045.書店のアルバイト

大学に入学してから数多くのアルバイトをしました。自宅から通学していたので家賃はかかりませんでしたが、オフコン(オフィスコンピュータ)のオペレーター、書店員、百貨店の売り子さん、企業の図書係、インベーダーゲームの店番などなど、いろんな職種を同時に掛け持ちしながら、授業料と生活費はすべてアルバイト代でまかなっていました。

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駅前書店でアルバイトを始めたのは、1979年、大学2年生の秋でした。中学生の頃からよく立ち寄っていた大きな書店でアルバイトの募集があったので、一度本屋さんで働いてみたいと意気揚々と応募しました。

ところが面接に行ったら、今回の募集はここ本店ではなく、駅前にある支店ですと言われました。私の住んでいる地域とは反対方向にある小さな駅前に支店があるとはその時初めて知りました。ちょっと拍子抜けしたものの、それでも本に囲まれて働けると思うとワクワクしました。

駅前書店は、四十代の男性店長さんと、藤田さんという長く勤めている五十代のパートの女性が主戦力で、あとはアルバイトの店員が二人くらい入れ替わりでやってきました。その内のひとりが私で、私のあとに数人がやってきました。

私に与えられた最初の仕事は、レジの隣で本にカバーをつけたり、袋に入れてお客さんに品物を渡すというものでした。お金を扱うのはベテランの藤田さんと店長の仕事でした。私は自分はいつも文庫本ばかり買っていたので、多くのお客さんが雑誌を買っていくのがおもしろく感じました。

ある時店長が「雑誌なんて駅の売店でついでに買えるんだ。でもわざわざ本屋に寄って雑誌を買っていく人は本屋が好きなんだよ。本屋には大切なお客さんだよ」と言った言葉は今も耳の底に残っています。

お客さんの波が引くと、藤田さんが本のカバーにする紙の折り方を教えてくれました。文庫本用の他、単行本は本の形に合わせて数種類を準備していました。彼女は私の母よりも年上で、もう大ベテランでした。無駄口を叩くことは一切ない仕事ぶりでしたが、仕事帰りには家庭のことや趣味のことを話してくれる温かい人柄でした。

少し慣れてくると、書棚の本にはたきをかけたり、変な場所に置かれている本を適切な位置に戻したりし、細長い店内を歩いて、お店を整えることも業務になりました。すると、小さな書店全体がわが子のように可愛いらしく思えるようになってきました。

少しすると、学年誌と呼ばれる「小学一年生」などに付録をはさみ込み、ヒモでしばったり大きな輪ゴムでとめたりという仕事も任されるようになりました。一年生から六年生まで、小さな書店といえど量はかなりありました。子どもの頃からさんざんお世話になった学年誌には、陰に書店員のこんな重労働があったのかと思うと、学年誌の有り難みが増すようでした。

重い学年誌をようやく店頭の平積みの台に並べると同時に、勤め帰りのサラリーマンが早速手に取ってレジの持っていく姿を見ると、その学年の子どもが歓声を上げてお父さんから書店の包みを受け取る姿が目に見えるようでした。

さらに慣れてくると、本の注文という仕事も教えてもらいました。ネット書店などない時代、読みたい本は書店で予約注文したものでした。カーボン紙を挟んだ予約帳に書名・出版社と注文主の名前と電話番号を書いてもらい、カーボン紙の上の用紙をちぎってお客さんに渡し、控えを見ながら取次店に注文をかけました。

今でも忘れられないのは、月に二、三度やってくる作業着を着た「ザ・労働者」という風体の青年でした。彼は来るたびに胸のポケットからメモを取り出し、『資本論の〇〇』とか『労働運動の〇〇』などという書名を、爪の間に油の染み込んだ無骨な手でボールペンを握って予約帳に書き入れるのでした。一週間ほどして届く注文書は、大抵グレーのケースに入っている学術書でした。

私が中学生くらいまでは「資本主義は社会主義の前段階なのだ」などという言説をあちらこちらで耳にしていたのですが、大学生になった頃にはそうでもなくなりつつあったので、そのお客さんは、私には映画やドラマに出てくる戦前の地下に潜っている労働運動家のように思えて、彼が来るたびに自分も一緒になってタイムスリップした感覚を味わっていました。

年末年始には、店頭に折りたたみの机を出して「主婦の友」や「婦人倶楽部」という雑誌を販売しました。当時は婦人雑誌は年末に「家計簿」が付録としてついていて、この「家計簿」が主婦の間で絶大な人気でした。

クリスマスが終わって、いよいよ年の瀬という駅前商店街の賑わいの中で、家計簿付き雑誌はそれこそ飛ぶように売れました。「主婦の友派」と「婦人倶楽部派」は、私のアルバイト先では圧倒的に「主婦の友派」に軍配が上がりました。これほどまでに多くの女性が家計簿をつけているのかと私は大変驚きました。

あの頃家計を握る主婦は、毎朝、新聞の折り込み広告を丹念にチェックして、10円でも安い物があれば隣町のスーパーまで自転車で買いにいくものだなどと言われていた時代でした。私は、隣町に行く時間に働いて、お金を稼いだ方が効率的なのになどと思っていましたが、あまり受け入れられそうもない考え方でした。

今、調べてみたら、「主婦の友」は1917年(大正6年)に創刊、2008年(平成20年)に休刊、一方「婦人倶楽部」は1920年(大正9年)に10月創刊、1988年(昭和63年)に休刊したとありました。そういえば最近見ないと思っていたら、休刊になっていたとは。あれほど隆盛を誇っていたのにと思わずにはいられません。

◇ 

一通りお店の仕事を覚えた頃、レジを任されることになりました。レジは、ひとつひとつのボタンをやや力を込めて押すタイプのもので、例えば 380円 の雑誌ならば、3、8、0、と数字のボタンを押し、最後に雑誌を意味する「ヨ」のボタンを押し、最後の「小計」ボタンを押しました。

この「ヨ」というのは、レジの右端に縦に並んでいる「ヨキミセサカエル」の文字のことで、本屋さんなら「ヨ」雑誌、「キ」は単行本、「ミ」は文庫本などとその業種に合わせて分類するための記号でした。私はレジを打つたびに、ヨキミセサカエルというのはいい表現だなぁと思っていました。アルバイトながら自然とこの店の発展を祈るような気持ちになりました。

夜7時になると、店頭の平台やクルクル回る本立てを店内に入れ、シャッターを下ろし、そこから店長と藤田さんと私と三人で、釣り銭勘定をしました。私の不満は、時給は7時までしか支払われないことでした。7時以降の釣り銭勘定は無給作業時間でした。そのため、できるだけ素早く済ませて早くお店を出たいと、藤田さんも私も黙々と釣り銭勘定に精を出しました。

一発でレジの計算と現金が合うこともありましたが、なかなか合わなくて何度も数え直しているうちに三十分くらい過ぎてしまうこともありました。レジの計算に比べて現金が少ないこともあれば、多いこともありました。店長はもちろん合うのに越したことはないけれど、少ないのは多く釣り銭を渡してしまったということだからまあいいとして、多いということはあとでお客さんが損をしたと気づくことになるからダメだと口癖のように言っていました。

合っても合わなくても釣り銭勘定が終わると、戸締りを確認して、現金の入った黒い現金袋を持って、三人で裏口に鍵をかけて表へ出ました。そして銀行の夜間金庫にその現金袋を入れると、一日の業務はすべて終わりと言うことで、三人でお辞儀をし合って別れました。

銀行の夜間金庫というのは、銀行の建物の壁の一部がポストのようになっているもので、そのポストに現金の入った黒い袋を入れ、ドスンと落ちる音を確認するのでした。あの頃はよほどの大店でもない限り、警備員が二人組で現金を取りにくるなどということはなく、商店街のどのお店も店主や店員さんが売上金を夜間金庫に持っていくのが一般的でした。

すっかり慣れてくると、鍵を受け取って、朝お店のシャッターを開ける仕事も任せてもらえるようになりました。さらに雑誌の返本作業や、取次店とのやり取りなども少しずつ関わらせてもらえるようになり、本店のいわゆる部署ごとの担当業務とは違って、書店業務全体を見渡すことのできる大変勉強になるアルバイトでした。

学年が上がると後輩も入ってきて、今度は私が指導員の立場で業務を教えることもあって、それがまた自分にとって学びになりました。書店でのアルバイトは、割引のない書籍を5%引きで購入できるというのも魅力的でした。

そんなアルバイトでしたが、私は一年半ほどで辞めざるを得なくなりました。それは、ある中学生のお客さんが原因でした。いつ頃からか、数人の中学生が、ドラえもんのマンガの立ち読みにくるようになっていました。中のひとりは、背がとても高くて大人びていて、周りの仲間と一緒にドラえもんを手にしていなかったら私よりも年上に見えました。

その少年というか、男性というか、とにかく大人のような男子中学生に、いつしか私はつきまとわれるようになっていました。仕事が終わって夜間金庫にお金を入れ、店長と藤田さんと別れると、どこからともなく現れて、私にビリヤードに行こうと迫ったり、断っても断っても家まで送るといってついてこようとして、大変な迷惑でした。

暗闇からふっと現れる彼に姿に、次第に恐怖を覚えるようになりました。店長が間に入って親御さんに連絡したり、学校に連絡したりと、書店側も色々と問題解決しようとしてくれて、本店勤務に変わる提案もしてくださいましたが、その頃にはもう恐怖心が先立ち、あれほど気に入っていたアルバイトを辞めることにしました。今でいうストーカーでした。

大きな問題にならないうちに辞めたのは正解だったとは思いますが、あのアルバイトを失ったのは残念でした。それでも大好きな書店の業務に携わることができて、とても貴重な経験となりました。

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私が辞めて数年後、今から見ればもう何十年も前に駅前の大開発が行われました。店舗はもちろん、駅前商店街自体が消滅してしました。


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