172.終電が繰り上がる

本稿は、2020年10月24日に掲載した記事の再録です

来年、令和3年(2021年)の春より、首都圏のJRの終電がおよそ30分程繰り上げられるという報道がありました。昔の通勤風景のニュース映像を見ていたら、終電に伴う思い出が次から次へと湧き上がってきました。

私は、東京の西の郊外で育ち、三十代半ばで都心で一人暮らしをするまで実家で暮らしていました。高校までは地元の学校でしたが大学からは、小田急線を使って新宿経由、あるいは代々木上原から千代田線で都心へ通学・通勤をするようになりました。

終電と聞いて真っ先に思い出すのは、三十代半ばの中間管理職をしていた頃で、ほぼ毎晩会社の最寄駅を0:06の電車に乗って、自宅に午前様で帰っていた頃のことです。

あの頃は、やってもやってもいくらでも仕事はあって、欧州の本社からメールが届き始めるのは夜になってからでしたから、帰り間際に新製品情報などの急ぎの書類は印刷をして帰りの電車の中で読んでいました。23:57には職場を出ないと0:06に間に合わないので、大慌てで書類鞄をひっつかんでエレベーターに乗り込んでいました。

酔っぱらい客も大勢いましたが、電車の中で仕事をし続けていた人もたくさんいました。資格試験の勉強をしている人が参考書を開いている姿もありました。電車内は図書館というか、第二の職場というか、見ず知らずの人々の仕事に向かう姿勢に励まされ、私も小型辞書片手に英文の書類に目を通していました。

今ならスマホやタブレット端末でなんなくできるような作業でも、1995年前後は、自宅からメールにアクセスするにもまだ電話線を使ってのダイアルアップ方式でしたし、電車の中で職場のネットワークにアクセスすることなどできないので、否応なく職場に遅くまで残っていたのでした。

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千代田線から小田急線への乗り換えは、ホームの反対側の電車に乗るだけでしたが、そのわずかな乗り換え時間に駅の売店は黒山の人だかりになりました。大勢の人々が夕刊紙、ガム、タバコ、飴、飲み物、週刊誌などを買い求めていました。係員の人は一秒間に数人からお金をもらってお釣りを渡していたと思います。千手観音のような見事な仕事ぶりでした。

小田急線の新宿駅は、急行のホームは地上に、各駅停車のホームは地下にあり、JRからの乗り換え客は地下の連絡通路からやってくるのですが、終電間近になると、JRとの連絡改札口、地上への階段の下と上、そして駅のホームに鉄道会社の人がいて、ひとりの取りこぼしもないようにと声を掛け合って全員が乗車できるようにしてくれていたことを思い出します。

小田急線は、途中、登戸駅でも川崎ー立川を結ぶ南武線からの連絡客を乗せるのですが、時々何かの事情で南武線が遅れたりすると、しばらく停車して乗換客を待ちました。私は、駅員さんたちがキビキビと互いに連絡を取り合ってとにかく全員を乗せるんだという意気込みで働く姿を常々かっこいいと思っていました。

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電車内では珍事が時々起きました。座席に座っていた酔っぱらいのおじさんが、突然ずりずりと床に座り込んだかと思うと、上着を脱ぎ、ネクタイを外し、靴と靴下を脱ぎ始め、ズボンまで脱ぎかけたことがあって、その時は周りの人が慌てて「ここはまだ家じゃないですよ」と声を掛けていたことがありました。

乗客同士が些細なことから言い争いになって、あわや暴力事件かと思うようなことも何度かありましたが、なにしろ一蓮托生の終電仲間が「まあまあ」「まあまあ」となんとかなだめ、何事もなかったように電車は定刻到着を目指して走り続けました。

駅に着く直前には、ホームの階段に一番近い扉には整然とした列が出来上がり、電車の扉が開くと同時に、階段を二段抜かしで猛然と駆け上がる人々が大勢いました。タクシー乗り場までの猛ダッシュでした。忘年会シーズンなどでは、ここでダッシュをするかどうかによって、自宅に到着する時間が小一時間違ってくるのです。

みんな帰宅して、お風呂に入って、翌朝また6時台、7時台の電車に乗って都心へ通勤しなくてはならないので必死でした。「24時間戦えますか」のテレビコマーシャルが放映されていたのは1989年〜1991年頃のことですが、バブル経済が膨らもうとハジけようと、大半の人々は特に大儲けするわけでも大損するわけでもなく、ただひたすら黙々と働いていたように思います。

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もちろん仕事ばかりしていたわけではなくて、遊びに行ったり、飲み会で遅くなったりして終電になったことも数知れずありました。思い出すのは六本木から乃木坂への道を、いつも前屈みになってせっせと早歩きしていたことです。昔の防衛庁の正面玄関の前の道、今の六本木ミッドタウンの前の道です。

今日なら六本木から新宿までは大江戸線でわずか9分ですが、平成12年(2000年)の暮れに大江戸線が開通するまでは、六本木から小田急線に乗るには、六本木交差点から千代田線の乃木坂駅まで歩いて、代々木上原で小田急線に乗り換えるのが一番の近道でした。

今、Google Mapsで見ると、六本木の交差点から乃木坂駅まで650メートル、徒歩9分とあります。私はお酒が飲めないのでどんどん早歩きするのもへっちゃらでしたが、酔っ払って歩くのはさぞかし大変だったことだろうと思います。あの頃は、六本木を歩いていると同僚や取引先の人によく出くわしました。そういえば、平成15年(2003年)に六本木ヒルズが開業するまでは六本木の交差点辺りに人が群がっていて人の流れも今とは大分違っていました。

プライベートで遊びに行くのは渋谷も多く、若い頃は友人と出かけるのは決まって渋谷でした。初めてビキニの水着を買ったのは、昭和54年(1979年)にできたばかりの109だったことが懐かしく思い出されます。まもなく二十歳になる夏のことでした。

渋谷駅の井の頭線は、平成12年(2000年)に渋谷マークシティができるまでは改札口はひとつしかなくて、終電間際は改札口近くの車両は人がぎっしりで3両目、4両目まで行かないと乗れなかったことをよく覚えています。とにかくひたすらぎゅうぎゅう詰めで、新聞はおろか文庫本すら開けず、人混みでバッグがどんどん向こうへ押しやられていって、手から離れてしまってもそのままというほどの混みようでした。

下北沢で小田急線に乗り換えるのですが、その下北沢駅も平成25年(2013年)に地下ホームができるまでは、井の頭線から小田急線に降りる階段は人々で溢れていました。

職場の仲間、語学学校仲間、学生時代からの友人、食事をしたり、飲み会をしたりする仲間の顔ぶれは大体決まってくるので、それぞれお互いの終電時刻もなんとなく頭に入っていて、「そろそろ◯◯ちゃんは、終電の時間じゃない」などと声を掛け合っていました。

丸ノ内線の銀座駅、千代田線の日比谷駅など、主要な駅の終電時刻は、乗換案内アプリなどなくてもみんな暗記していたものでした。小田急線の終電時刻は首都圏を走る電車の中でも遅かったので、私は大抵一番最後までみんなと一緒におしゃべりに花を咲かせていました。

1990年代の小田急線の終電は、今よりももっと遅くて、0:51の準急電車と、0:52の各駅停車でした。これだけは決して忘れてはならない時刻だったので、今なおスラスラと思い出すことができます。

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楽しい思い出ばかりではなく、あまりの悔しさに思い出すだけで握りしめた両手が震える日もあれば、自分の不甲斐なさに滲む涙をこらえながら終電に乗った日もありました。たとえ座席が空いていても、座ってしまったら瞬時で眠りに落ちてしまい乗り過ごすことは必至なので、つり革をつかみ離さずずっと立ち続けていた疲労困憊の日々もありました。

それでも終電で自宅のある駅に到着する頃、これから夜を徹して線路の保守点検作業をする大勢の作業員が待機している姿を目にすると、自分ばかりがつらいんじゃないと気づき励まされました。そぼ降る雨の中、小雪が舞う中、重機や工具を準備している作業員の方々に、心の中でしか感謝を気持ちを伝えることはできなかったけれど、本当にありがたいと思っていました。

今、あの日々を繰り返せと言われても、もう体力が持ちませんが、よく働き、よく遊び、よくおしゃべりしてきました。あの時代、終電が生活の区切りとなっていました。

◇ ◇ ◇

かつての上司や先輩方の若かりし頃の終電をめぐる武勇伝には忘れられないものがありました。酔っ払って終電に乗ったところで記憶は途切れ、目が覚めたら雪の降る日光の駅のホームで身ぐるみ剥がされ、筵(ムシロ)で海苔巻きにされていたという話や、目が覚めたら新潟だったので、せっかくだからと日本海を見てきたというような話もありました。

戦後の復興、高度成長期、オイルショック、安定成長期、プラザ合意、バブル経済期、失われた二十年、様々な世相の中、首都圏の鉄道網はどんどん張り巡らされていき、鉄道輸送力は増強されていきました。昭和62年(1987年)には国鉄がJRになり、私鉄や地下鉄の相互乗り入れも盛んになりました。

電車は人々を運び続け、独自の文化を作り上げてきました。来春のJR東日本の終電の繰り上がりは私鉄や地下鉄にも影響が及び、またひとつの大きな時代の転換点となっていくのでしょう。そしてまた新たな文化が花開くのだと思います。


<再録にあたって>
この稿を書いて約2年、実際に終電が繰り上がってから約1年半が経ちました。テレワークもある程度定着し、夜の街への客足は伸び悩んでいる状況だと聞きます。第8波も予想される今日ですが、今後も終電時間は繰り上がったままなのか、それとも感染症が終息して夜の街の賑わいと共に終電時刻が繰り下がるのか、見守っていきたいと思っています。


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