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拷問人の息子 El hijo del torturador 第3章「古傷」

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拷問人の息子 El hijo del torturador 第2章「紫煙」を読む

メルセデスの憂鬱

 メルガール師を見送った後、エル・イーホはエリオガァバロにドクトル・グェと写真屋を呼ぶよう指示し、自分はニ階の事務室へ向かう。そこには、秘書のメルセデスが待っているはずだ。
 事務室と言っても、かつてはギャラリーだったので、やたら天井が高く窓も大きい。おまけにバルコニーへも面しているのだが、事務室へ改装する際に通した電話や電気のケーブルを野放図にからませているため、正面はいささか見苦しいありさまだった。
 引き出しもない簡素な事務机と、そこにいくつも置かれた電話機たち(交換台を通す汎用回線の他に、通さない直通回線がいくつかあった)の向こうに、もじゃもじゃ頭を雑に結いあげた暗褐色の顔が見える。花柄の袖カバーと金縁の丸メガネが柔らかい雰囲気を醸しているものの、レンズの奥に控える瞳の妖しげな輝きの深さには、その柔らかさを打ち消してなお余りある底知れなさがあった。
 エル・イーホはいまだにメルセデスの瞳が少し苦手で、いつもやや斜めから話しかけるようにしていた。ただ、メガネをはずした素顔には妙にかわいらしいところもあること、そして特に寝床では良くも悪くもまったく異なる姿を見せることもまた、嫌というほど思い知らされていた。
「ここで迷えるものを導くことになったのだけど……」
 ちらと上目づかいにほほ笑むメルセデスの口元は、実のところ全く笑っていない。
「メルガールが来てましたからね、そのつもりでした」
「メルガール師、ですよね」
「あの人は恩人だし、確かに奇跡術は素晴らしい。けど、異端審問官としては二流もいいところでね。尻拭いだって一度や二度じゃないんですよ。だから、尊称はつけません」
 さらりと辛辣なセリフを口にするメルセデスに、エル・イーホは返す言葉もない。
 とはいえ、メルセデスが無能者を情け容赦なく切り刻むのは、なにもいまに始まったことではなく、かく言うエル・イーホも言葉の肉挽き機へ放り込まれたことがある。やれやれと苦笑いしながら、そっと写真入りの封筒を差し出し、エル・イーホはメルセデスの反応に備えた。
 写真と身上書をみた瞬間、瞳を見開くところまではエル・イーホも予想していた。が、かすかに口元をゆがめつつ窓の外へ目をやり、黙りこくるとは思わなかった。
 そして、おおきな溜息をひとつ。
「なるほどね」
 つぶやくように言うと、写真や書類を整えてエル・イーホへ向き直った。
 メガネの奥にはうっすら涙すらにじんでいる。
「大丈夫?」
 つい、声をかけたエル・イーホへ返ってきたのは、やけにきっぱりした「もちろん」の一言と魂を切り裂くような冷たいまなざし、暗い期待を予感させるほほ笑み、そして予想もしない思い出話だった。
「若に話すことじゃないんだけど、初めての男なんだな。そのクズ」
 妙に砕けた口調で話すメルセデスだが、表情はまじめそのものだ。
「あ、え、初めてって……その……」
「そ、初めて。前も後ろも(coño y culo)」
 日頃から、育ちの割に荒っぽい言葉を使いたがるのはメルセデスの悪い癖だったが、それにしても『コーニョ イ クーロ』なんて耳にするのは娼館ぐらいだ。そんな言葉を真面目な顔で、こともなげに口にされると、エル・イーホのほうが戸惑ってしまう。
「いや、そんなことまで言わなくても」
「聞かされる方も困ってしまうでしょうね。大丈夫、若と比べたりはしませんから」
 ここまで来ると、もはやどう返したらよいものかわからない。エル・イーホはさすがにそろそろたしなめようかと口を開きかかったら、察したかのようにメルセデスが話を続ける。
「ただ、これだけは言わせてくださいな。もうひとつ別に、初めての経験をさせてくれたんですよ」
「性癖開発の話はそろそろやめましょうよ」
「いやいや、そうじゃなくて。初めてワタシを裏切った男です。あの破戒司祭はね」
「裏切った?」
「関係がばれそうになったとき、あいつは私を異端審問へ売って逃げたんです」
 メルセデスの話によると、まずパブロスは悪魔祓いを口実に彼女へ近づいて関係をもったらしい。ところが、メルセデスはきわめて真剣だったため、邪魔になった彼女を『聖職者を誘惑する魔女』として異端審問所へ告発したのだという。そして、激しい拷問に耐えてパブロスをかばい続けるメルセデスを見かねた父、エル・ディアブロが、ひそかに相手の所業を伝え審問所の態度を軟化させるような自白を引き出すとともに、寛大な処置を得られるよう動いたという。
 結局、その縁でメルセデスはここにいる。
 だが、秘書の仕事こそ謹厳実直そのものではあるものの、性については放埓とか放縦としか言いようがなく、また時として亡きエル・ディアブロから受けた恩などないかのような態度を示す。そんな彼女しか知らないエル・イーホにとって、それはひどく新鮮な驚きをもたらす話だった。
 そのままもう少し、メルセデスの昔語りを聞いていたいところではったが、時計をみた当人が「話しすぎましたね。ここでおしまい」と、あっさり打ち切ってしまう。実際、そろそろパブロスやドクトル・グェが到着しそうなころ合いだった。
 仕切り直しといわんばかりに、メルセデスは写真と身上書を整え、エル・イーホの前へならべなおす。とはいえ、身上書は過去に引き起こした問題の概要が記されているに過ぎず、写真もかなり前に撮られたもののようで、人相の確認にすら使えるかどうかわからない。
「結局、これって身柄引き渡しの際に必要な書類で、事件についてはなにもないですね。若、メルガールの指示は?」
「とりあえず蜂蜜酒と笛のありかを訊きだせと、それ以外はなにもないね」
「蜂蜜酒と……笛?」
「うん、酒と笛」
 エル・イーホの答えにはあからさまに不満げだったが、少し考えた後でメルセデスは話を続けた。
「身柄拘束時の状況は?」
「なにも」
「聞かなかったの?」
 メルセデスは怒鳴りたい気持ちを抑え、なんとかきつい口調を和らげていたが、それでもエル・イーホは雷を落とされたように飛び上がった。
「いや、こういうのはじめてだったし、それよりここへ送るっていうものだから……」
「ここへ? 直接? それも治安憲兵から? 事前検査は?」
 心底あきれた顔で矢継ぎ早に問いただすメルセデスに、エル・イーホはただうなずくことしかできない。そして、弱々しく「事前検査はここでやることに」と答えたきり、目をそらしてしまう。
「まぁ、メルガールが相手じゃ仕方なかったかもね。それに、私も治安憲兵から移送されるなんて初めてだし、これじゃ手続きもわからないなぁ」
「そう言えば、治安憲兵と異端審問の合同捜査本部とか、メルガール師は私服捜査部の少佐だけど、こっちは最低でも大佐、もしかしたらは将官とか、わけのわからないことをぐだぐだ聞かされました」
「どうせ、すっごく面倒なことになってるんでしょうね。でも、大丈夫。うまくやれると思います。それから、ドクトル・グェを呼んだんですって?」
 割り切ったというか、あきらめきった笑顔で問いかけるメルセデスに、エル・イーホは無言でうなずく。
「去勢されたと思います?」
「たぶんね。パブロスのけだものっぷりはみんな知ってるし、メルガール師も治安憲兵が丁重にもてなしたと言ってたから」
「あぁ、それならそうでしょうね。それに、私だったらそれだけじゃ済まさないな。切ったのをくわえさせて、ケツにも焼け火箸をぶち込みたいし」
 あからさまに嬉しげなメルセデスに、エル・イーホはほんの少し顔をしかめる。
「五体満足に戻さないと、検査も審問もできないよ」
「そのために呼んだんでしょ? ドクトル・グェを。それに、若のは切らないから安心してね」
「まぁ、そうだけどさ」
 エル・イーホは反応に困るメルセデスの軽口を聞き流しながら、子供時代のことをなんとなく思い出していた。ある時、乳首をむしり取られ泣きわめく中年男を、メルセデスが『泣くな! 私は両方むしられても泣かなかった!』と一喝していたのだ。
 それ以来、身体を重ねる間柄になってもなお、メルセデスには近寄りがたいなにかを感じ続けている。
「ところで」
 不意に軽口を切り上げ、メルセデスは真顔でエル・イーホを見つめる。
「願訴人はどうします?」
 エル・イーホはあっと声をあげたきり、文字通り頭を抱え込んでしまった。
「いつもはヘルトルーデスに頼むけど、さすがに今回はだめだろうね」
 うつむいてぼやくエル・イーホに、メルセデスは情け容赦のない追い打ちをかける。
「ですよ。もちろん私はやりません」
「エリオガァバロにやってもらうか?」
「それもありですけど、ドクトル・グェの負担が大きすぎませんか?」
 うなづくしかないエル・イーホは、ドクトルの奇跡術を思い出しながら、なんとかならないかと思いを巡らせる。
 奇跡術とは『他人の希望を叶える』秘術で、純潔を保ちつつ研さんを積んだ奇跡術師が治癒と移動、物体召喚などを可能にする術だ。具体的な効果としては、人や家畜の怪我、病気を治す、作物が実る、水や食べ物が沸いて出る、誰かに気持ちを伝える、イメージの投影、物質の転移や複製、自動筆記などで、基本的に黄衣の王を信仰する司祭が行う。
 奇跡術は願いを訴える人、つまり『願訴人』が多ければ多いほど成功しやすく、効果も大きい。そのため、奇跡術師の他に助訴人(アジュダンテ)という補助専門の人々も存在する。ただし、願訴人は全員が心をひとつにして奇跡術師へ精神を託さなければならず、雑多な人間の寄せ集めでは精神力がまとまらないので逆効果となる。このように、奇跡術では集中が極めて重要なため、雰囲気を盛り上げるため歌い踊る助訴人もいるほか、多くの願訴人が参加する大規模な奇跡術は入場式典や松明行列に始まり、巨大な旗が林立する中で合唱団が応援の歌をささげ奇跡達成祈願を唱和するなど、勇壮かつ壮大な祭りとなっている。
 つまり、奇跡術師とは人々の願いや精神力を集めて焦点を結び、増幅するレンズのような存在である。大半の奇跡術師は自分自身の願いを叶えられないが、極めて能力の高い術師は自らの精神を願訴人として分離し、単独でも奇跡術を行うとも伝えられている。
 また、黄衣王の寺院を離れた後もなお純潔を保ち、奇跡術師として活動することを許された人々がおり、彼らは司祭ではなくドクトルの尊称で呼ばれる。ドクトル・グェもそう言った奇跡術師のひとりで、卓越した奇跡能力を持ちながらも、とある事情で寺院から離れざるを得なかった人物だ。
 これまでは気力、体力ともに頑健なヘルトルーデスが願訴人を務め、エリオガァバロは得意の歌と踊りを披露するという構成で、去勢されたり指を落とされたり生皮をはがれたり、あるいは手足を失ったりひどいやけどを負った被審問者の身体を治療、再生させ、心身とも回復させてから審問や事前検査を行っていた。特に事前検査は瞳を診るため、目や顔面の損傷回復は必須で、それが終わるまでは審問に入れなかった。
 そのほか寺院の力が及ばない辺境では、黄衣王の寺院や現帝国が成立する以前の、旧帝国の残党やユゴスよりのものが、いまなお古の奇跡術を伝えているとされる。そして、異端審問の主な目的は旧帝国の残党狩りで、エル・イーホをはじめとする拷問人の役割もまた、旧帝国の残党をあぶり出すことであった。
 などなど考えてはみたものの、ただでさえヘルトルーデスより気力、体力ともに劣り、また願訴人としての適性や経験という点でも厳しいエリオガァバロを使うなら、やはり助訴人は不可欠だった。奇跡術は数分で終わることもあるが、治療術は基本的に小一時間から数時間は必要で、夜通し願い続けなければならなくなることもしばしばだ。そのため、精神力を使い果たした願訴人が儀式の最中に昏倒することもあり、また過去には術をかけ終えると同時に発狂、あるいは頓死したものすらいる。
 願訴人の負担は心身ともに大きいため、有償で引き受ける人々も存在していた。だが、この状況で依頼するのは論外だし、せいぜい歌と踊りが得意な助訴人を用意するぐらい……。
「ウルスラはどうかな?」
 メルセデスがさっと目を細め、言葉を飲み込むようにほんの少し口角をあげた瞬間、エル・イーホはものすごくまずいことを口にしたことを理解し、カミソリのような皮肉で切り刻まれる覚悟を固めた。だが、メルセデスは少し考えた後、静かに「頼まないほうがいいと思う。どうせ、引き受けませんよ」とだけ、区切るように言葉を発した。
 そうか、ウルスラと母の仲を考えれば、口に出すまでもない話である。さらに彼女とエル・イーホとの関係を考え合わせれば、ウルスラへ頼むこと自体が厄介な問題を引き起こすこともまた、あまりにも明らかだったのだ。
 神経質に頭を振り、つまらん考えを口にしたとしょげるエル・イーホを、メルセデスは「考えてることは口に出さないとわかりませんよ。言葉にして他人との違いを確かめるところから、いろいろ始まるのですよ」となぐさめつつ、なにかを思いつく。
「そうだ、メルガールにしよう!」
 メルセデスがあきれるほど嬉しげに審問所への直通電話を回し始めたとき、ヘルトルーデスがドクトル・グェの到着を知らせた。

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