151.就職活動

本稿は、2020年6月13日に掲載した記事の再録です。


1986年4月1日朝、私はフランスの地方都市の学生用アパートの台所で、ルームメートのアンヌと共に、いつものようにバゲットとカフェオレの簡単な朝食をとっていました。

「それでは、次のニュースです」 ふたりとも聞くともなしにラジオのニュースを聞いていると、「日本では、本日より男女雇用機会均等法が施行されることになりました。この法律によって日本でも性別による差別が禁止されることになりました」というニュースが聞こえてきました。

苺ジャムをのせたバゲットを口に入れようとしたアンヌは、動きを止め、目を見開き、私の名を呼んで「日本って…。あなたは一体どんな国から来たの?」とたずねました。彼女の、緑がかった茶色い瞳を今も忘れることができません。

◇ ◇ ◇

大学四年生の時、就職活動を始めることになりました。就職活動は、常に前年よりも前倒しに始まる傾向があり、私たちの前の学年は大学三年生の春から就職活動をしていて、それでは充実した大学生活が送れないということで、私たちの年は経団連などの申し合わせで、四年生の十月に会社訪問開始、試験は十一月からと決まったばかりでした。

当時は、大学の就職課の前に、移動式の黒板が所狭しと整然と並べられ、そこに隙間のないほど数多くの求人情報を書いた紙が貼られていました。すれ違うのも大変なその黒板の間を縫うよう歩きながら、志望の会社をメモするというのが、当時の就職活動の第一歩でした。

ところが、どれだけ見ても女子学生を対象にした求人情報は、たったの一枚もありませんでした。それは見落としではなく、就職課にたずねてもありませんでした。当時、四年生大学の女子学生には就職口などなかったのです。

後年、「就職氷河期」と呼ばれる時代に世間が騒然となったとき、私の頃だって女子学生は就職氷河期だったと心の中で毒づいていたら、ある女性評論家がテレビ番組で「あら、何言ってるんですか? 私たちの頃から女性は常に就職氷河期でしたよ」と言ってくれて、胸のつかえが少し取れました。

女子学生の求人がなくても誰も気にもとめなかったけれど、男子学生の求人がなくなると世の中はこれほど大騒ぎになるのだと、1990年代半ばに改めて思いました。

最近になって再び、「就職氷河期世代支援プログラム」なるものが打ち出され、やはり男性の就職は、女性の就職とは社会の取り扱いが違うのだと思い知らされました。

◇ ◇ ◇

「日本人の意識」というのは、NHKが1973年から5年おきに行ってきた調査ですが、これまでに10回行われました。2018年の10回目が終わったところで、この45年間の日本人の意識の興味深い変化がビジュアルでわかるよう分析がなされました。

この中の質問項目に「男の子に受けさせたい教育」(21頁目)と「女の子に受けさせたい教育」(22頁目)があります。これによると私が大学を卒業した翌年の1983年の調査まで「女の子に受けさせたい教育」で「大学まで」を選択した人は2割程度に過ぎません。7割を超える人々が「高校まで」あるいは「短大・高専まで」を選択しています。「男の子」に受けさせたい教育」では、「大学まで」を選択しているのは当時も今も7割で安定しています。

また「家庭と女性の職業」という質問事項(18頁目)では、「両立」= 出産後も職業を持ち続けた方がよい、という選択肢を選んだのは1983年の調査でも3割に届きませんでした。2018年の調査では「両立」は6割になっています。

地域性にもよるのでしょうが、私自身は、当時社会から女子というものは「短大を出て、一部上場企業に就職して、職場で結婚相手と恋愛して、寿退社をし、家庭に入って子育てをする」というのが理想の生き方として求められているように感じていました。

そんな社会背景の中、私は就職活動の時期を迎えました。1981年の秋でした。

◇ ◇ ◇

私の大学のゼミには十数名の男子学生と五人の女子学生がいました。女子学生の内二名は、お父さんの勤務先の取引先に早々と就職が決まりました。コネ入社というのは、1980年代初頭の四年生大学の女子学生にとってほぼ唯一の就職手段でした。

残り三人の内ひとりは地方出身者でした。彼女によれば、そもそも四年生大学に進学を決めた時点で就職先は県庁か学校の先生以外にはあり得ないということでした。地元の会社も同期入社の子と学歴や年齢が合わないと困るからという理由で四年生大学の女子学生は採用がないとのことでした。彼女は親戚がやっているお店で働くことになったと言っていました。

もうひとりは、お父さんのコネもないし、アルバイトしながら、家事手伝いをすることに決めたと言っていました。彼女は、卒業して数年後、ゼミの同窓会で再会した、同じゼミの男子学生と結婚して周りを驚かせました。

そして、最後の五人目の私ですが、私は父のコネなどまったくないし、出版社の学内選考を受けて数社合格したものの、学内選考は単に受験資格が与えられるだけですから、一体全体どうしたらよいのかと思っていました。

公務員は性格上向いていないので、情報を扱う民間で仕事をしたいと思っていましたが、「若干名募集」という有名新聞社に、国立大学を卒業する優秀な学生と競って合格するのは、さすがに楽観的な私にも無理だと思われました。テレビ局もアナウンサー職が「若干名」あるだけで、記者職は男子学生のみの募集でした。

とにかく四年生大学の女子学生には就職試験を受ける先がそもそもないという状況でした。あっても「若干名募集」でした。

◇ ◇ ◇

そんなある日、私がアルバイト先でいつものようにあくせく働いていたら、見知らぬ男性から声をかけられました。「いつもご苦労さまです。時々こちらに来て職場の様子を拝見していますが、君はいつも真面目によく働いていますね。何年生ですか?」

その男性はおそらく三十代で、その時私は初対面だと思っていましたが、その人は私のことを知っているようでした。あとで聞いたら、取引先の人だということでした。「ありがとうございます。大学四年生です」と答えました。

すると「では就職ですね。もう就職先はきまったのですか?」と聞かれました。私は「就職先がなくて、本当に困っているところです。それでも大学の学内選考にはいくつか合格しているので、マスメディア関係を目指そうと思っています」と答えました。

その男性は、「そうですか。マスメディアね。新聞・テレビは無理だけど、よかったら履歴書を預かりましょう。心当たりをあたってみます。来週また来ますから、履歴書を何通か準備してきてください」と言われました。

まったく狐につままれるとはこのことで、この状況をどうやって理解していいのやらさっぱりわかりませんでした。

それでも私は、このチャンスを逃してはならないと、手書きの履歴書を数通、翌週その男性に渡しました。そしてしばらくした頃、その男性の事務所の女性から電話が入り、ある会社の筆記試験の日時と場所を知らせてくれました。私の憧れていた会社のひとつでした。公には女子学生の募集はないことになっていたのに、世の中はこういう仕組みになっていたのかと驚きました。

試験当日、大手町の大きなビルに筆記試験を受けに行きました。ところが行ってみて驚いたのは、四年生大学の女子学生だけ二百人以上がその会場にいたのです。形だけの筆記試験なのかと思っていましたが、まったくそうではありませんでした。何部屋にも分かれて、一斉に試験が始まりました。

試験問題はもう忘れてしまいましたが、英語の試験で、「パンフレットを二部送ってもらえませんか」という文の和文英訳があって、私はパンフレットという綴りがわからなくてもうダメだと思いました。でもあとになれば pamphlet ではなく brochure という言葉を使うことが求められていたと思い、二重にガッカリしたことを覚えています。

ところが筆記試験に合格し、その後、集団面接、個別面接、役員面接へと進みました。役員面接の時は、私の前の学生は15分位かかっていたのに、私の時は「通勤時間はどれくらいですか」「はい、1時間15分です」「そうですか。他の方、ご質問は? …ないようなのでこれで結構です」とたったこれだけでした。

それでも、合格しました。人事部から電話があった時信じられない思いでした。とても嬉しい知らせでした。

秋に合格者の初顔合わせがあって、その時に人事部長から、「これから君たちの様々なことを興信所を使って調べます。私たちが入社した時も調べられたので、これは特別なことではありません。ですから今こうやってお話ししているのです」と身元調査をすると宣言されました。

特に女子学生は親元から通うことが必須条件でした。また出身地による差別も公然の秘密という時代でした。保証人も必須でした。私は父の会社の同僚で、私と同じように就職する女子学生のお父さんに保証人の判子をついて貰いました。父もその方のお嬢さんの保証人になりました。後年、父の葬儀の時に、保証人になってくれた方がお焼香に来てくださって、この方のお陰で就職できたのだと心の中で改めてお礼を言いました。

◇ ◇ ◇

合格通知がきてすぐに、私に受験のチャンスを与えてくださった見知らぬ男性に、名刺を頼りに菓子折を持って事務所にお礼に伺いました。その男性は不在でしたが、事務所の複数の女性社員から、「彼はあなたがいつも真面目に働いている様子を見ていて、力になりたいと思ったと言っていましたよ。二百人の中からの合格、就職おめでとうございます。本当に良かったですね」と言われました。

その男性には、私が初対面だと思った時と、履歴書を渡した時に二度しか会うことはありませんでした。なんだか昔話の主人公になったような気分でした。


<再録にあたって>
私は今でも1986年4月1日朝の、男女雇用機会均等法施行の日のアンヌの驚いた表情を忘れることはできません。まるで私が未開の国から来たとでもいうほどの驚き様でした。私が就職活動をしていた時から40年以上の月日が経ちましたが、未だに男女間の賃金格差(100:77.5@2020、OECD平均値は、100:88.5)は世界各国の中でも突出して大きいのが現状です。


000.還暦子の目次へ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?