042.祖母のお財布

夕どきになると、私は祖母にせがんでよくお買い物に連れて行ってもらいました。大阪の祖父母の家の近くには、「市場(いちば)」と呼ばれる一角があって、そこには熱気が渦巻いていました。

祖母の家の近くにあった市場は、天井こそありましたが床はなく、地面が剥き出しになっていました。八百屋、魚屋、肉屋、乾物屋、味噌屋、漬物屋など、ありとあらゆるお店が一堂に集まって、とりあえず屋根をかぶせて営業しているという状態でした。

市場の建物に入る時、私はいつもちょっとしたラビリンスへ足を踏み入れるような感覚がありました。色鮮やかな品物の数々、雑多な足音、さまざまな匂い、呼び込みの大声、値切る声、大勢の人いきれ、私は小柄な祖母の姿を見失わないようについていきました。

父の転勤で東京の郊外に引っ越した私の家の近所にあったのは、あの頃には珍しいスーパーマーケットの走りのようなお店だったので、大阪の活気溢れる市場に私はすっかり魅了されていました。

◇ ◇ ◇

祖母がそろそろお買い物に行くとなると、箪笥の上の方の小さな引き出しからお財布を出し、お台所の開きの扉の中から濃淡の緑色をしたビニール編みの買い物籠を手に取って、下駄をつっかけて出かけるのでした。

最近あまり耳にすることがなくなりましたが、昔は、喉を押しつぶして、押し出すような声で、「え〜、らっしゃい、らっしゃい〜」という呼び込みの声をよく聞いたものでした。電車の運転手さんの「出発、進行」も同じような発声でした。

祖母は私に今夜のおかずは何がいいかと聞きながら、八百屋さんでひと山ごとに並べんでいるキュウリやナスなどを選んでは、どんどん新聞紙にくるんでもらっていきました。昭和40年代前半(1970年)頃までは、野菜や肉魚などがビニールにくるまれて売っているなんてことはなく、そのままの形で売られていました。

野菜は、キャベツや大根など大きな野菜はそのまま買い物籠に入れ、サヤインゲンやトマトなどバラバラになりそうな野菜は新聞紙にくるんでもらいました。あの頃の新聞紙は万能選手で、生活の至る所で大活躍していました。お買い物の時の包み紙を始め、敷物にもなったし、お弁当箱をくるむのにも、食器をしまうときにも新聞紙を使っていました。

そういえばあの頃の新聞紙は印刷が悪く、よく指先にインキがついて真っ黒になったものでした。脱線ついでに云えば、程度の差はあれ新聞紙のインキが指先につくというのは、私が就職して毎朝電車の中で新聞を読みながら通勤していた頃も同じで、会社に着く頃には指先が真っ黒になっており、男性社員は気にならないのかしらと思いながら、私はデスクにつくとまずはポケットからウエットテッシュを出して指先のインキを拭き取るところから仕事を始めたものでした。

さて、私にとっての市場の楽しみはたくさんあって、どこから話せばよいかわからないほどですが、なんでも秤売りをしてくれていたということはものすごく興味深いことでした。例えばお味噌。味噌屋さんの前にはずらりと味噌樽が並び、好きな銘柄の味噌を選ぶと、その樽から調理用スコップやヘラなどで味噌をすくい、秤で量ってくれるのです。この時の秤は、上皿秤のこともあれば、昔ながらの分銅を使ったものもあり、棒秤があったり様々でした。最後には必ず「おまけのひと乗せ」がありました。

祖父母はもともと名古屋の出身でした。クレラップを作っている「クレハ」の前身の「呉羽化学」の、そのまた前身の「呉羽紡績」に勤めていた祖父の転勤で大阪にやってきていたので、祖母の買う味噌は八丁味噌と決まっていて、味噌屋さんも祖母を見ればすぐに豆味噌の山にささっているヘラを手に取って「勉強しときます」などというのでした。

私は「勉強?」「なんで今勉強するの?」などと頭の中が疑問符だらけになっていましたが、大阪では値引きしたりサービスすることを勉強するといっていました。

大阪の値引きと言えば、私の母が父の転勤で1961年(昭和36年)に大阪から東京の郊外に引っ越ししてきたときのことです。品物に100円と値札が付いていたので、母はそれを手に取ってお店の人に「これ、いくらですか?」と聞くと、お店の人は目を丸くして「え…、100円ですけど…」と、この人は一体何を聞いているのかしらというように答えたそうです。商人の町大阪出身の母には、まさか100円の値札のついたものをそのまま100円で売るなどとは思いもよらないことなので、びっくりして言葉を失ったということが我が家の笑い話になっています。

お味噌の量もそうでしたが、お店の人も祖父母も、昔の尺貫法を使ってよく会話していました。お米を一合、二合と数えるのは今もまだ普通に使われていますが、お醤油やお酒を一升、二升、肉はグラムではなく「匁(もんめ)」を使うことがありました。今調べてみると、一匁は五円玉と同じ重さ 3.75g だということなので、「牛肉百匁」といえば牛肉 375g ということになります。

祖父に私の背が伸びたと言っては何センチになったのかときかれ、答えると一瞬の間をおいて何尺何寸に計算し直して、実感として認識しているようでした。それは私がアメリカの本を読んでいて、登場人物の身長が何フィート何インチと出てくる度に何メートル何センチに計算し直しているのと同じ感覚のようでした。

お店でも、尺貫法はまだまだ生きていて、私の知らない単位で会話がなされていくのもおもしろく感じました。でも、母が尺貫法を口にするのを聞いたことはありません。私自身は、一寸法師が親指くらいの絵本を読んで、一寸は親指の長さというくらいしか知りませんでした。

お店のおじさんやおばさんはものすごい手際の良さで品物を包むと、天井から吊り下がっていたザルを引き寄せ、素早くおつりを手渡してくれました。量が多い時はソロバンを弾くこともありました。お店で使っていたソロバンは、私が学校で習った五の位に玉が一つ、一の位に玉が四つという当時の今風のソロバンとは違って、五の位には玉が二つ、一の位には玉が五つある昔ながらのソロバンでした。どのお店もとにかく計算が早く、瞬時に品物とお金が交換されていくのでした。

あの頃、レシートなんていうものは記憶になく、品物を包んだ新聞紙におじさんが耳に挟んだ色鉛筆で値段の 60 などを書くのがせいぜいでした。確定申告などどうしていたのかと思ってしまいますが、天井からゴム紐で吊るした籠の中には、小銭もお札もバサバサ入っていたし、お店の人のどんぶりと呼ばれる前掛けの大きなポケットにもザクザクお金が入っていて、まるで指先に目がついているように正確におつりを取り出していきました。

自動ドアが開くのを待って進むよりも、ドアを手で開けながら進んだ方がずっと早いのと同じで、今風のレジで計算してもらうより、当時のお買い物はずっとスピーディーだったように思います。

市場で買ったものは、わずかな例外を除いて、ほとんどすべて燃やせるか土に帰るものばかりで、ビニールやプラスチックの物はありませんでした。大抵のものは新聞紙や油紙でくるまれており、液体は瓶に入っていました。昨日と今日、今日と明日の間には大きな違いは感じませんが、長い年月を経ると人々の営みはすっかり変わっていきました。

祖母の家には行商の魚屋さんが出入りしていて、毎日のように生きのいい魚を届けてくれました。そのほかにも酒屋さん、お米さん、お豆腐さんなどが勝手口から顔を覗かせ御用聞きをしてくれていました。大抵、祖母はツケで品物を買いました。月末になってお勘定となると、祖母はがまぐちの金具を開いて支払いをしていました。

祖母のお財布には、小さな寝付けがついていました。祖母の根付は象牙細工の中にチリチリとなる鈴が入っていました。ですから私が昼寝をしている内に祖母がこっそり出かけようとしても、私はすぐに目を覚まして、一緒に連れていってとせがむことができました。

祖母のお財布には、紙幣と硬貨が入っているだけで、あとは何にも入っていませんでした。クレジットカードはもちろん、ポイントカードも会員券もなにも入っていませんでした。出かける時に必要なものは、買い物籠とお財布だけでした。ついでにいえば、出かける時にスマートフォンも家の鍵も必要ありませんでした。日中、家の玄関に鍵をかける習慣はありませんでした。来客は、玄関の引き戸をガラガラと開けてから「ごめんください」と声をかけたものでした。

◇ ◇ ◇

何年か前に、祖母の桐の箪笥の小引き出しを開けてみたら、あの懐かしい祖母のお財布が出てきました。数十年の時を超えて、祖母がすぐ傍まで戻ってきてくれたように感じました。

そして、がまぐちの留め金をそっと開いてみたら、百円札が三枚、きれいに折られて入っていました。板垣退助の描かれた百円札でした。胸が突かれる思いがしました。三百円だけがお財布に入っていたのです。

百円札は昭和49年(1974年)まで発行されていたようです。祖母が転んで入院したのが私が大学2年生になった1979年でしたから、元気だった祖母が最後まで使っていたのがこのお財布だったと思います。


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