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リアリズムの原点 book review

『あやとりの記』
石牟礼道子・著
福音館書店

 読みたい本と読むべき本は違う。ここ数年、本を読む機会が減っていて、残された時間も刻々と減っている。個人差はあれど、人が生涯、読める本は限られているので、やはり読むべき本が優先と思ったりする。

 本書は、私の読むべき本の一冊だった。理由は石牟礼さんの作品だから。それで充分だと思っている。彼女の著書は、私の内なる本棚で、読むべき本の棚に分類される。

 日本文学全集(河出書房)の編者、池澤夏樹氏は、この著者について『戦後日本文学で一番大事な作家』と語っている。私は池澤氏のファンではないし、彼の著書も数冊しか読んでいない。それでも、この選書に、言葉に、深く頷いた。全集の出版も、大きな意味がある。体裁を変えて世に出せば、作品は新たな読者を得る。悲しいかな、作品の持つ力だけで、後世には残らない。物語は人が書き、本は人が形作る。そして、その本は人が選ぶ。もし人が選ぶ目を持っていなければ、選び、渡す人も必要だ。本書は、残さなければいけない本の一冊だと思う。

 この物語の舞台は、著者の故郷、南九州、八代海(不知火海)を望む土地。私はこの地を、地図でしか知らない。海と陸を分けるのは、一本の複雑な線だけで、陸と山には境がない。海と山は限りなく近く、時として潮の満ち引きで同じ場所になるのだろうか。

 冒頭、音もなく、雪が降っている。南国の雪は、北国のそれとはどこか違う。夕さりのひと時、幼いみっちんは、雪でできた洞道に一人立っている。迎えに来た祖母『おもかさま』は、こんな風に話しかける。
『あのひとたちの通らいましたかえ』
『お客人の乗っておらいましたかえ』

 あのひとたち?お客人とは、いったい誰のことなのか。

 この地の人たちがそう呼ぶのは、姿の見えないものたち。世の中には見えないものが存在する。『人は見たいものしか見ない』と、何かで読んだ記憶があるが、見えるものしか信じない人も、案外多いかもしれない。

 ただ、これはあのひとたちの物語ではない。みっちんの物語だ。彼女を取りまく人たちは、一風変わっているが、人間味にあふれている。

 祖母の『おもかさま』は目が見えない。そのせいか全身で世界と接している。彼女にとって存在は、見えることではなのだろう。

 馬が相棒の『仙造やん』は、一本足だ。その生活は馬とともにあり、幼いみっちんには、共存を体現しているように映っている。

『岩殿』は、火葬場の竈炊きをしている老人で、素肌に獣のちゃんちゃんこを着ている。村人たちの噂によると、焼きあがった骨をあてに焼酎を飲んでいるとか。その姿を想像すると、何やら恐ろしい気もするが、みっちんとの間柄は、やさしい祖父と孫のよう。

 素性のわからぬ『犬の仔せっちゃん』、そして、大男の『ヒロム兄やん』は、総称を使うと、ホームレスとか孤児になる。彼らはこの地で、村人たち、そして、あのひとたちとともに生きている。

 みっちんが岩殿と二人で、せっちゃんを探しに行くシーンがある。ヒロム兄やんからあずかった烏瓜を届けるために。私はこの章が、とても好きだ。せっちゃんが『姉しゃん』と呼んだとき、二人の目が合ったとき、思わず泣きそうになった。哀しみと喜びは、背中合わせにある。何時の時代も、どの場所でも、それは変わらない。この物語は豊かで、そしてリアルだ。南国は遠くない。そう感じた。

同人誌『季節風』掲載


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