144.至急職員室へ

本稿は、2020年4月25日に掲載した記事の再録です。

「5年1組の鈴木さん、至急職員室へ来てください」 小学校の時、月に一度か二度校内放送がありました。すると、隣のクラスの引き戸がガラリと音を立てて、ひとりの子が職員室の方へ駆け出して行く足音が聞こえてきました。

放送は授業中のこともあれば、体育の時間もあり、給食の時もありました。ここでの「鈴木さん」というのは仮名ですが、その子の本当の名字も「鈴木さん」と同じくらいポピュラーな名前でした。

なぜその子ばかりが頻繁に職員室に呼び出されるのか不思議に思いましたが、隣のクラスの子だということもあって、仲間内でなんだろうねといいながらも、その子が誰なのか、また呼び出しの理由も不明のままでした。呼び出しは卒業するまで断続的に続きました。


ところが、中学校に入ってもその放送は続きました。そして2年生になってすぐ、お昼休みに同じ班の女子どうし、机を向かい合わせにくっつけて、4人でおしゃべりしながら給食を食べていた時、また放送がありました。

すると、私の目の前の席に座っていた鈴木さんが急に立ち上がって職員室の方へ急いで行きました。私はその時初めて、5年生の時から呼び出しをされていた「鈴木さん」の正体を知りました。アッハッハと声を上げて笑う朗らかなクラスメイトでした。

鈴木さんは、しばらくして職員室から戻ってくると、私たち3人に向かって「お母さんからの電話なんだ」と言いました。離婚したお母さんが家を出て行き、お父さんのいる自宅には電話がかけられないので、職員室に電話をかけてくるのだと話してくれました。

先生方はその事情を汲んで、鈴木さんのお母さんから電話がかかってくると、いつでも校内放送をしてくれるのだということでした。鈴木さんは特別に秘密を打ち明けるという風でもなく、昨日見たテレビドラマの話をするように淡々と話してくれました。先生方の配慮にとても感謝しているとも話していました。私もその話を聞いて、学校を見直すような気持ちになりました。

それからも、時々校内放送がありました。鈴木さんはその度に私たちにお母さんの話をしてくれました。お母さんの話をする鈴木さんはいつも少し高揚していて、心なしか早口になりました。今は一緒には住めないけれど、優しいお母さんといつか一緒に住むのが夢なのだと言っていました。

私は、世の中には色んな夢があるけれど、「お母さんと一緒に住むのが夢」という夢もあるのかと、切ない気持ちになったことをよく覚えてます。

中学3年生になると、相変わらず校内放送はありましたが、クラス替えがあって鈴木さんとはもう違うクラスになっていました。そのため彼女のお母さんの話を聞くこともなくなりました。放送があるたびに彼女が一日も早くお母さんと一緒に暮らせますようにと願うだけでした。

私の通っていた中学校は一学年の生徒数が五百人を超すマンモス校でしたから、クラスが違ってしまった彼女がその後どういう進路を進んだのかはわかりませんでした。


高校生になって、私はバス通学をしていました。多分、2年生の後半か、3年生になっていて、受験勉強もそろそろ本腰を入れねばならないというある日のことでした。

学校帰りに数人の仲間たちと一緒に「でる単」と呼んでいた「試験にでる英単語」を片手に単語の暗記をしていました。その頃の私たちにとっては、どこの大学に合格するかが大きな関心事でした。

途中のバス停でひとりの女性が乗ってきました。髪を茶色に染め、銀色のストールを肩にかけていました。一目で水商売を生業にしているのがわかりました。すると、その女性が私を見ると満面の笑顔を浮かべながらこちらに近づいてきて、私をあだ名で呼びながら「久しぶりだねぇ、元気そうだねぇ」と言いました。

鈴木さんでした。真っ青なアイシャドウや真っ赤な口紅をつけた顔もよく見ると、つぶらな瞳や笑った時に八重歯の見える口元が、鈴木さんに間違いありませんでした。当時髪を染めているのは、バーやスナックでホステスをしている人と相場が決まっていたので、私は驚きました。彼女はストールと同じ色の銀色の踵の高いサンダルを履いていました。一方の私は高校の制服姿でした。

鈴木さんは、呆気に取られている私の手元の本を見て、「何? やだ、英語? 勉強してるの? 大変だねぇ」などと言いながら、アッハッハと声を上げて笑いました。

そして「私ね、今、お母さんと一緒に暮らしてるんだよ」と言いました。「お母さんがやってるお店で私も働いているの。毎日お母さんと一緒なの」 それから「お金を貯めたら、お母さんみたいに二重まぶたに整形するんだ」とかつてのように淡々と、そして嬉しそうに話してくれました。

私は衝撃を受けていました。「言葉を失う」というのは、まさにあの時の私のためにある表現でした。鈴木さんは二重まぶたにする手術方法は何通りかあるけれど、まぶたの脂肪も同時に取る、なんとかという手法で行う予定だとも語ってくれました。

今、目の前の鈴木さんは、本当に幸せそうでした。小学生の頃からの「お母さんと一緒に住む夢」が実現し、毎日、優しいお母さんと一緒に働いているのです。お金を貯めて二重まぶたの手術をするという具体的な目標もありました。

私は鈴木さんに何と声をかけるべきなのかわかりませんでした。「整形手術なんてしなくても鈴木さんは今でも十分可愛いよ」それとも「お母さんと同じ二重になれるといいね」 あるいは「そのお化粧は似合ってないよ」

でも結局、何を言っても違うようで言葉にはなりませんでした。なぜなら、私は自分の価値観や先入観が邪魔をして、当時の彼女の境遇を心から祝福できなかったからです。

途中のバス停で降りた私に、バスの窓からにこやかに手を振ってくれた鈴木さんの笑顔は今も鮮やかに思い出されます。ただあの日、自分が何と言って別れたのか思い出すことはできません。「お母さんと暮らす夢が叶ってよかったね」という一言をちゃんと口にすることはできたでしょうか。

鈴木さんとはそれっきりになってしまいました。住所でも交換していれば、年賀状くらいやり取りできたのになどと思いましたが、もしも年賀状を交換し合っていたとしても、それぞれの境遇はあまりにも違っていて長続きはしなかったかもしれません。


一緒に給食を食べていた頃には、鉄道のレールのように、私たちの未来はどこまでも並行に続いていくとぼんやり思っていたのに、17歳の時、突然片方のレールが曲がっていき、手の届かないところへ行ってしまったような気がしました。

私は、他者の価値観を尊重するということを、鈴木さんとの出会いを通じて何度も何度も考えました。彼女との出会いは、私の人生の大きな財産になりました。

これまでの人生で、時折鈴木さんのことを思い出してきました。何かの折に、ふと、鈴木さんは今どうしているのかなと思い浮かんでくるのです。この広い空の下、鈴木さんは元気に暮らしているでしょうか。幸せでいて欲しいと心から願っています。


<再録にあたって>
60年を越す人生で多くの方々の人生と交差してきました。鈴木さんとはわずか1年ほどの短いおつきあいでしたが、いつまでも忘れることのできない大切な出会いとなりました。


000.還暦子の目次へ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?