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遠い記憶 book review

『走れ、風のように』
マイケル・モーパーゴ・著
佐藤見果夢・訳
評論社

 子どもの頃の記憶をたどると、家にはいつも犬がいた。私の父は大の犬好きで、世話はほとんど一人でしていた。10年程前、彼の家を訪ねると、初めて見る毛の長い老犬がいた。聞くと、散歩の途中で出会って、話しかけたらそのままついて来たと言う。父らしいなと思った。彼はよく犬に話しかけていた。それは、飼い犬に限らなかった。

 私はこの物語を読んで、父のそばにいた、犬たちを思い出した。澄んだ彼らの眼は、いつも父に向けられていた。

 主人公は、一匹の犬だ。比類なきスプリンターのグレイハウンド犬は、この地上で3番目に早い動物らしい。

 この犬は、人間の都合で3度飼主が変わる。その度に名前も変わるが、飼主たちには、共通点がひとつあった。三人ともがこの犬を、とても愛していたことだ。

 最初の飼主は、この犬の恩人でもある。袋に入れ運河に捨てられた犬たちを、パトリック少年は救出した。そして、その中の一匹を引き取り、ベストメイトと名づけた。

 学校嫌いの彼は、この一件で一躍ヒーローになった。ベストメイトの走る姿は、力強く美しく、誰もが息をのんで見とれてしまう。この犬のおかげで、これまでの冴えない彼の日常に変化が訪れた。

 しかしその美しさは仇となる。犬は心なき大人に盗まれレース用として売り飛ばされる。

 たどり着いた犬舎には他にも14匹が飼育されていた。競技犬はペットではないが、犬たちの世話係ベッキーは、犬が大好きだった。彼女はこの犬を、ブライトアイズと名づけかわいがる。チャンピオン犬のアルフィーとも兄弟のように仲良くなり、ブライトアイズはここでの暮らしに馴染み始める。

 犬がレースで勝ち続ける限り、賞金とトロフィーが手に入る。主のグレイグに重要なのはそれだけだ。しかし、ある晩のレースでアルフィーは故障、二度とレースには出られなくなってしまう。走れない犬は、ここでは必要ない。銃殺され埋められる。ことの顛末を目撃したベッキーは、母を残しブライトアイズを連れて家出する。この犬を助けたい。その一心だけで。

 ベッキーにとってグレイグは母のつれあいだ。乱暴な悪人でも、母は別れようとはしなかった。しかし、この家出がきっかけで、母は母子二人の生活を決意した。ブライトアイズが来なければ、二人はグレイグから離れられなかったかもしれない。この犬との出会いが、二人の人生を変えたのだ。

 3人目の飼主は79歳の老人だ。自動車修理工だったジョーにも、様々な事情があった。彼の妻が最後の時を過ごした施設の閉鎖を、地方議会が決めた。妻との最後の約束は、この決定を阻止すること。

 ジョーは施設の前にテントを張り、スローガンを掲げ、座り込みを決行した。雨の日も風の日も凍えるような寒い日も、彼はひたすら立ち続ける。その間、傍らには、いつもパディワックと名づけられた犬がいた。

 なぜ人は犬を飼うのか? ひとつのこたえがここにある。人は、自分を信じてくれる存在が、自分を好きでいてくれる存在が、必要なのだと思う。

 私の父は、若くして妻を失くした。彼にとって犬たちは、安らぎだったかもしれない。どの犬も、父が大好きだった。

同人誌『季節風』掲載

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