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中華の心 Corazón chino

 外食を妙に毛嫌いする、不思議な娘だ。

 初めて会った夜にしてから、そうだった。
 駅で落ち合ってから喫茶店での雑談という体裁の、まぁ最終確認まではいつものように『手順を踏んで』いったが、そこから「晩御飯でも」となったところで「どうせならおじさんの家で食べましょうよ。コンビニでなにか買っていってもいいし」と、なれた口調の飾らない笑顔で娘から申し出たんだっけな。いちおう、喫茶店でのやり取りからそういう雰囲気を漂わせていたし、決して意外ではなかった。そもそも出会った直後の印象からして、駅前のカフェチェーンには目もくれず、わざわざ裏通りの古風な喫茶店を選んだあたりから、なにか予感めいたものが湧き上がっていたのもある。
 ただ、同時にずいぶん積極的だなと、そしていささか大胆というか、ちょっと無防備すぎやしないかなと、そんなこともちらと頭をかすめたのは、いまでもはっきりと覚えている。それに、この流れは明らかに『お泊り』だったし、うまく行き過ぎるときはだいたい脇が甘くなっているものだから、自分自身の判断力を疑い始めていたことも含め、微妙にスプリングがずれたソファのように、じわじわと座り心地が悪くなってもいたような気がする。
 まぁ、いま、振り返って考えると、なんだけど。
 でも、喫茶店を出て近所の惣菜屋や弁当屋、持ち帰りメニューのある店を挙げ始めたとたん、そんなもやもやは綺麗サッパリ吹き飛ばされ、ほんのさっきまでどこかに隠れていた身勝手でひどく都合の良い気分が、再び我が物顔で俺の精神世界を闊歩し始める。
 俺が挙げたのはヒッピー世代の生き残りめいたおばぁさんがやってる自然食カレー屋、この時間には売り切っている可能性が高いけど味はかなり良い発芽玄米弁当の店、そしてカウンタで弁当を注文できるけど出前が基本の胡散臭い中華料理屋のみっつだったが、娘が好奇心にギラついた瞳でまっすぐこちらを見つめながら中華を選んだ瞬間、相手が『こちらがわ』の人間であること、少なくとも余計な計算や警戒心は無用であろうことを確信していた。
 歩道橋下に停められたオンボロのおかもちバイクと、対称的な新型の業務用電動アシスト自転車の向こうに垣間みえる逆さ福の提灯を目印に、かつては客席であったろう赤い合板貼りのカウンターで黙々とザーサイを刻む坊主頭の白ランニングへ声をかける。包丁の動きを止めずに男が誰か呼ぶと、顔を出した小柄な老婆が中国語で話しかけてきた。娘とふたりで困っていると、次に出てきた丸顔ギョロ目の浅黒いおねえさんが瞬時にすべてをさとり、無言でクリアホルダに入ったメニューを差し出す。
 てきとうにおもいおもいの料理を選び、ご飯ともども黒プラの弁当箱や透明のプラパックへよそってもらうと、やけに薄い青緑のビニール袋がずっしり重かった。道中、袋が破れやしないかとヒヤヒヤしながら部屋までたどりついたら、さっそく台所のテーブルへ惣菜をならべ始める。とりあえずヤカンに湯を沸かし、戸棚から食器や中国茶をだしているかたわらで、娘がティッシュやペーパーナプキンでパックのこぼれ汁をふきつつ皿や箸立てを配置してくれた。
 惣菜をいくつか温め直している間に茶を淹れ、ようやく食べ始めたのはよいのだが、こんどは娘が妙におとなしい。ほとんど会話らしい会話もないまま、黙々と食べている。いちおう中華料理ではあるものの、やたら五香粉や唐辛子、山椒を使った、いわゆる『現地系』ってやつだ。口に合わなかったとしても不思議ではないが、それにしては箸が止まらない。やがて、ため息交じりにしみじみと「ねぇ、これすごく美味しくないですか?」と言葉を差し出す。そこまでかと、むしろ俺が驚いてしまうが、ふわりと短く切りそろえた前髪の向こうに垣間見える瞳には偽りもへつらいもなかった。
「気に入った?」
 おずおずと、確かめるように問いを投げかける俺に、娘は「もちろん! すごく!」と即答しつつ、さらに「中華の心を感じる」と、意外というか、まだあどけなさすら漂わせている口元からは不釣り合いな、ちょっと大人ぶった言葉を重ねる。
 精いっぱいの背伸びか?
 いやいや、いかに親子ほど離れているとは言え、四大卒の社会人を軽々しく子供あつかいするものではない。
 言葉を受け止めながら、抑えるまもなく浮かび上がった微笑みに、まさか軽くみるよう侮りが含まれていなかったかと、そんな思いにかられ始めた俺のまなざしをとらえ、引き戻すかのように、娘はそのまま話を続けた。
「わたし、料理エッセイとか大好きなんですよ。そのひとつに『レストランの料理は本当の心がないけど、中華料理屋にはその心がある。でも、それは中国人の心だ』ってのがあるんですね」
 最近は料理エッセイが流行ってるしなと、また目線が高くなり始めた自分にセルフツッコミいれながら、それでも好奇心の感度は可能な限り高く維持して娘の話を聞く。その中で、娘の言葉は西側へ亡命したロシア人の書いた料理本のフレーズらしいこと、また以前より外食には否定的な印象を持っていて、それは当人の体験に根ざしていることなどを知った。なるほど、あれこれ聞いてしまうと、彼女のようにいくつものひどい経験、あるいは運の無さを重ねてしまえば、確かに外食へ肯定的にはなれないだろうとも思う。しかし、それよりも驚かされたというか年齢差を感じたのは、娘にはソ連時代の暮らしが想像できないのはもちろん、ロシア人が亡命したことや西側と東側という概念そのものも、理解を超えたなにからしいことだった。
 とはいえ、その夜は話もほどほどにして、本来の目的……まぁ、つまるところセックスだ……へとなだれ込む。ただ、それは楽しくもあったが完全燃焼には程遠い、むしろ申し訳無さを感じるような結末を迎えてしまう……。
 俺にはひとつジンクスというか、娘の外食嫌いにも似た経験則がある。それは、最初のセックスが不完全燃焼だったら、その相手はそれっきりというもの。実のところ、まったく例外がないというものでもないのだが、その娘は例にもれないような気がして、翌朝に送り出した後は、年甲斐もなく落ち込んだりしていた。
 そんなわけで、数日後に外食嫌いの娘からメッセージを受け取ったときは、喜びと不安が同時に湧き上がったりもしたのだが、そんな気持ちはお構いなしに指先が即座に通知を選択、表示させてしまう。

『このまえはありがとう 返信わすれてました ごめんね また おじさんとごはんたべたいけど いいかな?』

 指が動くままにでれでれした言葉を入力し、送信する直前に思いとどまる。それをなんかいも繰り返した末、ようやく外食嫌いの娘へ返信したら、そこへすぐ反応があってまた驚く。そんなやり取りから、ゆるい付き合いが地味に始まっていった。
 外食嫌いの娘と自然食カレー屋の弁当を買い求め、冷戦期ヒッピー世代の生き残りめいたおばぁさんの長話につきあったり、発芽玄米の幕の内を食べたり、俺も亡命ロシア人の料理本を買って読んだりと、そんなことを繰り返しながら、日々はゆっくり過ぎていく。ふたりの夜を重ね、たがいの身体や心の動きを深く知るにつれ、行為の反復を超えたなにか、それぞれが相手を強く欲しない、必要としないがゆえに寄り添うことが可能となる、そんな関係が静かに立ち上がりはじめていた。
 やがて、外食嫌いの娘はスポーティーなオールウェザージャケットを身にまとい、腰や袖の反射テープを軽やかにきらめかせながら、ネックウォーマーの上から鼻と目元をちょこんとのぞかせるようになった。俺も重くて擦り切れた軍用コートをはおり、冷たく湿った風をかき分けるように外食嫌いの娘と夜の街を歩く季節が訪れる。
 いつものようにターミナル駅で待ち合わせ、繁華街を通り抜けて業務用スーパーやハラルフードの店を冷やかし、極彩色のパトランプをきらめかせたどう考えても趣味が良いとは言えない看板を目印に、雑居ビルの薄暗い階段をとんとんとあがる。途中にみえた胡散臭い店には目もくれず、最上階の同じくらい怪しげな行きつけの店へ入る……はずが、ない……店がない……ぽつんと明かりが灯るフロアの奥からは、なにか話し声が聞こえるものの、店としてはどう考えても営業してなさそうだ。ただ、ドアに貼られた紙には『送到厨房 楼下的厨房』と読めなくもない手書きの文字が記されており、おそらくは下の階へ移転したのだろう。
 ということは、さっき通り過ぎた怪しい店か?

 回れ右して階段を降り、改めて店の前に立ってはみたものの、黒合板に金文字ガラスがはめ込まれた扉はどう考えても夜の水商売系統にしかみえない。だが、引き戸には逆さ福やまるまる太った子供のシールが貼られており、他にも見覚えのある同郷會の案内やらなにやらが目についた。
 居抜きにしても、これまた妙なところへ入ったものだと思いつつ、外食嫌いの娘に目配せして扉を開けると、むせ返るようなにんにくと生姜、香辛料のにおいが襲いかかってくる。目の前にある会計窓口で持ち帰り惣菜を注文しようと声をかけたら、店の人たちは顔を見合わせ「お持ち帰りできない」とか「お弁当はなくなった」とか、まったく要領を得ない。それでも、やたらと大きな音で鳴り響く中華ポップの合間に聞き取った切れ切れの日本語を意味を持つように再構成するなら、少なくとも夜は持ち帰りも弁当もやってないから、お店で食べていってくださいという話だった。
 最近は持ち帰り惣菜に絡む小うるさい出来事が多くなっていたし、社会の仕組みだって変わるし、なにより店もフロアを移動していたので、ここはあきらめて場所を変えるかと後ずさり始めたら、外食嫌いの娘が軽く俺の肩をたたく。
「せっかくだし、食べていこうよ」
「だいじょうぶ?」
 完全に不意を撃たれた俺は、間抜けな顔でそう言うしかなかった。
「うん、ここならね。あきらめもつくし」
 あっけらかんと微笑む外食嫌いの娘に、俺は「あまりはっきり言わないの」とホールスタッフを意識しながら釘を差し、やけに明るく白っちゃけた天井灯と黒基調のインテリアがまったく調和していない客席へ進んだ。
 明らかにクラブかラウンジ向けだろう、ただでさえ低いうえに腰が深く沈み込む黒合皮のソファと、大皿ふたつが精一杯じゃないかと思うほど小さなテーブルの仕切り席へ腰を下ろすと、申し訳程度に日本語が記された菜単(御品書)を開く。写真すら添えられていないページもあるが、フロアが変わってもメニューは同じだったので、ふたりともなれたものだ。寒いし、なにか温かいものがいいねとか、この際だから持ち帰りできない麺類がいいんじゃないかとか、自分たちは日本語でやり取りしているが、ほかは誰もみな中国語を話していた。店中に満ち溢れる異国の響きを楽しみながら、俺はやたら幅の広いホイ麺(烩麺)を、外食嫌いの娘は羊肉のひとり土鍋(羊肉砂鍋)を注文する。
 立て掛けたスマホとおしゃべりしながら食べる人、仕切り越しにタブレットの画面をみせつつ笑いあう人々、もちろん向かい合って語り合う人々もいて、客はみんな誰かとなにかを話していた。なかにはカップルもいて、若い娘が花柄の取皿に炒飯や野菜をよそい、となりの男へ渡す光景にはままごとめいた可愛らしさがあり、なんとも微笑ましい気持ちにさせられる。
 そうこうしていると料理が運ばれて、卓上には麺の入った白い丼や小さな煤けた土鍋、調味料入れ、そして皿にもられた幅広麺などがところせましとならぶ。ふたりともすっかり空腹だったので、いただきますと言ったそばから麺や羊肉へ箸をのばし、レンゲで汁をすくう。
 俺の注文した幅広麺は、油麩のような揚げパンをちぎって丼に敷き詰めているので、まず最初によくかき混ぜる。そうしないと、中途半端に汁を吸った揚げパンが丼の底から浮かびはじめ、大変なことになるのだ。細切りの昆布や春雨、豆腐麺などと羊肉をからめ、複雑な食感を楽しんだり、揚げパンを粥のようにレンゲですくったりしながら、呆れるほど長い幅広麺をずずっとすする。みると、外食嫌いの娘は「汁物だけだと足りない」とか言いながら、添えられた幅広麺を鍋にいれている。
「なんだか、かぶった感じがする」
 言いながらなんとなく嬉しそうな外食嫌いの娘に、俺も微笑み返しつつトウガラシ黒酢で味を変えたらいいとか、添え物は揚げパンやご飯も選べたけど大差なかったねとか、他愛もない言葉でじゃれあう。熱のこもったまなざしを交わし、このあとは身体を交えるふたりだが、それぞれの料理を取り分けたりはしない。中華料理屋にしては珍しく、客席にも大皿料理を取り分ける人の姿は見当たらない。誰もが味覚を交えることなく、奥ゆかしさをたもっていた。
 ふと、外食嫌いの娘に意味ありげなようでいたずらな表情が浮かび、俺も仕切りの彼方へ目線を遊ばせる。
 さきほどのカップルがイチャイチャとじゃれ合いながら、娘が青菜炒めを『あ~ん』と男の口元へ運んでいた。思いがけない、なにかみてはならないものをみてしまったような感情に襲われながら、同時に中国の人もこういうことやるんだと、そんなことも考える。もちろん中国の若者だからといって、自分たちとなにかが違うわけでもないし、あえて言えば彼らの若さと、その無邪気さなのだろう。だが、かつての社会主義陣営にこびりついていた堅苦しいイメージ、あたかも非人間的な社会であるかのように思い込まされていた記憶が残る自分は、どうしても西側っぽくなったなぁというか、過去の印象と比べてしまうところがあった。
 複雑な感情が顔に出ていたのだろう。外食嫌いの娘はおもしろそうに俺の顔を見つめ、不意に「あ~ん」と肉をのせたレンゲを差し出す。わけもわからないまま、反射的にくわえてしまったが、薄まりかけていた羊肉とパクチーの味や香りがまた口中に広がり、気恥ずかしさと美味しさと多幸感でぐちゃぐちゃになる。
「反応はやいじゃん」
 外食嫌いの娘は笑いをこらえ、歯に挟まった羊肉と格闘する俺をちゃかす。舌先をこねくりまわし、やっとのことでこそげ落とした肉のかけらを飲み込んだところで、カップルの娘と目があってしまう。気恥ずかしげにうつむいた娘に、照れ笑いを送っていると、外食嫌いの娘が「私たちも同じにみえてるかな?」なんて、また微妙な話を重ねる。
「たぶんね。でも、やっぱ周りが気になる?」
 口に出してからしまったと思ったが、それこそ吐いたつばは飲めない。なにせ、他人の眼差しを感じながら食べるのは落ち着かないとまで言っていた外食嫌いの娘なので、もしかしたらまずい流れかと恐れた。だが、それは杞憂に終わる。
「ううん、正反対。こんなに周りが気にならないお店は、生まれてはじめてかも」
 心底から楽しそうに目を細め、外食嫌いの娘はトウガラシ黒酢を絡めた麺をずずと音を立ててすすり「食べ方を気にしなくてもいい。自撮りしながらだって、ね」と、映像通話しながら食べる中年女性をチラ見する。いやいや、いくらなんでもみるのは無作法でしょと、軽くたしなめた俺に、外食嫌いの娘は「ごめんなさい」と謝りながら言葉を継いだ。
「お店で食べるとさ、いかにもくつろいでくださいね、たのしんでくださいねって、そういう雰囲気が押し付けがましくて、息苦しくて、まともに料理を味わえないの」
「まぁ、たしかにここはそうじゃないね」
「投げっぱなしがいいのよ」
 外食嫌いの娘の毒舌が暴走しないよう警戒しつつ、俺もこういう雰囲気が大好きだし、まさに外食のそういうところが嫌だっただけに、声は抑えても嬉しさや共感を満面の笑みで返す。ともあれ、ふたりの居心地がよくて食事が美味しいなら、それがすべてだ。
 ホールに充満する混沌と喧騒も、仕切り席の中までは届かない。同じようにふたりの世界を形成している若いカップルを横目でみながら、俺はこれからのこと、外食嫌いの娘と過ごすつややかな夜へと思いを馳せていた。

しかし、誠の料理の心と呼べるものは、レストランの料理の中にはない。様々なレストランのうちでも最良とされる中華料理のレストランでさえ、そこに息づいているのは、他人の料理の心だ

新装版 亡命ロシア料理 2014年
ピョートル・ワイリ,アレクサンドル・ゲニス 著/沼野充義,北川和美,守屋愛 訳

http://www.michitani.com/books/ISBN978-4-89642-458-4.html

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