057.電車内のお節介

先日、電車内でドアのところに立っていた30歳位の女性のスカートの裾がほつれているのに気づきました。私は座席に座っていて、ちょっと距離があったので声をかけようかどうしようかと躊躇しているうちに駅に到着してしまい、その女性は降りていってしまいました。

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私は若い頃、よく親切なお節介おばさんに注意されていました。「お嬢さん、お嬢さん、スカートの裾がほつれていますよ」「ストッキングが伝線していますよ」に始まり、ボタンが取れかかっている、コートの襟元にクリーニングのタグが付いている、おろしたてのジャケットの裾に仕付け糸がついたままになっている…。

こうして書き出してみると、なんと私はそそっかしい人間なのだろうと自分でも呆れてしまいますが、実際よく注意されていたのでした。

もちろん注意されていたのは私ばかりではなく、二十代の頃には二、三ヶ月に一度くらい、男女を問わず誰かの服装を注意しているおばさんの姿を見かけたものでした。それはお節介といえばお節介なのですが、注意のしかたは親切で、その人が会社や学校で恥をかかないようにという温かみのある声かけでした。

スカートの裾ほつれやストッキングの伝線は女性にかぎられますが、クリーニングのタグやジャケットの仕付け糸は男女を問わない定番の注意ポイントでした。それに、思わずクスッと笑いたくなるような注意もありました。

友人はカッコつけて上着の下からシャツを出し、雑誌から抜け出してきたようなおしゃれな気分でいたら、お節介なおばさんに「お嬢さん、お嬢さん、上着からシャツが出ていますよ」と小声で教えられたと嘆いていました。

スカートの下からシュミーズの白いレース部分を出すというファッションが一時期流行したことがありましたが、そんなおしゃれをしていた若い女の子も、周囲に気づかれないように親切なお節介おばさんにそっと小声で「スカートの裾から下着が出ていますよ」と教えられているのを電車内で数度目撃したことがあります。

そういえば、最近伝染したストッキングを履いている人やクリーニングのタグをつけたままの人を注意している「電車内の親切なお節介おばさん」をあまり見かけなくなりました。

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その理由を考えてみると、まずひとつ目に、そもそも人々の服装がカジュアルになってきて、注意すべき点自体がなくなってきたからだと思います。

地域や職種にもよるでしょうが、1980年代の東京で電車通勤をする女性はスカートにストッキング、それにパンプスを履いて出勤してくるのは当然だと捉えられていたと私は感じていました。化粧も義務ではありませんでしたが、社会通念上求められていたように思います。

紺やグレーなどのスーツに白いワイシャツとネクタイが言わば男性社員の制服ならば、化粧、スカート、ストッキング、パンプスが女性社員の制服でした。そしてなぜか女性社員のみお仕着せの制服という企業も多くて、中学・高校と制服文化が浸透している日本は、周囲と同じような服装が求められていました。

昭和62年(1987年)に私は外資系の会社に転職したのですが、その会社には「女性社員はスカートを着用のこと」という不文律がありました。就業規則に書いてあったわけでもなく、人事部から言われたわけでもありませんが、先輩社員からの口伝えのように伝えられていました。特に罰則規定があったわけではありませんが、実際女性社員でパンツ姿の人はいませんでした。

1990年頃、アメリカ人の同僚が日本の家庭料理を覚えたいというので、仕事帰りにふたりして、日比谷にある大手のお料理教室にしばらくのあいだ通ったことがありました。行くたびに彼女は日本人女性の服装に感嘆の声をあげていたことが思い出されます。

お料理教室に来ていた生徒は、ほぼ全員がスーツやジャケット、ブラウスにスカート、それにストッキングとパンプス姿でした。その上お化粧もきれいにしてアクセサリーもつけていて、同僚は「アメリカでは考えられない。アメリカはもっとラフな格好で仕事に来る」と言っていました。とは言え、彼女も「郷に入っては郷に従う」でいつも私たちと同じような服装で出社していました。

そのような決まり切った制服のような通勤着も、1990年代に入ると徐々に変化していきました。私が勤めていた会社では「カジュアルフライデー」が始まりました。これは1980年代後半に米国シリコンバレーのIT企業のトップや働いている人々がカジュアルな服装をしているのを真似て、日本でも始まった「金曜日はカジュアルな服装で」というキャンペーンです。

男性はポロシャツにチノパンが金曜日の新たな制服となりましたが、女性は「カジュアルと言われても…」というのが大方の反応でした。それでも次第にパンツスタイルやヒールのない靴を見かけるようになっていきました。

私の勤務先では「カジュアルフライデー」はいつのまにか「カジュアルエブリデー」になって、服装はかなり自由になっていきました。しかし多くの企業や金融機関、省庁や自治体では、一旦は取り入れられたものの、あまり広く普及することはありませんでした。

それが大きく変化したのは、2005年の「クールビズ」導入でした。クールビズとは、環境省が主導した環境対策を目的とした軽装化です。1979年の「省エネルック」は誰の目にも失敗でしたが、クールビズは世界的な服装のカジュアル化とも相まって人々の間にそれなりに浸透していきました。

2011年の原発事故による電力不足も影響して2012年にはスーパークールビズと呼ばれる、より軽装化が推進されていくようになりました。かつては、炎天下の中でも外回りの男性社員は上着にネクタイが求められていたので、電車内も会社内もキンキンに冷房が効いていて、一方、終日社内業務の女性社員は「冷房病」に悩まされ、夏でも膝掛けが手放せず、エアコンの設定温度の攻防戦はあちこちの会社で巻き起こっていました。

クールビズの室温28℃にするという新ルールによって男女共、夏場はジャケットなし、冬でも服装のカジュアル化が進みました。それと共に女性がスカートに代わってパンツ姿が増えてきたことも、お節介おばさんに注意されるポイントが少なくなってきたことの理由として挙げられると思います。

総務省統計局のライフスタイルの変化に関するデータをみると、「1世帯当たりのクリーニング代」は平成4年(1992年)の19,243円をピークに減少し、平成30年(2018年)はピーク時の30.7%の5,904円へと大幅に減っています(図19)。

また「一世帯当たりのスカート及び婦人用スラックスへの年間支出金額」をみると、スカートへの支出は平成2年(1990年)の11,500円をピークに減少傾向となり、平成30年(2018年)はピーク時の19.5%の2,247円となりました。一方、婦人用スラックスへの支出は平成7年(1995年)にスカートと逆転し、平成30年(2018年)ではスカートの3倍近い6,358円となりました(図20)。

なるほど、これではお節介おばさんの出番がなくなっていくはずです。

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親切なお節介おばさんをあまり見かけなくなってきた理由の2つ目は、社会学者のゴフマン(1922-1982)のいう「儀礼的無関心」、あるいは「儀礼的距離」や「社会学的距離」の基準が、時代と共に大きく変化してきたからではないかと私は考えています。「儀礼的無関心」とは、現代社会学事典によれば次のように定義付けられています。

儀礼的無関心
[英]civil inattention
 対面的相互作用において, たまたま居合わせた人々が相手の存在を認めつつ, 過度の関心を示さないようにする一般的な礼儀作法。ゴフマン, E. が日常生活で行われている相互作用のルールを分析するために用いた用語。たとえばエレベーターなどで, 居合わせた相手を凝視したりせずに目線をそらし, 相手に対する無関心を装うといった行為をさす。
『現代社会学事典』弘文堂(2012)p.295 坂本佳鶴恵氏執筆(太字は引用者)

「儀礼的距離」や「社会学的距離」については、この学者の別の著書で、次のように書かれています。

 儀礼的距離とその他の社会学的距離とのあいだには典型的である関係がいくつかあると思われる。地位が同等である人たちのあいだには、対称的な親密さが導く相互作用があり、目上と目下の人たちどうしのあいだには、非対称的な関係がある、と考えられる。後者では、目上の人が目下の人に対して親密さを示す権利をもっているが、目下の人は目上に対して親密さを示してはならない、という非対称性があると考えられるわけだ。わたしが観察した病棟では、医者たちは看護婦をファーストネームでよく呼びかけていたけれど、看護婦は「礼儀正しい」呼びかけ、「公式の」呼びかけをしていた。同じく、アメリカのビジネス界では、社長がエレベーター・ボーイに「子どもさんたちは元気かい」と親しげに声をかけるけど、エレベーター・ボーイのほうが社長の私的な事柄に踏み込むことは禁じられている。
アーヴィング・ゴッフマン著 浅野敏夫訳『儀礼としての相互行為〈新訳版〉対面行動の社会学』(2018年)法政大学出版局 p.64より (太字は引用者)

地方の町や村に出かけてひとり道を歩いていると、自転車に乗った中学生に「おはようございます」などと挨拶されて、周囲に誰もいないので今の挨拶は私に向けられていたのかとワンテンポ遅れて気づき、慌てて挨拶を返したという経験がありますが、都市部における「儀礼的無関心」の度合いは近年ますます高まっているのではないかと感じます。

私が子どもの頃や学生だった頃は、電車内や病院などで子どもが騒いだりすると、たちまち誰かそこにいる大人が注意したものでした。「『あのおじさん/おばさんに叱られるから静かにしなさい』などという親のしつけは間違っている、本来は『公共の場だから静かにしなさい』というべきである」などという意見が、新聞の投書欄に載っているのを度々見かけました。

近頃では、子どもを注意する大人はめっきり少なくなりました。昨年、耳鼻科の待合室で学齢前の兄妹が騒いでいるのに、親も含めてその場にいた十人ほどの患者は誰も注意していませんでした。外まで叫び声が聞こえるほどだったので、私はお兄ちゃんの方を見て人差し指を口に当ててみると、お兄ちゃんは妹に私と同じ仕草をして、それからは二人とも小声で話し出しました。

子どもに対してすら注意をしなくなったのですから、若者や同年輩を叱ったり、注意をしたりするということは滅多になくなってきたのだと思います。そもそも、昔は年長者は「目上の人」でしたが、最近では「目上・目下の人」の感覚も大きく変化してきたように感じます。

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電車内のお節介が減ってきたのと反比例するように増えてきたのが「電車内の化粧」です。電車内の化粧が社会問題として注目され始めたのは、1990年前後だと思われます。『平然と車内で化粧する脳』というタイトルの書籍が出版されたのが2000年9月でした。

それまではせいぜいお化粧直し程度だった電車内の化粧ですが、ファンデーションからすべての工程を電車内で行なうような強者が出現し、今日でも賛否両論、様々な意見が出されています。

車内で化粧をしている人はしばしば目にしますが、その行動を注意する人を見かけたことはありません。この場合は本人のうっかりを教えてあげるというより、確信的な行動に対する異議を唱えることになるので、もはや「お節介」とは違うものになるのでしょう。

服装のカジュアル化は地球温暖化問題の中で加速度がついていきました。近頃では電車内でネクタイをしている人を見つける方が難しくなってきました。

2019年には、女性が職場でハイヒールおよびパンプスの着用を義務とされていることに抗議するKuToo 運動が始まりました。性被害体験の告白・共有するMeToo運動をもじって、「靴」と「苦痛」をかけ合わせたこの言葉は、2019年の新語・流行語大賞ノミネート30語にも選ばれました。

近頃では、めっきり親切なお節介おばさんが減ったせいか、最近では「OSEKKAIが子供を救う!」をキャッチフレーズにした「東京OSEKKAI化計画」で児童虐待を防止しようという運動も現れました。

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先日の電車で、スカートの裾がほつれていた女性に声をかけそびれ、お節介することができなかった私ですが、もしすぐ隣にいたら私は声をかけていたかしらと自問自答してみましたが、正直にいうとその時になってみないとわからないと思いました。私の中の基準も変化しているのを感じます。

最後に、これまで何度も私のうっかりを注意してきてくださった数多くのお節介おばさんに感謝の気持ちを込めて、最後に私からもワンポイントお節介を致します。

出先でスカートの裾がほつれてしまい裁縫道具も手元にないときには、セロハンテープやマスキングテープを裏から貼るか、あるいは内側からステープラー(ホチキス)で止めると応急処置になります。ステープラー(ホチキス)の芯のコの字型の真ん中の長い部分が内側にくるようにするとほとんど目立たせずに始末することができますよ。


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