがあって、その向こうは四畳半ほどの土間になっていました。

木の板の上がり框の向こうには、もうひとつ平べったい石段があって、その石の上に祖父の下駄と、ふたまわり程小さい祖母の下駄が並べてあり、土間に降りる為には、いちいちその下駄をつっかける必要がありました。

左手の西の壁には火をくべる「かまど」が2つ並んでいました。大きなお釜がすっぽり入るほどの大きなかまどでした。ぼんやりとした記憶の底を探ると、祖母がかまどに火をくべていた姿が甦ってきますが、はっきりした記憶の中では、そのかまどの上には幅のある長い板が渡してあって、その上にガス炊飯器とガスコンロが並んで置かれていました。祖母はそこで煮炊きをしていたのでした。

西側の壁に沿ってかまどの右隣、つまり北西の角に流し台が置いてありました。流しは細かい石を繋ぎ合わせてぎゅっと固めたような材質でできていました。そして驚くべきことに、その流しには水道の蛇口がないのでした。

それでは水道はというと、流し台に立つとその右手後ろ、つまり北側の壁から蛇口がにゅっと顔を出していて、そのすぐ下にはかめが置いてあるのでした。甕は7、80センチ程の高さがあり、水道の蛇口をひねると、水は甕の中に貯まります。

洗い物の時などは、かめに溜まった水を柄杓ひしゃくですくってそのまま使い、飲み水や料理には蛇口をひねって新鮮な水を使っていました。蛇口にはガーゼの袋がついていて、おそらく井戸水だったのでしょう、蛇口には不純物を取り除くためにガーゼの袋が被せられていました。

当時、1960年代(昭和35年〜44年)頃には、戦前に建てられた家は次々に建て替えられていったので、祖母の家のように、いちいちかめから柄杓ひしゃくで水をすくっていた家は、田舎はともかく街中では激減していきました。しかし、どういうわけか祖父母の家は近鉄線の駅にほど近い街中だというのに、1970年代まで台所は土間のままでした。

北側の壁の甕の隣には、「たらい」が立てかけてあって、私が小さな頃は祖母はそのたらいを土間に置いて、しゃがんでゴシゴシと洗濯板で洗濯をしていたものでした。たらいの水は、かめから柄杓ひしゃくで移していました。

私が小学生になってしばらくした頃、母が「洗濯機」を買ってはどうかと提案していましたが、祖母は「そんな機械などいりゃあせん、たらいで充分だが」とにべもなく断っていました。

東側の壁は引き戸になっていて、そこから裏庭に出られるようになっていました。戦前はその裏庭の手押しポンプで水を汲み、それを土間まで運び込んでいたそうで、それに比べれば移動しなくてもその場で柄杓で水を汲み入れられる今は何の不自由もないとのことでした。

たらいの隣には七輪が置いてあって、秋刀魚や鯵の開きなど魚を焼くときには、七輪を裏庭に出して、うちわを片手に炭火で焼いてくれたものでした。そういえば東側の引き戸をあけると、軒下には炭の袋や薪がきちんと並べてありました。

裏庭には物干し竿が上下に二本あって、祖母はたらいで洗濯を終えて両手で洗濯物を力一杯絞ると、大きなシーツでも器用に物干し竿に干していました。着物の洗い張りの板が並んでいたこともあります。一面緑色の苔で覆われた裏庭の、なんとも美しい光景でした。

いつのことだったか、まだ私が小学生だったある日、母が祖母を説き伏せることに成功したのか洗濯機がやってきました。長年に渡ってほうきで掃き清められ、雑巾で磨き上げられてきた土間に、いきなり「近代的な機械」が設置されることになったのでした。その存在は、静謐な空気の漂う木造家屋の土間に突如として現れた「異質物」であり、上がり框の磨き抜かれた黒光りする板と比べると、その白い輝きは奇妙に感じられました。

祖母の海苔巻きは、そんな空間で作られました。

◇ ◇ ◇

祖母が海苔巻き用に焼く玉子焼きは、真四角に近い玉子焼き専用のフライパンに油を垂らし、甘く味付けをした玉子を流し入れて細長く焼かれました。焼き上がると巻きできゅっと形を整えて、包丁でさらに細長く切り分けたものでした。母は厚焼き玉子は苦手だといっていましたが、私は祖母の作り方を眺めているのが好きだったので、いつのまにか家での玉子焼きは私が担当するようになりました。

祖母は「かんぴょう」や椎茸も煮ました。私は心の中でかんぴょうなど入れなくてもいいのにと思っていましたが、どうやらかんぴょうは海苔巻きには欠かせないもののようでした。金色に鈍く光るアルミの鍋に、砂糖や醤油、それに味醂などの調味料を入れて煮汁を作ります。

手元の入れ物に入っている調味料が少なくなってくると、祖母は上がり框の黒い板と板の間にある500円玉くらいの穴に指を入れて板を引き上げて、上がり框の下から醤油の一升瓶やら、酒の一升瓶などを取り出して補充するのでした。上がり框の下は、ちょっとした倉庫になっていて、幼い私の胸をときめかせました。

黒い板の下には、調味料の瓶の他にも、梅干しやらっきょうを漬けた茶色い陶器の甕がずらりと並んでおり、私にはまるで異次元空間への入り口のような不思議な空間に感じました。

玉子を焼いたり切ったり、かんぴょうを煮たり切ったりしているうちにご飯が炊き上がります。すると、祖母は三段になっている踏み台を縁側から持ってきて、台所の上の棚から「寿司桶」を取り出します。この踏み台は、居間の柱時計のネジを巻くときにも活躍しました。寿司桶に柄杓で水をかけて十分に濡らしたら布巾でよく拭き取り、その寿司桶をちゃぶ台の上へ置きます。

そこへ炊き立てのご飯を入れ、あらかじめ準備しておいた寿司酢を回しかけ、手早くうちわであおいで冷ましていくのです。この時のうちわ担当は私の役割と決まっていて、祖母が寿司飯を切るように混ぜていくのを邪魔しないように頑張ってあおぎました。それでもしばらくすると手がだるくなってしまって、うちわは母や祖母の手に渡りました。

布巾をかけてしばらく寿司飯をなじませると、縦に細長く切ったきゅうりや、私の大好きな桜でんぶ、それに煮上がって冷ました椎茸やかんぴょうや玉子焼きをちゃぶ台にずらりと並べます。それからいよいよ火鉢の上で丁寧に海苔をあぶると、巻きの上にパリパリになった海苔を置き、祖母はその上に寿司飯を乗せて丁寧に伸ばしていくのです。

寿司飯の上にすべての具を乗せ終わると、祖母は膝立ちのまま前屈みになって両手で巻き簾を一巻きすると、小柄な体重をかけて「クッと」海苔巻きをさらに中へ折り込むような仕草をし、それからゆっくりと巻き簾を巻き、巻き終わると両手で丁寧に包み込むようにきゅっきゅと形作るのでした。私も同じように膝立ちで海苔巻きの中を覗き込むようにしては邪魔になるとよく叱られたものでした。

海苔巻きは、これまで煮たり焼いたりしてきた色んな材料がひとつに合わさった、いかにも「集大成」といったお料理で、少し時間を置いて、濡れ布巾でよく拭いた包丁を入れた時に見える海苔巻きの断面には、心がときめきました。

しかしこの包丁を入れる際、何より楽しみなのは「端っこ」の部分でした。海苔から具がはみ出している端っこの部分は、その場で食べても良いことになっていて、これを食べたさに海苔巻きを作ってもらうようなものでした。かんぴょうの煮汁が口一杯に拡がりました。

実は私の海苔巻きの記憶は、いつもこの端っこを食べるところで途切れていて、実際に食卓で家族揃って海苔巻きをいただく場面の記憶がありません。

◇ ◇ ◇

祖母の海苔巻きの思い出は心が浮き立つものばかりではなく、反対に思い出すだけで胸が痛むものもありました。それは食後の食器洗いのことでした。

茶の間の北側に位置する土間の台所は、裏庭へ出る東側の引き戸のガラス窓から朝日が差し込むようになっていました。しかし、土間の天井には電気の灯りはなく、昼間でも仄暗ほのぐらく、夜になると茶の間の電気がデコボコしたガラス窓を通してこぼれてくる程度で、かろうじて物が見えるといった明るさしかありませんでした。

祖母は、私たち全員の食器を北西の流しに立って洗っていました。土間そのものにも灯りはない上に、流しの上の電気も当然のようにない薄暗い空間で、祖母は手探りのように甕から柄杓で冷たい水をすくっては洗い物をしていました。

私の家には、小学生の頃に瞬間湯沸かし器がつけられましたが、電気の灯りもない祖母の家の台所にはもちろんそんなものはなく、翌朝、目が覚めたら甕の水に氷が張るような寒い晩でも、祖母はひとり流しに立っていました。

私はそんな祖母の姿を見ると胸が痛み、この状況をなんとかしたいと心から思いました。祖母のそばで食器を一緒に洗おうとしたり、洗い終わった食器を布巾で拭こうとしたりしましたが、祖母に寒いから上で祖父や母とお話ししておいでとか、絵本やテレビを見ておいで言われてしまうのです。それでも尚、祖母にまとわりついていると、「なにしとるがね、はよう上へ行きゃぁ」と叱られてしまうのです。

私はせめて灯りでもと思い、茶の間と土間の間のでこぼこガラスのはまったガラス戸を閉めないでいると、「はよう閉めなさい、冷たい空気がそっちへいくで」と祖母は、私が茶の間に入ってガラス戸を閉め切るまで言い続けるのでした。私はいつもどうしたらよいのかわからずに、悲しい思いで祖母の姿を、少し背伸びすればデコボコがなくなる硝子越しに眺めていました。

祖母は暗いうちに家中の誰よりも早く起きて、炭をおこし、大きな鍋で湯を沸かし、私たちが起きてくる頃にはアルミの金盥かなだらいに沸かした湯と甕の水を混ぜ合わせて顔を洗うためのぬるま湯を準備するのを皮切りに、終日、台所の土間の上がり框を昇り降りしていました。

いちいち下駄をつっかけ、いちいち下駄をぬいでは「どっこしょ」と掛け声をかけながら土間と茶の間とを何度も何度も往復していました。祖母は惜しみなく人に与えるばかりの人で、誰も見ていない時でもいつでも自分をしまいに、控え目に生きていました。そしてその両手からは、海苔巻きやら茶碗蒸しやらオムライスやら、私の七五三の着物からリカちゃん人形の振袖まで、私たちが喜ぶものを次から次へと魔法のように生み出してくれるのでした。

戦前には手伝いの人もいたようですが、私の記憶の中の祖母は、ひとりで家事の一切合切を取り仕切っていました。今でいう完全ワンオペでした。家の中は常に磨き上げられ、畳も茶殻を撒いてくまなく清められていました。「仕事は道具がさせる」と常々口にして、裁縫道具も台所用品を入念に手入れをしていました。

現役時代の祖父は料亭で舌鼓を打ってきたそうですが、それでも祖母の手料理が一番うまいとたびたび言っていました。祖母は、幸いにも金銭的な苦労はせずに済んだようでしたが、常に祖父に三つ指をつき、冷たく暗い土間でその生涯の多くを過ごしました。

そんな祖母でしたが、自分の人生はなんて恵まれているのだろうと常に感謝の念を持ち続けていました。私たちのことをこんなに可愛い孫たちがいて自分はなんと幸せなことだろう、ありがたいありがたいと言っていました。祖母はその人柄で近所の方々からも慕われていました。

◇ ◇ ◇

今、今年90歳になる母の携帯電話は、常に「不携帯電話」だから、外出する時には必ずバッグにいれるように言っても、またインターネットのビデオ通話を使えば互いに顔が見られて便利だからと話しても、母は「少しも困ってないから携帯もインターネットもいらないわ」と耳を貸しません。

こういう会話をするたびに、あの頃、祖母も洗濯機や掃除機がなくても少しも困っていなくて、あの薄暗い土間の洗い物にしても、井戸端で外気の中で行ったり、釣瓶つるべやポンプで汲んだ井戸水を運んだ頃のことを思えば、便利な環境だと感じていたのかもしれないと思うようになりました。

そういえば子どもの頃、祖母の台所を改装しようとどれだけ母が説得しても、当の本人である祖母が「ちぃっとも困っとりゃぁせん、慣れていて使い勝手がええがな」と言って、どうしても説得に応じてくれないと母が嘆いていたことが思い起こされます。

街中で恵方巻きを見かけると、私は明治の時代に生を受け、明治、大正、昭和と生きて亡くなった祖母がこしらえてくれた手作りの海苔巻きを思い出します。節分でなくとも海苔巻き、とりわけ太巻を見るたびに、幸せと悲しさが入り混じった祖母の海苔巻きと祖母の人生に想いを馳せてしまいます。


<再録にあたって>
今年もあちらこちらで恵方巻きの幟やポスターを見かけるようになりました。
中村草田男が「降る雪や明治は遠くなりにけり」と詠んだのは、昭和6年(1931年)のことですが、大正は15年しかなかったので、この句が詠まれた時にはまだ明治が終わってから20年も経っていなかったことになります。
今では昭和が終わってから既に35年も経ってしまったのかと、改めて月日の流れを感じてしまいます。

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