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あの時の苦しさは、今でも目を背けてしまうけれど

最近noteを書けていなかった。SNSを見ることも、LINEやDMを返すこともしていなかった。きっと自分自身が自分でもよく分からなくなっていた。自信がなかった。自分の「今」を誰かに話したり、こうやってnoteに書いたり、SNSで呟くことで、人が離れていくと感じた。この「感じた」は、人が離れていく出来事が実際にあった訳ではなく、これもまた勝手に想像して勝手にそう思った面倒な独りよがりの私自身の考えだ。

誰かと話している時、特に大切な人や、好きな人と話している時、いつもより敏感に働いてしまうこの感覚。私と話す時は楽しそうじゃないな、とか。壁を感じたり、いつもおんなじような話ばかりだったり、他の人と話している時の方が楽しそうに見えてしまったり、なんか本当の部分を避けて話をしているような感覚になり寂しくなる。それは私が同じことを周りにもしてしまっているからだろうか。
心を開きすぎると、良いことがない。人のことを信じられない分、ごく僅かな大切な人に期待をしすぎて甘えてしまうのが私の悪い癖だ、と痛感しているこの頃。

スマホを開かなくなってからも、大好きな推しへのDMは毎日開いては閉じてを繰り返している。沢山送ってしまったエッセイの感想を後悔したり、自分のことを曝け出しすぎてしまったことを、迷惑だと思われていないか不安になった。
でも、その不安に感じている生活の中で、私が今一番話をしたいのは、やっぱりくぅちゃんなんだと思い知らされた。「話をしたい」というのは、私が感じたエッセイの感想を話したい、そういうファンとしての話したいでもあるし、もっともっと深い話がしたい。心を通わせられるような会話がしたいのだ。私の願いはとってもわがままで身の丈に合っていないと凄く思う。ただ、大好きな人を理解したくて、分かりたくて、そしていつか理解されたくて、。

不安になるといつも思う。
「くぅちゃんの言葉が欲しい」と。

私の心をあっためてくれるような、核心を突くような、でも優しくて私だけに向けられていると思えるような特別感。

私はわたしの求めているものを言葉にした時、人を信じる勇気がない癖に一部の大切な人に対しては我儘で強欲な人間だと気がついた。
甘えてるんだ。甘えているから、離れられてしまう又は離れられたと感じて離れてしまうのかもしれないな。

普段の会話で、SNSで、こうなりたいから頑張る!この日までに頑張る!そういう言葉をよく使うしよく見かける。私もよく使ってしまう。けれど、使うたびに、使わざるを得ないような気になってしまい、苦しくなる。頑張れていないから、頑張り続けられないから、そんな今の自分のこと自分が一番分かってるのに、気がついたら色んな所で、「頑張る」と言っている。頑張れない自分を自覚するのも苦しいし、頑張ることが当たり前で、頑張っていないと普通じゃない気がしてしまって、勝手に苦しくなって自分を責めて、また大切な誰かから離れてしまう。そんな自分をどうする事もできなくて、

本当は誰かにいてほしい
本当はこのままでもいいんだよって言ってほしい
変わらなくてもいいよって言われたい

自分のこともっと認めてあげたいし、自分にも人にも優しくありたい。自分に優しくできない今は、周りの人にも迷惑をかけていて優しくできていない自分がいるなと感じて、消えたくなる瞬間が何度もある。

自分のことを自分が信じてあげられない状態が続いたらきっと、このまま「私」が終わっていってしまうのだろう。それはすごく悲しくて、いつか大好きな人が褒めてくれた自分さえも終わってしまうのかと思うと、自分を守れなかった自分をまた責めるのだろうか。もはや、責める気力すら残っていないのかもしれない。

私は大切な人だけは、大好きな人だけは傷つけたくなくて、嘘をつきたくなくて、そうやって自分のことも応援できたらきっと今より楽になれるのだろうか。

今まで沢山のことがあって、きっと人よりも面倒くさい自分が出来上がっていった。その面倒くささにも色々あると思っていて、似たような面倒くささを待ち合わせているのが、きっと私の大好きな人なんじゃないかっていつもその人の言葉を読んで思う。

勝手な解釈で、深読みで、私の直感でしかなくて、そんなこと言われてもきっと迷惑でしかないだろうなと思うのだけど、その勝手な私の直感をいつか答え合わせしてみたいな、そんな勇気持ち合わせていないのだけど、それでも、こんな私にもそんな夢があります。

この間のエッセイ。ほんとにすきだった。沢山の感想を何日かに分けて送ってしまったんだけど、きっと届いていなくて、でもそれでも全然良くて、私はくぅちゃんのエッセイを読んでる時間が一番好きで大切で、「生きてる」って実感させられる。
エッセイにもあった言葉。遠回しに自分を肯定してくれる存在。それが私にとってくぅちゃんなんだよ。核心を突く言葉も、ぐるぐると考え込んでしまうような表現や言葉選び、私はどうなんだろうといつも考え込んでしまう。それでも読み終えると、わたしの中にあるものを言葉にしてもらった気がして心が軽くなるし、くぅちゃん自身が言う、面倒くささと、私が思うわたしの面倒くさい私を想像して、少し心が救われたんだ。

このまま生きててもいいのかもしれない。
いつかまたくぅちゃんと話したいことが話せる日がくるかもしれない。お互いの面倒くささの答え合わせができたらいいな、なんて。

休日の今日。また何もできなかった。
今少し昔のドラマを観ながらnoteを書いている。そのドラマはやっぱり大人で少し苦しい。所々、自分と重なり観ていられなくなり、停止ボタンを押してしまう。本でもドラマでも私は「苦しさ」を求めていることに気がついた。私が苦しいと目を背けるものは、大体核心を突いていて、それが言語化されていたり何かしらで表現されていて、それを見ると自分の感じた「苦しさ」が、世の中にちゃんと存在しているものだと感じることができて、1人じゃないと思えるのだ。だから、少し胸が痛くなるようなドラマが好きだし、本を途中で閉じてしまう、また時間を置いて読もうと思うようなそんな本がいつだって好きで、求めている。
後々客観的に感じる「苦しさ」は、その当時感じていた「苦しかった自分」を思い出させ、間違ってなかったと、その苦しさに名前があったのだと、そう救ってくれるような気がする。だからきっと今のわたしの何もかも辞めてしまいたいような苦しさも、いつかどこかで見るドラマや本に同じように感じている主人公が出てくるかもしれない。そう思うとなんだか生きられそうな気がしてきた。

今のわたしが今の私を言葉にできず、表現できず、ただ踠いているだけの今。だからこそ、また心に残る素敵な言葉や表現に出会うのかもしれない。そしてそれに出会えた時はきっとまた胸が痛くなり目を背けてしまうのだろう。でもそれを待ち望むことでしか今を生きられない。

今のわたしが間違ってなかったって思えるような、自分を認めてあげられるような、出来事(本やドラマも含めて)に数年後でも出会えるように、この苦しみが無駄にならないように、そのために生きなくては。

わたしの苦しみはきっとだれにも分からない。だからこそ、自分の苦しみを自分で認めてあげたい、自分で自分を救うために

今は何もできなくても、いつかきっとって思わせてほしいんだ

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