254.デザイナー

本稿は、2022年9月3日に掲載した記事の再録です。

この夏、ファッションデザイナーの三宅一生、森英恵が相次いで亡くなりました。2年前には高田賢三、山本寛斎も亡くなり、私の中では一つの「憧れの舞台の幕」が降りたような気持ちになりました。

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私がファッションについて語るなんて、周りの友人・知人が知ったら笑止千万と呆れることと思います。オートクチュールと呼ばれる一点物の仕立て服に縁がないのはもちろんのこと、プレタポルテと呼ばれる高級既成服でさえ袖を通すこともなく、還暦過ぎの今日まで生きてきました。

私はファッションセンスにはからきし自信がなく、気をつけることといったらTPOに即した清潔感のある服装といった程度で、若い頃から手頃な値段で買える紺やグレーの地味な服にほんの少しだけ差し色をする程度で、いわゆるおしゃれとはまるで無縁の生活を送ってきました。

私の周りのおしゃれさんたちは「おしゃれは我慢」を合言葉のように、ハイヒールを履いたり、キツい下着で体の線を整えたりしていましたが、私はそんなこともなく生きてきました。

けれども、そんな私でさえ高田賢三や三宅一生らには憧れを抱いていました。それは洋服や流行ということではなく、彼らの存在が「世界」と繋がっているような気持ちにさせてくれたからだと思います。

その世界とは、子どもの頃から憧れてきたフランスやパリであり、華やかなファッションを身に纏う人々の生きる別世界のことであり、なにより才能と努力によって日本人でも認められるという世界でした。

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私が小さな子どもだった頃はまだ一般の人の海外旅行は規制されており、海外への観光旅行が許されるようになったのは前回の東京オリンピックの年、1964年(昭和39年)4月のことでした。当時は観光旅行は年一回まで、持ち出し外貨も500ドルまででした。

小学生の頃、周囲に海外旅行に行ったことがある人は誰もいませんでした。中学2年生の1973年(昭和48年)、同級生がお父さんの仕事の都合でアフリカのガーナに行くことになったと聞いて、地球儀でガーナの位置を確かめたりしてまるで自分のことのようにワクワクしたものでした。

そんな頃、KENZOというデザイナーが、パリにお店を出し、有名なファッション誌「ELLE」の表紙を飾り、パリのファッションショーで高い評価を受けていることをニュースを知りました。高田賢三は海外旅行が自由化された1964年に、三宅一成は翌1965年にいち早くパリへ向かったのだそうです。

1974年(昭和49年)2月、中学2年生いつもなかよしの仲間で回し読みしていたマンガ雑誌「りぼん」に、一条ゆかりの「デザイナー」の連載が始まりました。もう内容まではよく覚えていませんが、そのマンガを通してパリへの憧れをつのらせていったことはよく覚えています。

ちょうどその頃、ファッションモデルの山口小夜子が脚光を浴びました。真っ直ぐな黒髪をおかっぱ頭にし切れ長な目をした彼女の姿は、それまでの西洋人モデルとはまったく違い、世界に「日本人」の美しさをアピールしました。

1973年には資生堂と契約し、彼女のポスターが街中に溢れました。私も他の少女たちと同じようにその姿に憧れました。妖艶な魅力で彼女は瞬く間に70年代を席巻しました。山口小夜子が、KENZOをKANSAIをISSEIを身に纏って優雅に舞う姿を、言葉にならない憧憬の眼差しで見つめたものでした。

とはいえ私の身の回りには、「Kenzo」と筆記体のサインの入ったハンカチがただ一枚あるだけでした。これは私が大学入学の記念に自分で購入した500円のハンカチでした。買ったお店もよく覚えています。

私が「ロールモデル」という言葉を初めて知ったのは30代に入ってからのことでしたが、今思うと、あの時代パリで活躍するデザイナー達は無意識のうちに私の密かなロールモデルとなっていたのだと感じています。バッグの中の「Kenzo」のハンカチを手に取っては「私も頑張ろう」と自分を励ましていました。これを持っているだけで、「世界」とつながっているような気持ちになりました。

山口小夜子は映画にも出演していて、私はそれを大学生の時二度見に行きました。それは「杳子」というタイトルの古井由吉の小説が原作の映画でした。大変難解な映画で、二度見てもよく意味がわからず、芥川賞候補になったという原作も読みましたが、こちらも難解でよくわかりませんでした。

けれどもあの頃の私には難解であればあるほど憧れがどんどん膨らんでいくようなところがあって、ヤクザ映画を観た観客が肩で風を切りながら映画館を出てくるように、私も胸で風を受けるような姿勢で映画を出てきたものでした。

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冒頭に述べたように、私は有名ファッションデザイナーの服に袖を通すこともなく、ブランドバッグを手にすることもなく生きてきました。しかし「ファッション」を洋服の流行という狭義でなく、その時代の文化全体という広義として捉えるとしたならば、私は大いにファッションデザイナーの影響を受けてきました。

彼らは志を遂げるためには惜しまずに努力するという生き方を、それまでの根性論とはまったく違う形で若い私たちに示してくれました。伝統的な着物文化から脱却するのではなく、まるで逆手に取るようにキモノをエレガントにしかも自在に操りながら世界に挑んでいく姿は、目の前の可能性がどんどん広がっていくように感じたものでした。

今、いつまでも私の前を歩いてくれているとばかり思っていたデザイナーの方々がひとり、またひとりとこの世を去っていき、時代がすっかり移り変わってしまったのを実感しています。


<再録にあたって>
先日はウェディングドレスデザイナーの桂由美さんが亡くなりました。昭和5年(1930年)生まれの94歳の現役デザイナーでした。乃木坂の駅前にウェディングケーキのようなビルがあって、私は20代の頃からこのビルを眺めながめる度に、このビルの中はどんなふうになっているのだろうと思ってきました。ウェディングドレスをデザインするという新分野を開拓したデザイナーもまた、この世を去りました。ご冥福をお祈りします


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