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持て余したアクアパッツァに残ったひき肉を混ぜた見た目の良くないバジル風味リゾット

 ソレに気がついたのは、金曜の昼下がりだった。
 いつものように猫っぽい娘と週末の予定をすり合わせようとメッセ立ち上げたら、見慣れたアイコンがない。ふっと湧き上がる嫌な予感を押さえ込むように、猫っぽい娘のソーシャルアカウントを検索、しかし画面に表示されたのは、まさかのダイアログだった。

 ブロックされているため……。

 この期に及んでもなお、俺はまだ、現実を飲み込めなかったし、腹の底からこみ上げてくるなにかでさえ、自己の感覚を受け入れられなかった。いや、まだなにかが決まったわけでもないし、猫っぽい娘が考えなしに衝動で動くとは考えにくい。特にソーシャルを始めとするデジタルなコミュニケーション空間に対してはかなりセンシティブで、慎重に行動するタイプだったからなおさらだ。
 ただ、だからこそ俺とは接点のないところ、それも現実空間で静かにナニかが進行していた可能性は存在するのだけど、それを考え始めると消耗するばかりなのは、いろんな相手とやらかした経験からわかりきっている。ともあれ、もう仕事にならないだろうことは確かで、問題はどうやって気持ちを切り替えるか、だった。
 少し前まで、こういう時にやることは決まっていた。さっさと敗北を抱きしめて、出会い系サイトか、あるいはクイアイベントでの釣り、ぶっちゃけナンパである。ただ、猫っぽい娘と肉体関係ができてからは、そういう遊びからめっきり遠ざかっていた。
 いや、猫っぽい娘と知り合う以前から関係のあった人たちと、それからごく最近の例外をひとり除いてだが……。
 その例外からスタンプを受信していた事に気がついたのは、半ばヤケクソに始めたネットゲームで全滅した後のことだった。

『寝るとこくれ』

 リバイバルヒットした不条理ギャグアニメのキャラが、いかにもなパジャマ姿で布団を抱えているスタンプに、苦笑しながらデフォルトの『OK』スタンプを返す。と、端末を置く前に返事が来た。不意を打たれ、手の中で振動するスマホを取り落としかける。

『踊ってからで遅くてもいい?』

 順番が逆だろうと、腹の中で突っ込みながら『大丈夫』とスタンプ。続けて『ドアの解除番号は覚えてる?』と送ると、さっきと同じキャラの『問題ない』スタンプが来た。本当に他愛もないやり取りを続けながら、どこか相手の若さやらなんやらに気後れしている自分が、ふと胸の奥から顔を出す。
 そう、相手はまだハタチそこそこ。文字通り親子ほどに歳が離れているのだ。
 加えて、俺と猫っぽい娘がおにいちゃんと呼ぶその若者が、ブロックされた要因のひとつであろうことにも、つい気おじしてしまう。
 簡単にいえば、先週末にふらっと部屋を訪ねてきたおにいちゃんと、なんとはなしに関係を持ってしまったことが、気持ちの奥に引っかかっていた。しかし、猫っぽい娘は浮気とか本命とかそういうことを気にするタイプではないし、俺との関係性もそういうことで揺らぐようなものではないと思うし、その点についてはこの瞬間も確信を持っている。
 とは言え、このタイミングでブロックとなったら、やはりおにいちゃんとの肉体関係に思考が向くのは、どうにも避けられなかった。なにしろ、おにいちゃんの身体はまだほぼ女性で、性同一性障害治療の男性ホルモンを定期的に注射している他、ホルモン軟膏も使っているのだが、乳腺や性器には手を入れていないこと。つまり、外見的にはいわゆるおなべで、胸は小さく全体に筋肉質だが、やや小柄なこともあり、どことなく女性っぽさを感じさせなくもないというところだった。
 まぁ、端的に表現するなら「いさましいちびの仕立て屋」ならぬ「いさましいちびの内装屋」といったところだが、もちろん当人の前で小柄なことと女性っぽいことは絶対的な禁句である。
 もうひとつ気がかりなこともあるにはあったが、それは猫っぽい娘の交友範囲なので、俺がすべてを把握できるはずもないし、気にし始めればそれこそドツボにはまる。いちおう、現段階で猫っぽい娘と肉体関係がある男は俺だけだ。俺と腐れ縁の女を交えたレズビアンスリーサムもしているが、それはノーカンでいいだろう。ここで問題になるのは猫っぽい娘が腹を割ってあれこれ話せる友だちの有無だけど、可能性があるとするなら件のおにいちゃんというのがまた、なんとも気がかりの種だ。
 さておき、あれこれあっても奇貨おくべしである。無論、これがさらなる奇禍をもたらす可能性も高いのだが、ソーシャルのブロックというわかりやすいメッセージを受けてなお、あえてメール、いや電話すら考え始めていた俺にとっては、ナイスどさくさとしてありがたく頂戴するのが最も自然かつ無難なように思えた。
 それに、最近の猫っぽい娘はほとんどの週末をおにいちゃんや周辺人物の撮影に費やしていたから、ふたりで行動している可能性も十分にある。もし、ふたりで俺の部屋へ来たら、話はずっと簡単だ。いちおう、猫っぽい娘がおにいちゃん経由で罠を仕掛けるという物語は成立するが、もしそれほどの悪意が存在しているのなら、俺も腹をくくるだけ。
 本当のところ、ブロックの件がなくてもおにいちゃんと猫っぽい娘に来てほしかった。俺がおにいちゃんと初めて会ったあの夜みたいに三人でダラダラ過ごせればと、そんな気持ちになっている。
 うまくすればみんなでワイワイ晩飯でも、いや踊った後で遅くなるという話だった。なら夜食にもなりそうな鍋風のちょっと贅沢な汁物こしらえて、ご飯も多めに炊いておこうか、先に風呂も浴びとくかなどと、にわかに湧き上がる楽観的な雰囲気に包まれ、湯船に浸かると正に極楽だ。その勢いで料理に取り掛かる。
 流石にこれから買い物にはでたくないので、冷凍庫のシーフードミックスにタラの切り身、いささかしなびかかったセロリと人参の切れっ端で洋風海鮮鍋をでっち上げることとした。魚介を流水解凍する間に野菜を刻み、固形スープでベースを作る。オリーブ油で野菜を炒め、魚介の解凍状況を確認すると、思いのほか水気が出ていた。ペーパータオルの上に半解凍の魚介を並べ、塩を振ったらちょっとかけすぎ、焦るとろくなことがない。
 まぁ、トマト缶まるごと入れれば薄まるからと探したら、こういう時に限って切らしていた。やれやれ、流れに逆らう気がして仕方ないけど、ここから引っ込みはつくまいよ。料理に集中して頭を切り替えると、無傷のスープストックは別の機会へ温存し、フライパンに魚介をぶち込んで白ワインを投入、アクアパッツァへシフトチェンジだ。
 気がついたらご飯が炊けている。大急ぎで釜の飯をかき混ぜ、ワインと魚介のうまそうな香りを放つフライパンへオリーブ油を回し入れた。これはなんとか復旧できたかもしれん。アップダウンはきつかったけど、なんとかツキを引き寄せられたか。
 とはいえ、そんな薄い高揚感やのぼせた頭は、時間とともにたちまち冷め、独り寂しく煮崩れたタラを食べると、思いのほか塩気がきつい。あぁ、やはり失敗かと腐ったところに、そろそろ終電が気にかかる頃合いだ。
 流石に不安が頭をよぎる。

 もし、猫っぽい娘が一緒だったとしても、おにいちゃんをさそって別のどこかへ行ってたら……。

 夜も更けたしメッセ飛ばす? いや思い切って電話か? まさか、通知の見落とし?
 こういう時に限って端末のロックが解除されない。舌打ちひとつ、ハエのように手をこすって深呼吸したところ、重い鉄の玄関ドアがロック解除された。
「ヤーマン!」
 ラスタキャップにヨレヨレのアーミージャケ、平たい胸元にはラスタカラーのアフリカ大陸をプリントした黒シャツとわかり易すぎる姿で、植物系フレグランスの胡散臭く粉っぽい空気をまとったおにいちゃんが入ってくる。
「ありゃ~ひとり?」
「へへへへ、いっしょと思った? ざ~んねん、ふられちゃった」
「えぇ! ドユコト?」
 おにいちゃんはわざとらしく顔の前で人差し指を立て、声を出さず「あ と で」と唇を動かした。
「おじさん、先にシャワーいい?」
「いいけど、ヘッドは……」
「わかってる、ウォシュレット使うから」
 既に身体を重ねた仲ではあるが、ここまであっけらかんとしているのは、反対になにか秘めているかのようなきな臭さを感じる。まぁ、さっきの意味深台詞が気がかりだが、強烈なお香とタバコの臭いは流石に勘弁してほしいところだった。
「あ、パワーも戻すからね!」
 言いながら脱衣所へ消えたおにいちゃんを見送って、俺もそそくさとマットレスを整える。落ち着かないことおびただしいが、この流れだと先にやることやって、気になる話はピロートークということだ。
 飲み物は、あとでもいいか。ひとりごちて植物性の水溶ローションとティッシュを枕元に用意した。携帯は、いつものように電源切っとくか。ゲームのログインボーナスやアイテムやらなんやらを確認してからシャットダウンしたが、なにかちょっとナーバスな心理へ堕ちそうだ。この時間に猫っぽい娘からメッセか着信あってもどうしようもないし、これからセックスするんだしとか、そんなことを自分に言い聞かせてもなお、なにかがわだかまっている。
 そうこうしてると「おぉぅ~用意周到だねぇ」なんて言いながら全裸のおにいちゃんが身体フキフキ顔をのぞかせた。いったん引っ込むが、すぐポーチだけを手にタオルさえないマッパでやってくる。
「こないだみたいに、塗ってからしばらくかかるけど大丈夫?」
 あぐらをかきながらいたずらっぽく笑うおにいちゃんに「うんうん、大丈夫」と返しながら、ここでさっきの謎めいた言葉の意味を訊いてしまおうか、それともセックスだけはやっておこうかなどとさもしいことを考えていた。
「おじさん、なんか音ほしい。リクエストしてもいい?」
 身体を丸め股間にホルモン軟膏を塗っているおにいちゃんが、うつむいたまま耳慣れないアーティストの名を告げる。検索したら、カタカナの一節で予測変換に表示され、そのまま上位表示のライブ動画を流した。
 ゆるいリズムに乗った英語とフランス語、そしてなんだかよくわからない言葉がまぜこぜに流れ始めると、おにいちゃんは嬉しそうに「これこれ、ライブっすね!」と無邪気にはしゃぐ。曲の合間に話を聞いたら、西アフリカ出身のレゲエミュージシャンで、詞の内容はかなり政治的ということだった。祖国を追われてフランスで活動していたのだが、最近のあれこれでパリのスタジオが焼かれ、結局『フランスは私を必要としないが、アフリカは私を必要としている』と宣言し、ワールドサーキットに出たということらしい。で、おにいちゃんはその来日ライブの後、この部屋へ来たのだ。
 やっぱり、ライブ会場だから猫っぽい娘は撮影できないとか、そういうシンプルな理由じゃなかろうか?
 オッカムの剃刀めいた儚い思考がゆらゆらと立ち上り、おにいちゃんに気がかりな言葉の意味をたずねようとした時、小さな筋肉質の身体がすっと寄ってきた。
「先にローション塗るから、いきなり犯してくれる?」
「え、いいけど……」
「そういう気分なんすよ」
「わかった」
「あ、ローションは自分で塗るから。それと、絶対マンコに入れないでね」
「うん、ホルモン軟膏でしょ」
「手で塞いどくんで、間違えたふりしても握りつぶされるだけっすよ」
「大丈夫、でも玉袋に塗る薬でしょ、それって?」
「うん、だけどちんこ経由で粘膜につくのは嫌だし」
「あ~」
「だから、ね」
「わかった」
 その後、髭のおっさんがレイプされるポルノでちょっとイメトレして、それっぽいことをおにいちゃんにもする。楽しい交わりの後、なんだかんだで話す体力はなく、抱き合いながら寝落ちしていた。

 翌朝、ちんこに甘い違和感を覚えて目が覚める。案の定、おにいちゃんが俺のペニスを優しくもんでいた。
「こうして握ると、安心できるんですよ」
「欲しい?」
「うん! おじさんの、取ってつけたいっすよ!」
 まぁ、こういう展開だよなぁと苦笑しながら、おにいちゃんのがっしりした肩を優しく撫でる。ふわっと指先に触れる和毛が心地よく、つい「ふわふわ~」と口に出してしまった。
「いいっしょ~手足もだいぶ濃くなってるんですよ」
 嬉しそうに二の腕を俺の前へ付き出すが、たしかに濃い。筋肉の具合と言い、腕だけなら男女の区別がつかないかもしれなかった。つと、おにいちゃんは俺の腰回りを抱きしめると、愛おしげにちんこへ舌先を這わせる。朝の半勃ちがみるみる大きく膨れ、固さを増していった。
「欲しい?」
「うん! ローション取って」
 朝のセックスは穏やかだったが、満足感は昨夜の激しいプレイに全く劣らない。それぞれ顔を洗い、シャワーで汗を流すと、おにいちゃんが軟膏を塗っている間に俺は髭をそった。
「いいなぁ~髭」
 背中越しにおにいちゃんの声が聞こえる。剃り跡を撫で回しながら「わりかし濃いと思うけどね」なんて、やや雑に返ししてしまった。
 おにいちゃんの本気とも照れ隠しともつかない「いやいや、まだまだっすよ」を聞きながら寝部屋へ入ると、相変わらずマッパで股間に軟膏を擦り付けている。
「クリはかなり大きくなったんですけど、それでももやしちんこですしね」
 返す言葉も見当たらないまま苦笑してたら「見ます?」とまで煽られた。流石に遠慮しても「男同士じゃないですか?」と畳み掛けられる。そうまで言うならと、おにいちゃんの股間へ顔を寄せ、まじまじとみたらたしかに大きかった。
「ピクピクしてるね、おやおや大きくなってきたぞ」
「うわぁ~恥ずかしい」
 おいおい……。
 声にならないツッコミを入れながら、こういう馬鹿馬鹿しさを分かち合える相手、間柄のかけがえなさへ思いが至る。いや、かけがえない相手と言いつつも、猫っぽい娘がこの部屋を去った後、俺はこうしておにいちゃんを迎えた。
 猫っぽい娘もまた、知らない誰かとこうしているのかな?
 ふと、そんな思いがよぎるものの、センチメンタルな旅に出てる場合ではなかった。ようやく服を着たおにいちゃんへ「飯でも食うか」と声がけしたら、思いのほか申し訳なさそうに「いいんですか?」と返される。別にどこかで食べるわけじゃない、ありあわせの手料理と告げたら、今度はやたら嬉しげに「ごちそうになります」と応えた。
「おじさんの手料理、美味しいらしいですね」
 うわぁ~猫っぽい娘がそんなこと言ってたのか?
 動揺させられた上に味のハードルまで上がってしまったが、手持ち食材を考えると開き直るしか無い。おにいちゃんへ「ほんと、残り物だからね」と念押ししたら、反対に「まかないでセンスがわかるそうじゃないですか」と返された。
 煽り体質だなぁ~ほんと。
 苦笑を隠すこともなく台所へ行くと、昨日のスープストックを鍋に入れて温め、冷蔵庫のタッパーとおひつを出した。とは言え、このままではアクアパッツァの塩気まで、そっくりそのまま引っ張ってしまう。止む無くパラパラ冷凍の合いびき肉も出して、しなびかかったカブの葉を刻む。フライパンにそれらを炒め合わせると、残り物のアクアパッツァだったものをざっくり放り込んだ。
 フライパンの縁で汁がジュワジュワはしゃぎ始めた頃合いに、バジルをバババッと振り入れつつグシグシ混ぜ合わせた。そこへおひつの冷ご飯をドバっと投入、チャーハンでも炒めるかのごとく切り崩す。飯と汁を混ぜる過程で塩気の強いタラは完全に崩れ、すっかり影も形もなくなるが、むしろ好都合だ。
 今度はすっかり温まっているスープストックを静かに、少しづつ回し入れる。煽られたためでもないのだが、ひねりのない西洋おじやにはしたくないなと、そんないたずらごころが芽生えてしまった。お陰でピラフっぽくもなったが、それ以前にカブやバジルの葉が黒ずんで、この世のものとは思えないビジュアルになっている。
 幸いにも香りは食欲をそそるし、味見したらなんとか塩気も押さえ込めていた。パステル調のスープボウルによそったら、なんだか人間の食べ物かどうかすら怪しい雰囲気だけど、自分のはプラのカレー皿だから、少なくともそれよりはマシだろう。
 ひとまずお盆にボウルと皿を載せ、振り返ったらおにいちゃんがいた。
「手際いいっすね」
「ずっとみてたの?」
「うん」
「じゃ『この皿を受け取る者は一切の希望を捨てよ』だな」
「ずいぶん謙遜しますね」
「見た目がこんなんだからね」
 笑いながら折りたたみ座卓へ皿や水を並べ、半ば儀礼的に「どちらにします?」と訪ねたら、おにいちゃんはすかさず「じゃ、こっち」とプラのカレー皿を選ぶ。反射的に「いいの? そっちで?」と返してしまうが、やたら嬉しそうに「多いですからね」と応えながら「いただきます」と続けた。
 パステル調のスープボウルはフェミニン過ぎたかもとか、ちらっとそんなことも思いつつ、苔むした玉砂利めいたリゾットにさじを入れる。バジルの香りは心地よいが、さて味は……雑にでっち上げた残り物料理だが、どうにかこうにか及第点だ。ホッとして顔をあげると、元気良く食べるおにいちゃんの笑顔が視界いっぱいに迫る。
「いいですね~手料理」
「作らないの?」
「うん、あんまり作ったこと無いし、料理ってよくわかんないんですよ」
 そうかそうかとうなずきながら、猫っぽい娘がおにいちゃんを部屋へ連れてきたときのことを思い返した。その時は夜更けだったし、朝食も駅まで見送るついでの牛丼屋で済ませたから、どうやら俺のいないところで猫っぽい娘があれこれ言ったんだろう。悪い気はしないが、この状況だとむしろ切ない。
 そういや『ふられちゃった』って、昨夜はそんなことを言ってたっけ。
 気がついてしまうと、もぅそこからは収まりがつかなかった。
「そういや、来た時に『ふられちゃった』って、そんなこと言ってなかった?」
 料理話の流れにお構いなく、正面からスパッと口に出す。
「あ~そうなんですよ~」
 口調は軽いが、表情はひどく重かった。
「ライブに誘ったんだけど、断られたんですよ。じゃ、来週のレインボーナイトはどうするって言ったら、もう撮らないってね」
「おにいちゃんを撮らないって?」
「うん……撮影は続けるけど、別でって」
 声にならない衝撃が頭の真上から俺を襲う。そもそも、猫っぽい娘がおにいちゃんと知り合ったのは、卒業制作を視野に入れたクイアポートレートプロジェクトの撮影過程で、どうやらナンパがきっかけのようだが、とりあえずそれはどうでも良かった。
 口説きにかかったおにいちゃんと意気投合した猫っぽい娘は、プロジェクトのコアとして集中的に撮影していたはずで、少なくとも俺に対しては相当な手応えを感じていたような素振りを見せていたのは、はっきりと覚えている。そして、おにいちゃんを部屋へ連れてきた時には、チャラい印象の奥にあるセクシャリティと誠実に向き合う姿をいかに写真作品として表現するかに心を砕いているのが、傍目からもはっきりとわかったのだ。
 だからこそ、おにいちゃんを撮らないという猫っぽい娘の選択はあまりにも衝撃的だったし、それはおにいちゃんにとってもそうだろうと思う。そう考えると、ここで俺がソーシャルでブロックされた話をしたら、おにいちゃんに回復困難なダメージを与えるかもしれない。だが、この流れで黙っておくのは危険だ。
 なんとか遠回しに伝えようとしたが、結局「ソーシャルでブロック食ったよ」と、はっきり言ってしまう。最初はキョトンとしていたおにいちゃんに、もっとはっきり伝えるにはどうしようかと思った瞬間、拍子抜けするほどあっけらかんと「ブロックされたって、ソーシャルだけでしょ。じゃ心配ないですよ」とかわされた。
 つい「いやいや、そうじゃなく」と口に出かかったところで、おにいちゃんに「だっておじさんとセックスした話の時も、かなり薄い反応でしたよ。こう『あ、そう』って、あの調子で」と、猫っぽい娘の口真似つきで遮られ、こらアカンと腹をくくる。
 俺は自分で思っているよりもはるかにわかりやすく、見るからに意気消沈していったのだろう、見かねたおにいちゃんが『甘えられる安心感って、好きだけどコワイ』って聞いた話を猫っぽい娘の真似しながら言ってくれたのも、半分くらい聞き流していた。
 おにいちゃんに言わせると「そのくらいおじさんのことを大事にしてたから、心配ないですよ」ということだが、流れで出てきた『同じ時間と場所を共有するなら、そこに理由がほしいと思うの』って猫っぽい娘の言葉のほうが、俺の胸にはずっとに深く刺さっている。
 とは言え、素人探偵を気取ってふわふわした思い出をあれこれ並べ立てたところで、他人の気持ちがわかるはずもないし、まして猫っぽい娘にはなにを考えてるのかわからないところも多々あった。
 ため息混じりに「相手には相手の都合ってのがある」とつぶやいたら、おにいちゃんが「たったそれだけのことがわからない人、すごく多いですよ」つなぐ。
 たしかにそうだ。
 おにいちゃんもまた、そう言いながら自分に言い聞かせているかのように見える。
「おじさんとはセックスだけのつもりって、ちゃんと言ったんだけどなぁ」
 それ、フォローでもなんでもない……。
 そうして、昼ちょっと前までしんどいやり取りを重ねた末、駅まで送ると言う俺に「必要とされないのは自由の裏返しだけど、おじさんはそうじゃないですよ」と、ずいぶんわかったような大口を叩いて、おにいちゃんは帰った。

 ただ、猫っぽい娘がいなくなって俺が露骨に動揺したことは、その時に思っていたよりも遥かに大きく重いことだったらしい。その後、おにいちゃんと遭ったのは一度だけで、そこで思いもよらぬ過去を聞くこととなる。
 もちろん、それはまた別の物語だった。

(了)

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