「言葉」という贈り物
先日の職員会で、校長先生が三木清氏の言葉「真の希望は絶望から生まれる」を紹介された。今までなら思えず聴こえないから関心も持たずに素通りだっただろう。しかし、通勤電車内で読んでいる本が、まさしくノ・ジェス著『心感覚~正しい絶望からはじまる究極の希望~』であって、この絶妙なタイミングに驚きを隠せない。ただ読んでいただけといえばそれまでだが、自分の中にあるものと流れが共鳴するというのは凄い。因みに、この本は続きが気になってワクワクするほど面白く、今年一番おすすめしたい本である。まだ1カ月しか経っていないのだが…。
そして、家でじっくり読んでいるサティシュ・クマール著『エレガント・シンプリシティ』という本もとても面白く、この2冊はどことなくリンクしているとさえ感じる。この本には、“愛”についても書かれているので、看護総論の教材に打ってつけではないかと思う節がある。やりたいことが目白押しである。受講する皆さん、そして、その先にいる方たちのために、私ができる準備をして臨みたい。私1人にできることなんて限られているけど、何かのきっかけになればこれ幸いである。
三木清氏の本に出合ったのは大学時代。一般教養で「哲学」を履修した。ギリシャ語に“言葉”などたくさんの意味をもつ“ロゴス(logos)”という単語に惹かれたことを思い出す。レポートを課された際に参考にしたのが『人生論ノート』である。全く理会することはできず、失礼ながらただ文章の書き方を撫でる程度に模倣したに過ぎない。因みに、書いたテーマは「美について」。
閑話休題。『心感覚』によると、脳の認識にはいくつかの癖がある。①「部分」だけを認識するため、「全体」を認識できない。②「違い」だけを認識するため、「共通」を認識できない。③「過去」とつなげて認識するため、過去・現在・未来などの時間の概念から自由な「今ここ」を認識できない。④「有限化」して認識するため、「無限」を認識できない。このようなことによって、私たち人間は脳に騙されている。日々、五感を大切にしたいと思っているものの、見えている、聴こえているという感覚はすべて脳が判断しているに過ぎない。つまり、脳自体が見えている、聴こえていると思い込んでいるだけなのである。
たとえば、“リンゴ”という言葉を聞いただけでは、赤いのか、青いのか、甘いのか、酸っぱいのか、想像するものは人それぞれであって、みんなが知っているものでありながら、統一したものにはならないし、その想像したものを共有することは甚だ難しい。だからこそ、コミュニケーションがうまくいかず、思っていることがなかなか伝わらないのは当然のことなのである。自分が正しいと思い込んでいるのは脳であって、それが他の人にとっては決して当たり前ではないのだ。
自分の中にあるものしか表現できないし、それを認識できない。たとえば、“天動説”と“地動説”。今になれば、知識として誰もが受け入れてはいるものの、それを認識できている人は殆どいないだろう。地球は時速1,700kmで自転し、時速107,000kmという途轍もない速さで公転している。これを実感している人はいないはずだ。1秒間に500m回転し、30kmも移動しているのに吹っ飛んでいかないのだから、奇妙といわず何という。
とはいえ、自分の中にないものは、真っ向から否定する。脳はそのように出来ている。ようするに、“天動説”を信じ切っている人からすれば、何を言っているんだと様々な論点から反発し、“地動説”を受け入れられなかったのは当然。認知的不協和理論にあるように、自分が信じている解釈を結果的に肯定するのが人間の脳なのである。そんなはずはないと。
未熟な状態で生まれて、何もかも初めてで、周りと比べられながら育ち、自分ができないことを痛感すれば、自ずと自己否定感を持つ。人間は否定から入る。でも、はなから否定されるとあまり気持ちはよくない。なかなか脳はうまく機能しない。何とも難しい生き物である。
しかし、そういうたくさんの“もどかしさ”があるがゆえに、言葉を紡ぐことに楽しさが生まれるのかもしれない。
小学2年生の国語の教科書にある原田直友さんの詩『はんたいことば』を娘が音読していた。音読の聲もさることながら、その言葉に心が安らぎ、30年以上心に痞えていた重荷が外れた感じがする。
「うれしい」の はんたいことば
「いしれう」
「うれしくない」
「かなしい」
みんな せいかい
私は小学生のとき宿題で、「かるい」の反対言葉を「いるか」と書いて、親に笑われたように思う。我々が使っている言葉に絶対は存在しない。日本語で言うなら、高々1億人しか使っていない。時代とともに変化していくのが言葉である。絶対的でない言葉や感情であるにも関わらず、自分が正しいものだと思い、そこに執着していては時代に置いていかれる。だからこそ、言葉を使うときは慎重にしなければならないと痛感した一年でもある。勿論、不完全な言葉であるのだから、受け取り方は様々である。それゆえに、人間という動物には、心があって、その不完全さを良い形で汲み取ってあげることもできる。猫や犬にはそういうことはできない。
ところで、「幸」の反対言葉は「不幸」だが、善なら悪のように、一文字で表すことはできないだろうか。恐らくそういう単語を古人は敢えて作らなかったに違いない。もしかしたら、不幸という言葉は中途半端な絶望であるがゆえに、完成した言葉にしなかったのかもしれない。そもそも幸せかどうかは脳が捉えていること。ということは、どのような状況であれ、一瞬で幸せになるということだ。“見方”を変えれば、“味方”にもなり得る。幸という漢字は逆さまにしても変わらずに幸のままだ。つまり、幸せというのは、将来的に「なる」ものではなく、今ここにまさに「ある」もの。“有り難い”の反対言葉は“当たり前”であるが、世の中に当たり前のことなどあるのだろうか。目が見える。音が聞こえる。食べる。嗅げる。感じる。歩ける。家族がいる。勉強できる。運動できる。友だちと過ごせる。何だか当たり前に思い込んでいることだが、どれ一つとっても当たり前ではない。だからこそ、私たちにいのちを与えてくれたこと、智慧を授けてくれたこと、そして一期一会という流れのあるご縁でたくさんの人や本に出会えたことには、感謝の至りである。それらの中に、また自分の中にこそ、幸せの本質はもともと存在している。目の前にある事物のお陰で、世の中は成り立っている。忘れてはならない。
言葉がなぜ生まれたのか考えても想像の領域を出ないが、今の私にとって言葉はとても大切な贈り物であることに間違いない。さて、いよいよ哲学対話の幕開けだ。
2022.2.10