242.卒業式と恩師
袴姿の女子学生を街中で見かけるようになりました。卒業式の季節です。昨年からほとんど大学にも通うことなくオンライン授業のまま卒業しなくてはならない今年の卒業生を思うと、心からおめでとうとは言えない複雑な気分になります。
それでも、これから社会へ羽ばたいていく卒業生の人生が充実したものになりますようにと願わずにはいられません。
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私が大学を卒業したのは、1982年3月、今から39年前の春のことでした。あの頃、大学の卒業式に袴姿で参列していた女子学生は少なくとも私の周囲にはひとりもいませんでした。
私の実体験として、卒業式で袴姿を見たのは、高校の卒業式に学校で唯一の女性教員だった現代国語の先生が、濃緑の紋付に濃紺のきりりとした袴姿で出席なさっていて、なんと凛々しいのかと思った覚えがあるだけでした。
袴姿で卒業式に出席するといっても、衣装自体は伝統的なものでも、袴姿で卒業式に出席するいうこと自体はここ数十年ほどの比較的新しい流行です。私が卒業した頃は、ホテルで謝恩会を催す女子大学などでは、卒業生が成人式であつらえた豪華な振袖姿で出席する姿をよく見かけたものでした。
けれども、私の通っていた無骨な大学ではそのような華やかな気分はまったくなく、私にとってはかえってありがたい環境でした。
大学の卒業式に親が出席するということもなく、そもそも大学の入学式にも親が出席するということもありませんでした。式典に親が出席するのは高校までという暗黙の了解があったように私は思っていました。
そういえば「卒業旅行」という概念もありませんでした。私の二つか三つくらい下の学年から、ちらほらと卒業旅行に出かけた学生がいたように思います。
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実際の卒業式がどのような式次第だったのかは、呆れるほどまったく覚えていませんが、式場に入る前、外で友人たちと待ち合わせている時、風が冷たくて寒かったことばかり記憶に残っています。
4月の入社式にも着ていけるようにと、卒業式との兼用のつもりで買った春物のスーツだけではさすがに寒くて、コートを着てこなかったことを後悔していました。
そんなわけで卒業証書をいつ誰からどこでもらったかも覚えていないのですが、式典のあと、ゼミの先生のお宅に卒業生全員で伺って奥様の手料理で卒業を祝ってもらったことはよく覚えています。
男子学生が十数名、女子学生が五名の合わせて二十名ほどの卒業生で三鷹にお住まいの先生のご自宅に伺ったら、玄関で脱いだ靴が土間に置ききれず、重なり積み上がっていたのを覚えています。
先生は、毎年こうやってゼミの卒業生を自宅に招いて卒業を祝ってくださっていました。二間をぶち抜いた二階の部屋にコタツや座卓を複数並べて会場を作り、山盛りのおでんが入った大鍋がいくつも並び、とても奥様おひとりで準備したとは思えないほどの手作りオードブルがずらりと並んでいました。
よく「心尽くしの」という表現を見聞きしますが、あの日の机に並んだ卒業祝いのお料理は、ホテルの謝恩会のような高価なものではなかったけれど、「心尽くしの」という表現がふさわしいものでした。
私は体が冷え切ってしまって「寒い寒い」と言っていたら、先生のコタツの隣の席という特等席を譲られてしまい、あの頃は、先生の前では膝を崩してはいけないように思い、新品のスーツのスカートのヒダの皺を気にしながら正座を続け、緊張の卒業祝いになったことが今でも忘れられません。足が痺れて大変でした。
せっかくの式次第のことは何も記憶に残っていないのに、コタツの正座はスカートのヒダまでよく覚えているのですから人間の記憶は本当に不思議なものです。
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大学のゼミは、2年生の秋に入室試験があり、3年生、4年生の2年間、毎週のゼミの他に、季節ごとに大学のセミナーハウスでの合宿に行ったり、スキー合宿に行ったり、湘南の海に泳ぎに行ったり、卒業論文を書いたりと多くの時間をゼミの仲間と共に過ごしました。
セミナーハウスといえば、3年生の時、1学年上の先輩方の宴会芸を初めて見ましたが、素晴らしい芸ばかりでとても驚きました。先輩のひとりは札幌オリンピックのジャンプ金メダリスト笠谷選手の真似が上手で、実況中継付きでよく踏切りから着地まで、そして表彰台でのモノマネを見せてもらいました。南京玉すだれの本格的な芸を見せてくれた先輩もいました。
学校行事としての合宿以外にも、ゼミの仲間は何かと集まり、学生街の喫茶店にたむろしてコーヒー1杯で粘りに粘り、一体全体何を話していたのか終電まで語らっていたものでした。
記憶の底を探ってみると、私たち法学部の学生の議題は、あの頃の学生の定番だった憲法第九条だったり、表現の自由だったり、情報公開法だったり、知る権利だったり、資本主義と社会主義とか、どうやったら世界平和をもたらすことができるのかなどで、全員がイッパシの論客になった気分で語り合っていました。
あの頃の自分たちを録画した映像がもしあったとしたら、「若さという傲慢」にまみれていた姿に恥ずかしさのあまり卒倒してしまうのではないかと思います。映像も録音もなく、ついでにいえば当時の記憶もほとんどなくなってしまって本当に良かったと胸を撫で下ろしています。
あの頃は、この足で世界を歩きまわって、この目と耳で色んなことを見聞きしたいと好奇心に溢れていました。とはいえ、一体何を手掛かりに、どうすれば世界を歩きまわることができるのかさっぱりわかりませんでした。
そしてそこには常に漠然と将来への不安が覆いかぶさっていて、大人たちの作り上げた社会という枠組みに取り込まれて、決められたレールを歩いていかなくてはならないのか、いやその前に、そもそもそのレールに乗れるかどうかもわからず、なんだか言葉にならない不安を抱えて時を見送っていたような気もします。
まさか卒業式から数週間後に、「あなたたち女子社員のお給料は短大卒並みとします」と宣言されて、ついこの前まで同じ机で議論を闘わせていた仲間の男子学生が乗るレールとはまったく違う、ただいつまでも「お茶汲み&コピー取り」という、外周をぐるぐる周るだけのレールが待ち構えているとはその頃は想像もしていませんでした。
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卒業してからも、ゼミの仲間は年に一度集まって近況報告をし合っていました。先生もご都合がつく限り参加してくださいました。学生時代は誰もがあまり旅行にも行ったことがなく、ゼミの合宿が私たちの多くにとっては唯一の旅行らしい旅行でしたから、たくさんの思い出話がありました。
しかし、その間隔も次第に2年に一度、3年に一度となっていきました。
卒業して十数年経ったある日、たまたま仕事で大学近くを通りかかった時、懐かしさにひかれてふらふらと構内に入り、思い出の学生課や学生ホールをうろついたことがありました。
まさかとは思ったけれど、同時にもしかしてと思いつつ、エレベーターで上の階へ行き、先生の研究室の扉をノックしてみたら、「はーい、開いてます! どうぞ」という懐かしい先生の声が聞こえました。
「失礼致します」と恐る恐る扉を開けると、「おお! 君か!」と私の名を呼んで「元気そうじゃないか」と先生は声をかけてくださいました。先生は毎年の卒業生の名前を一人残らず覚えているのかしらと驚きました。近況報告をすると、先生は我がことのように喜んでくださいました。
随分と白髪頭のおじいさんだと思っていた先生は、今、還暦を過ぎたこの年になってみると、私たちが学生の頃は教授になりたてのまだ四十代の若者でした。先生は常に私たち学生に自由に議論の場を提供してくれました。
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ある日、ゼミではなく、一般学生と共に講義を受けていた時のことです。私たちの弛(たる)んだ態度を見て先生は次のように仰いました。
「君たち昼間の学生が帰ったあと、この教室には一日の労働を終えた勤労学生がやってくる。疲れているだろうが、腹も減っているだろうが、彼らの眼差しは真剣だ。そして夏休みになると、私よりももっと年上の学生たちがスクーリングにやってくる。通信教育の学生だ。若い頃学問ができなかった彼らの学問に対する情熱は、私自身頭が下がるほどだ」
私が学生時代に学んだことをひとつ挙げるとしたら、先生のこの時の言葉です。法学も、政治学も、経済学もこの言葉の前には吹っ飛びました。
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ZOOM を通じてのオンライン授業を余儀なくされている昨今の学生を思うと、私まで胸をかきむしりたくなるようなストレスを覚えますが、反面教師もある種の素晴らしい教師であるように、この状況をうまく逆手にとって新生活のスタートがきれますようにと願わずにはいられません。卒業生おめでとうございます。
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