112.お末さん

本稿は、2019/09/28に掲載した記事の再録です。

人々の営みについて思いを馳せるとき、私たちは命の繋がりについて重きを置きがちです。いかに子孫を残すか、遺伝子を残すか、それこそが生物としての最重要課題だと思いがちです。これは人間ばかりではなく、他の動植物についても同じように考えてしまいます。

けれども私は、生物学的な意味で子孫を残すことばかりが生を受けたものの使命ではなく、ただそこに生まれ、そこに生き、そこに死んでいった者にも、連綿と続く命の営みの中において、意味があると思うのです。

前回、いつまでも誰かの記憶の中で生き続けていって欲しいひとり目の人物として、アンベルクロード神父を紹介しました。今回は、同じ渡辺一夫の随筆集『白日夢』の中から、O女こと、諸橋お末というひとりの女性をご紹介したいと思います。

この女性もまた、できるだけ長く誰かの記憶の中で生き続けて行って欲しい人物だからです。随筆の筆者、高名なフランス文学者の渡辺一夫については前回の note でご紹介しましたのでご参照ください。

O女に関する僕の最初に思い出は、幼稚園へ通うか通わないかくらいのいとけない僕の手を引きながら、当時両親が住んでいた本郷弓町の家から、本郷三丁目近くにある桜木神社(天神様)へ連れて行ってくれた老婆の姿である。O女は、腰を二つ折りにし、杖にすがっていたし、片方の眼には黒い眼帯をかけていた。僕が丈夫に育ち、天神様にあやかって後々えらくなるようにと、O女は、僕を天神様に時々お詣りさせたのだということを、後年母から聞かされて、甚だ恐縮したし現在でも恐縮している。体の方はとも角も丈夫に育って今まで生きてきたが、一向にO女の考えたようなえらい人にはなっていないからである。当時幼い僕にとって、この天神様へのお詣りは散歩のつもりで楽しかったし、母からの厳しい禁止を犯して、O女が、時折駄菓子を食べさせてくれたので、それもうれしかっただけの話である。はっきりとは記憶していないが、桜木神社の境内の石の上か何かへならんで腰をおろし、黒砂糖の飴玉か何かをしゃぶりながら、家へ帰っても、O女の言いつけ通りに黙っていようと思い、子供らしい秘密の楽しさを反芻したことも幾度かあったに違いない。
 O女は、新潟県の長岡の良家の出で、恐らく二十歳になるかならぬうちに、不幸な結婚をし、良人から悪疾をうつされ、片目を失い、離婚したらしい。それから、家が没落したため働かねばならぬこととなり、縁あって、当時新潟の病院長をしていた祖父(母方の)家の女中となり、僕の母の幼い時分から、その世話をし、次々と生れる母の弟妹たち——すなわち僕の叔父叔母たちの面倒を見たのだという。ほどなく、母が僕の父と結婚した際には、手塩にかけた母と別れかねて、僕らの家の一員となり、その後間もなく生まれ出た僕のお守りをするようなことになったのである。母子二代に侍(かしず)いてくれたわけである。
 子供の僕から見ても、腰は曲り、黒い眼帯をしたO女は、鼻筋の通った細面の所謂美人型の顔をしていたが、時々何かぶつぶつ呟くくせがあっただけに、西洋のお伽噺中の魔法つかいのお婆さんみたいで、気味が悪く、あまり爽快ではなかった。
 天神様へお詣りした帰りのこと、ある時何のきっかけからか、O女がくどくどと自分の身の上の悲しさを話してくれたことがあるように思う。当時の僕には、全く興味がなかったので、話の詳しい内容は記憶していないが、「この世のなかには悪い人が沢山いて、弱い人をいじめる。そして、それはどうにもならない。あきらめなければならない」というようなことだったと思う。そして、O女の言葉として、一つ、はっきり記憶し、後年になってはっと思うようになったものがある。それは、「でもね、坊ちゃま、人間には皆、業(ごう)というものがありますね」というような言葉である。現在の僕は、仏教の業という観念について、浅薄ながら、何か解釈を下せるかもしれないが、それはそれとして、O女が幼い僕に向って、そんなことまで言ったことを思い返すと、当時の僕には判りっこない、また現在の僕にもぼんやりとしか推定できないO女の不幸な生涯から洩らされたうめき声のようなものを心耳(しんじ)に聞き取り、思わずはっとしてしまうのである。業(ごう)というようなむつかしい言葉を、幼い僕が記憶し、何十年か後にこれを思い出すということは、妙な感じであるし、なぜなのか判らないが、O女の打ちあけ話の意味が子供心にもぼんやりと通じ、そして、業(ごう)という発音しやすく、何か理由ありげな言葉に聞かされ、しかもその時、O女の態度が異常だったために、記憶に刻まれてしまったのかもしれない。しかし、恐らく、わけの判らぬ、じめじめしたことを、くどくどと言う片目の老婆に手を取られて、真砂町の通りをちょこちょこ歩いていた僕は、うるさい、めんどうくさいという気持で一杯だったに違いないと考えると、子供というものは無情だと呟かざるを得ないし、いたし方ないことだったが、悪かったなとも思う。(中略)
 僕が小学生となる頃には、O女は、もう僕らの家には居らず、その老いさらばえた体を、当時本郷真砂町にあった母の実家に托し切り、女中とも手伝いとも居候ともつかぬ身の上になっていた。僕の周囲の人々の話によると、O女はいよいよ愚痴っぽくなり、じめじめして困るということであった。
 僕が第一高等学校を受験した時、O女は、天神様に願をかけて、日参してくれたそうである。そのお蔭であろうか、無事入学できた。がさて、ある夜のこと、弓町の家の二階の小さな書斎兼寝室で僕が本を読んでいると、ことりことりと階段をゆっくり上る足音がして、O女が廊下の暗がりに現れ、そのままそこへ坐りこんだ。僕はぎょっとした。暗がりから、妙にきらきらした片眼が、僕を見つめていたからである。挨拶をすませたO女は、口をすぼめて、おほほと笑い、——もう女の人の美しさなどに心ひかれる年頃には十分なっていた僕は、この笑いに妙になまめなしいものをも感じ取ってしまい、それがかえって、片眼の老婆の感じを異常なものにもしてしまったように思うのだが、——こう言った。
「お坊ちゃまも、立派な高等学校の学生さんにおなりだから、もうお坊ちゃまとは呼ばずに、若旦那とお呼びしましょうかのし」と。
 僕は、思わず、うるさくなって、「どっちてもいいや。そんなこと」と吐き出すようにどなって、読書を続けたように記憶している。O女は、しばらく、暗い廊下に蹲(うずくま)っていた。僕は、O女の片眼の視線を頰の辺に感じて、いらいらしていた。O女は、間もなく軽い吐息をつきながら消え去った。
 今思うと、子供の時の消極的な無情さが、そろそろ高校生らしい積極的な酷薄さに変わってきたために、以上のようなそっけない対応をしてしまったのだろうと考えざるを得ない。恐らくO女は、厄介になっている母の実家から僕らの家へ遊びにきて、僕に会い、何かやさしい言葉でもかけてもらいたかったのであろう。「ああ若旦那様でもいいよ。好きなように呼んでおくれよ。しかし坊ちゃまのほうが、僕にはしっくりするかもしれない。あんなに厄介になったんだもの」とでも言ってやったら、どんなにO女は、よろこんだろうか、と現在の僕は思う。どうも、僕自身が、「悪い人間の一人」で「弱い人をいじめる」役を演じてしまい、O女のあきらめと悲しさとを、更に深めたらしいと思うより外にいたし方がない。

 僕が大学生になった頃も、O女は、母の実家に厄介になっていたが、新潟県に残っているO女の親戚縁者のところへO女を送りかえさねばなるまいという話が、ちらほら僕の耳にまではいるくらい、O女は老衰し、一時傾きかけた母の実家には、荷厄介になり始めていた。
 ある晩のこと、僕は、風呂へ入っていた。丁度体を洗っていたが、ごろごろと戸が開いて、O女が転がりこむようにしてはいってきた。そして、脱衣場に蹲(うずくま)りながら、何かくどくど言い始めた。僕は、またかと思っていい加減にあしらっていると、「若旦那様、お体に一寸触らせて下さいな」と言って、O女は片手を伸ばして、乗り出してきた。僕は、何かしらぞっとして、「いやだい!」と言ったまま、恐らく石鹸も碌々洗い落さずに、浴槽へとびこんでしまった。その時の僕は「老婆の変態性欲」というような妙なことを生意気に考えて、薄気味悪さに、顔が汗みどろになるまで我慢して、お湯につかって、無言の行を続けていた。O女は、薄暗い脱衣場に蹲(うずくま)ったまま、「ナムアミダブツ、ナムアミダブツ」と呟いていた。僕は、何とも言えぬ気味の悪い気持になり、これは大変なことになったと思い、ひたすら脱出の方法を考えた。風呂場の焚口に近い硝子戸を開けて外へ出る方法しかなかったが、真裸で、庭のほうまでまわらねばならず、家中の雨戸は既に閉めてある以上、甚だ珍妙なことになるので、一寸困った。しかし、幸なことに、O女は「ナムアミダブツ」と誦えつつ眠ってしまった。僕は、息をのみ、抜足さし足で、正に虎の尾を踏むような心持を味わいながら脱出に成功した。茶の間まで来て、針仕事をしていた母に、仔細を物語ると、母は可笑がったので、僕も一寸気が緩み笑い出した。(中略)現在の僕だったら、恐らく、少くとも、あのような妙なことを考えず、あのようにO女を悲しみのうちに眠らせてはしまわなかったろうと思う。(中略)

 O女の本名は、諸橋お末という。今でもお末の面影は鮮かに心に浮ぶ。しかし、もう少しも気味など悪くない。懸命に生き、寂しく死んだお末に、もう一度会い、どこかの温泉へでも案内してやれればと、染々思うだけである。そして、お末に背中でもながしてもらいたいとも思う。
「ある老婆の思い出」1955年 初出 『白日夢』講談社文芸文庫 p.103-111 より抜粋


あまりにも簡潔な文章のため、引用ではなく丸写しになってしまいそうなので、著作権に配慮して後半部分は思い切って割愛しました。

私は三十歳頃にこの随筆を初めて読みました。「そして、お末に背中でもながしてもらいたいとも思う」という最後の一行を読んだ時、はっと胸を衝かれたことをよく覚えています。「お末の背中でもながしてやりたい」のではなく、「お末に背中でもながしてもらいたい」という表現にあの時代を生きた人ならではの願いが表れているように思ったのです

身分制度とか忠孝などという今日とは異なる価値観や、文化・伝統と向き合う時、しばしば現在の見方を物差しにしがちです。けれども、お末さんは「若旦那様」に背中をながしてもらったとしても、きっと心安らぐことはなかったでしょう。

1901年生まれの「坊ちゃま」が幼稚園に通うか通わないかくらいの時に、お末さんはすでに「腰を二つ折りにし、杖にすがっていた」というその頃のお末さんは、今の私と同じ六十歳くらいだったのではないかと思います。というのは「若旦那様」はその後大学を卒業し、しばらくして結婚した頃お末さんの病が篤いと聞き、病床のお末さんに新婦を紹介することになるからです。

おそらく江戸の末期に生を受け、激動の維新の時代に多感な年頃を過ごし、片眼を失うという悲劇に見舞われ、女の職場などない明治初期に、没落したとはいえ良家の婦人が女中として他家に仕えるという身の上は、幼い子ども心に残った「業(ごう)」という言葉でしか表現できないようなものだったのでしょう。

それでも、手塩にかけて育てた奉公先の長女が嫁入りする際には、お付き女中としてお伴したり、孫のような「坊ちゃま」の手を引いて天神様へ出かけて駄菓子の秘め事を持ったりと、それなりのしあわせを味わったことはなによりの幸いです。

私は三十代から四十代にかけてしばらく本郷に住んでいたので、桜木神社の前を通る度に、幼い「坊ちゃま」の手を引いたお末さんを心の目で探したものでした。そのお末さんはもう黒い眼帯はしていなくて、背筋をすっと伸ばし、生来の美人型の面持ちで、天神様だか観音様だかの化身となって幼い子どもを守り慈しんでいるのでした。

今日、亡くなられたあとも渡辺一夫は真のユマニストと呼ばれ、「不寛容」や「時代の狂気」と向かい合ったその学識と文学への造詣の深さ、そして誠実で温和な人柄によって多くの学徒の尊敬を集めています。

それは本人の才能と努力によるものであることは言うまでもないことですが、このような人物をいとおしみ育ててきたという意味で、アンベルクロード神父と共に諸橋お末さんの「生」には、大きな意味があったと思うのです。おふたりともご自分の子どもを持つことはありませんでしたが、このおふたりの存在なくしては「渡辺一夫」は存在しなかったでしょう。

人知れず献身的に慈しみ、人生の切なさ、寂しさ、悲しさをその生涯をもって示してくれたお末さんが、いつまでも誰かの記憶の中で生き続けることを願って止みません。


<再録にあたって>
久しぶりに読み返してみたら、こみ上げるものがあって目頭が熱くなりました。

「お坊ちゃまも、立派な高等学校の学生さんにおなりだから、もうお坊ちゃまとは呼ばずに、若旦那とお呼びしましょうかのし」とお末さんが尋ねた時、「ああ若旦那様でもいいよ。好きなように呼んでおくれよ。しかし坊ちゃまのほうが、僕にはしっくりするかもしれない。あんなに厄介になったんだもの」とでも言ってやったら、どんなにO女は、よろこんだろうか、と現在の僕は思う。という箇所です。

亡くなった方に対する取り返しのつかない後悔は、私にも思い当たることがあって、作者の心の痛みがまるで自分のことのように感じるからかも知れません。


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