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デラックスアップルパイとギークな女

 シャワーを終えた女が風呂場から出てきた時、俺はまだ下着もつけていなかった。
「パンツぐらいはいたらどう? 先っちょからしずく垂れるよ」
「今日はもうしない?」
「う~ん、時間が微妙だし……なにか飲みたい気分」
 壁の時計を見やるふりをしながらタメを作って、女は俺との微かな隙間に精一杯の優しさを詰め込む。別にプレイが雑だったとか、不調だったとか、そういうわけではない。雑と言うかラフなのはいつものことだし、それは互いにちょっと手を抜きつつ、わがままにそれぞれの快楽をむさぼる気楽さの現れでもあった。
 そうではないなにか、いやなにかではない。女の気持ちを吸い寄せているそれは、その時の俺にも十分すぎるほどはっきりわかっていた。
 無言でパンツをはいてエプロンを付けると、寝部屋で涼む女へ「珠茶(じゅちゃ)と苦丁茶(くていちゃ)、どっちする?」と、努めて明るく声をかける。
「窓のミントがすごいことなってるでしょ? モロッコミントティーはどう?」
 確かに、水をやるばかりで放置していたスペアミントがやたら生い茂って、ちょっと大変な有り様になっていた。モロッコミントティーに使うのはペパーミントだったような気もしたが、とりあえず「せやな」と同意した旨を告げ、続けて湯を沸かすあいだに葉をむしるよう頼んだ。俺は珠茶と砂糖を用意し、鍋に水を入れて火にかける。湯が沸いた頃、スウェット姿の女がミントを持ってきた。
「砂糖どうする?」
「たぁっぷりがいいなぁ~」
 女は切り取った茎から無造作に葉をむしり、軽く水で濯ぎながら、妙に冗談めかして応える。俺は無言でうなずき、沸いた湯を小ぶりのヤカンに少し入れては捨て、今度は珠茶を入れてまた少し湯を注ぎ、やはり捨てる。そして膨らみ始めた茶葉の上に角砂糖とミントをたっぷり放り込むと、少し高いところから鍋の湯を注ぎ入れた。
 砂糖がじょわじょわ溶け、ミントや茶葉の香りがたちこめる。ヤカンを火にかけひと煮立ち、フタをして中の茶葉が混ざるように回すと、泡が立つようにやや高いところからグラスに注ぐ。卓上には俺と女の分、そして余った茶を逃したもうひとつのグラス。茶菓子のマドレーヌは微妙にミスマッチな気もしなくはないが、ないと寂しいのも間違いないところ。
 席についた女はさっそくひと口すすり、嬉しそうに「う~ん、甘いわぁ~」とはしゃいでいた。俺もひと口すすると、いかにもお砂糖で御座いますと言わんばかりの安っぽい甘みが、遠慮会釈なく口の中を塗りつぶす。たしかに甘い。ミントの風味が感じられない、あまり嬉しくない甘みだ。ところが、その安い甘みに気を取られていると、背後からスペアミントのささくれだった槍が雑味を突き立てる。たまらずマドレーヌを頬張り、柔らかい甘さでミントの切っ先を丸め込んだ。
 やっぱ、自家栽培はあかん……。
 これじゃ、砂糖の安い甘みで押さえ込まんかったら、かなりエライことなっとった。マドレーヌとミントティーとボヤキを飲み込みつつ女の顔をうかがうと、茶にひたした菓子を楽しげに頬張っている。
「本場の味よ。思い出すわ」
「え、そうやって食べるの?」
 女はなにも答えず、ただ少し意外そうな色を瞳に浮かべて、もうひとくちマドレーヌを頬張った。
 ミントの香りに隠された焼き菓子のバタ臭さを意識した瞬間、俺も思い出す。そして感じる、俺の内部で進行しつつある異常ななにかを、よみがえる記憶を、素晴らしく心地よい、孤立した、原因不明の快感を、このうえもなくはっきりと思い出したのだ。
「思い出した。俺も。でも、あれはミントティーじゃなかったよ」
「マドレーヌだってこんなに丸くない、貝の形だったしね。でも、小さなこと。それに、このお茶は本当に本場の味がするわ」
「そうなんだ」
「うん、カサブランカで最初に飲んだ時に、ちょっとがっかりしたこと、それを思い出した。けど……」
「けど?」
「もうひとつ、もっと大事なこと思い出した」
 俺は無言で身構える。次に来る言葉と、それが引き起こすであろう厄介な事態はわかっているが、もはやどうすることもできない。ただ、穏やかに受け止め、俺と女との気楽な関係を損なわないよう、それだけを考えてる。
「やっぱ、逢うわ。あの子と」
 静かにうなずきながら『それ、思い出したちゃうやろ』とツッコミたいのを我慢する。いや、女は思い出したのかもしれない。逢いたいという気持ちを運んできたなにか、俺にはわからないなにか。
 もともと、女がどこで誰と逢おうが、俺には関係ないことだ。
 それが俺との関係より優先するものでなければ、あるいは俺に影響が及ぶものでなければ、俺は全く感知しない。
 だが、今回は違う。
 今度の相手は、まだ高校生だった。

 女を駅まで見送った後、俺は券売機の脇に身を潜め、ショートメッセージを飛ばす。別にわざわざ隠れることもないのだが、どうにもこうにも気持ちが縮こまってしまい、不安を抑えられない。いつまでたっても馴染めないタッチパネルに苦戦しつつ、どうにかこうにかメッセージを入力し、内容と送信先を再確認して送信する。
 メッセージと言っても『お久しぶり、番号いきてますか? 連絡下さい』だけではあるが、それでも送信直後に不着メッセが届かないことを確認すると、そこでなんとなく気持ちが楽になる。
 ようやく日が落ちて、薄紫色に染まりゆく空を背負うように歩き出す。自転車の群れに紛れて信号を渡り、歯抜けの商店街を半分ほど過ぎた時、ポケットが振動した。どうせスパムだろうが、気持ちがささくれてる時は無視できない。軽く舌打ちして携帯を取り出すと、画面には先ほどの相手が表示されていた。
 内容は新着表示のヘッダに収まる『お久しぶり、生きてるよ。どした?』のみではあったが、俺にはそれで十分だ。すかさず『急ぎの用件があるので話だけでも聞いて欲しい』と返信、そこからちょっとしたやりとりを経て音声通話の手はずを整えると、夕食の買い物もせず部屋へ急ぐ。
 パソコンを立ち上げる間に飲み物を用意し、時間を確認する。こういう時に限って、癇に障るタイトルのスパムがボックスにしれっと紛れ込んでたりするけど、いまは安全センタへ通報する手間すら惜しい。
 インカムを装着して音声テスト。
 マイクも問題ない。そう、わざわざテストする。こういう時に限っておかしくなるもんだからさ、事前に確認しないとまずいんだ。デジタルガジェットってやつはな。
 ようやく少し落ち着いて、メールやソーシャルの通知を確認していると、音声着信の表示がポップアップする。えらく懐かしいアカウント。まだ使ってたんだ…… もちろん即座に通話許可ボタンを叩く。
「みゃぐゃ~」
 ネコ? まさか、ネコ? なぜ? どうして?
 不意を突かれ、あわあわしてるところへ「モンちゃん、やめて」と、懐かしい声がかぶる。間違いない、メッセージの相手だ。でも、ネコ?
 モニタ越しに見えるアイドルやアニメ、ゲームのグッズが、フィギュアが、いかにも独り暮らしの貴腐人めいた雰囲気を濃厚に漂わせているが、肝心のご本人は見当たらない。ただ、かすかに「おいで、おいで、おじさんにご挨拶しましょうね」、間の抜けた猫なで声だけが聞こえる。
「まさか、ネコ? お迎えしたの?」
「うん、そのマサカなのよ~! 春にお迎えしてたんだけど、まだちょっと馴染んでないのよね」
 声の後から呆れるほど大きな黒灰色のハチワレを抱えた、眼鏡の中年女性が現れた。それにしても、先代も大きな茶トラネコだったが、このハチワレはさらにデカイ。ネコに隠れて腹が見えない……。
「ばぁ~! おじちゃんにご挨拶しましょうね~」
「にゃぐゃ~」
 いや、違う。ちょっと痩せたんだ。
 だよな、あの頃はすごい落ち込みようだったものな。でも、元気そうだからいいか。
「もう、ネコは飼わないんじゃなかったの?」
「いやぁ~それがですね~」
 ネコとアニメとゲームとマンガとボーイズラブの話をさせたら最後、めちゃめちゃ長くなる、しかも全く要領を得ないのは嫌というほどわかっていたが、もうどうにも我慢できない。なにせ、数年前に飼いネコのシフォンを亡くした時はペットレスもいいところで、仕事が全く手につかないどころか、本当に後追いするんじゃないかと心配になるほどだった。実際に引きこもってしまい、しばらく音信不通だったし。だから、楽しそうに新しいネコの話をだらだら重ねる姿を見て、嬉しいような次が怖いような、なんとも微妙な気持ちが芽生えるのは、もはやどうにも抑えがたかった。
 マドレーヌとミントティーの後はなにひとつ飲み食いしていない俺の胃袋が限界を迎える寸前まで時間を費やした末、バラバラに吹き飛ばされた手稿のごとく、行きつ戻りつ飛び跳ねる話をつなぎ合わせた結果、孤独死した老女の部屋で発見されたネコを保健所から引き取ったらしいことがわかる。幸か不幸かゴミ屋敷だったおかげで、エサとなるネズミには不自由せず、たくましく生きながらえていたらしい。
 発見された時にはさほど衰弱していなかったどころか、その巨体で踏み込んだ警官と大家を威嚇したという。ただ、お陰で人喰いネコの噂が立ってしまい、引き取り手がないところを哀れんで連れ帰ったそうだ。
 いったいどこまでが本当で、どのあたりから話を盛ったのか、この際そんなことはどうでも良かった。再びネコと暮らし始めたペットレスの女が、脳天気に「モンちゃんはだいぶ年寄りだけど、私のとこに来たらもぅ十年は生きるよ。ママはシフォンと二十年も暮らしてたんだよ。ね~モンちゃん」と、眼鏡の奥に淡い光を揺らめかせつつ、ヒトのことなど気にも留めないネコへ話しかける姿の切なさに比べれば、全ては瑣末なことのようにすら思える。
 とはいえ、俺にはもっと大事な話があった。
 困ったことに、ペットレスの女は遠回しな話を受けつけない。はっきりと、直截に言わなければ伝わらない。だが、サーバが音声を記録してるネット通話でストレートに表現するにはいささかばかりはばかられるような案件をペットレスの女に振りたい俺としては、できれば事務所まで来てもらいたかった。結局、ペットレスの女がトイレから戻ったタイミングで、率直に「仕事の話がある」と切り出した。
「あぁ、やっぱり。そんなことだろうと思ったわ」
「というわけで、事務所まで来て欲しいんだけど」
「う~ん…… 事務所はちょっとかなぁ~」
「じかに話したい案件だし、他人がいないところがいいんだけど、ダメかな?」
「ふへぇ! そういう仕事なの?」
 眼鏡越しにもはっきり分かるほど顔をしかめて、ペットレスの女は風呂場のニオイを嗅いだネコのように鼻を鳴らした。
「いや、やることは前と変わらないんだけど、ターゲットがさ……」
「それならなんとなくわかるんだけど、ふたりっきりってのは、ちょっとね」
「大丈夫じゃない感じする?」
「いやぁ~まぁ大丈夫だと思うけど、これって私の問題なのよネ」
「いまでも、初対面の男としかやらないの?」
「そうよ! あ、いや、シフォンが虹の向こうへ行っちゃってから出会い活動やってないけど、でも最初にやらなかったらやらない、関係はその時イッカイだけ。それはあの頃と同じ、いまでもそうよ」
「だよね、でも俺とはやらなかったし、わかってるからやらないし、大丈夫と思うよ」
「うん、わかる。あなた大丈夫な人だけど、でもダメなの。ふたりだけになると、きついの。私の問題だから」
 以前はもう少し物分りが良かったような気もしなくはなかったし、下の事務所で打ち合わせしたことだってなくはないのだが、こうなるとどうしようもないのはわかっていた。とにかく、ペットレスの女が引き受けなければ、他に頼むあてがないのだから、少々のことは妥協せざるを得まい。
 ただ、ありがたいことにペットレスの女はすっかりヒマらしく、明日の午後でも時間がとれるという。それに、聞かれたくない話もできる店のあてが、俺に全くないというわけではない。
 結局、俺とペットレスの女と両方に便利な繁華街の外れにある、過去にも数回使った喫茶店で落ち合うことにして、現在の状況や営業時間を確認する。ありがたいことに店はまだあったし、俺が大好きだったデラックスアップルパイもメニューに残っていた。
 店の名前とおおまかな場所を口頭でペットレスの女に伝え、できればメモは取らないように念を押す。どうせ、仕事が始まったらマメにやりとりするのだが……。
 と思っていたら、ペットレスの女は手の甲になにかメモしている。
「ここなら大丈夫でしょ。それに、書かなかったら忘れちゃうし、だからさ、明日もね、直前確認お願いしますよ」
 半ば呆れつつ「わかった、了解、大丈夫」と返し、まだ「この垢使ってたんだ」とかなんとか、話題を変えつつペットレスの女から近況をうかがう。幸い、メンタル最悪の時期でもネットにはぼちぼち接続してて、ソーシャルサービスも使っていたらしい。
 助かる、これは悪くない。
 ペットレスの女に期待してるのは技能だけじゃなく、出会い活動で培っていた経験と勘もコミだから、引きこもった時にネットからも足を洗っていたかどうかはかなり気になっていた。できれば出会い活動も続けていて欲しかったが、それはそれで別の問題を引き起こしていたような気もする。それに、なんだかんだ言っても関係した男たちのトレースを完全に振り切っているっぽいし、接触から離脱まで勘は鈍ってなさそうだった。
 夜もふけて、俺と同様に腹をすかせたネコが騒ぎ出すまで、ペットレスの女はだらだらしゃべり続ける。あてもない話に付き合いながら、ふと鼻の奥に微かな、ちょっと刺激的なニオイを感じた。
 八角とにんにく、唐辛子、使い回しのごま油か?
 大陸から来て、そのまま居ついた近所の中国人が飯でも作ってるのだろう。その、いかにも胡散臭い大陸の空気を感じつつ、なにかちょっと安心するようなかつてのネット世界を、インターネットがこんなことになってしまう前の、そんな素晴らしく心地のよい、異常な快感と、仕事が遊びと同義だった連中の背中を思い出す。
 結局、話を終えて遅い晩飯を食ったのは、日付が変わった後だった。

 ターミナル駅で地下鉄へ乗り換え、待ち合わせ場所の喫茶店がある街へ向かう。ペットレスの女とネットの灰色仕事していた時には、ほぼ毎週のようにこの街をぶらついていたのだが、いつしかその仕事ともこの街とも縁遠くなっていた。
 再開発後に林立した妙に小綺麗なガラス張りのビルと、やはり最近の店らしいおしゃれなオープンカフェが並ぶ通りを抜け、これまた全面改装したばかりの超大型書店と高級自然食品店の隙間に潜り込むと、アロエやカネノナルキの鉢植えが並ぶ日当たりの悪い路地に、お目当ての喫茶店が見えた。雨ざらしでニスの剥がれ落ちた扉を押し、暗い店内へ入ると、インド綿のサマーストールを羽織るサブカル戦士の生き残りめいたメガネ女が、身体を縮めてコーヒーをすすっていた。先に来ているとは思わなかったので、慎重に相手を確かめつつ「待った?」と声をかける。
 自動読み上げアプリめいた平板さで「いやいやいやいや、大丈夫でしょ。いま来たばかりなのよ~」と応えるペットレスの女は、あの頃からそのままそこに座り続けていたかのような、そんな雰囲気を醸していた。ストールの向こうから見える深い胸の谷間も、タップリ肉をまとった腰回りもなにひとつ変わらない。ただ、眼鏡の向こうからほとばしっていた攻撃的な瞳の輝きは、いささかばかり力を失っているような気がする。
 とりあえず席についてあたりを見回すと、客は俺とペットレスの女だけだ。平日午後とはいえ、ちょっと嬉しくなるような幸運を噛みしめる。店のおばちゃんにデラックスアップルパイのセットを頼みつつ、飲み物を決めようとメニューをみたら、アップルパイの味と香りを引き出す当店オリジナルのブレンドティーなるポップがはさんである。
 以前はコーヒー専門店で、おまけのようにココアがある程度だったが、いろいろ変わってゆくのだろう。ただ、コピーの下に『イングリッシュブレックファーストを基本にコクを残しつつも渋みを和らげ、やや軽めにチューニングしました。控えめながら印象的な香りは、トーストや焼き菓子まで幅広くマッチします。もちろんミルクもあいますが、クリーム添えのプレートにはストレートでどうぞ』と、やけに具体的な解説が記してあり、自信のほどを表していた。
 もちろん、セットの指定はオリジナルブレンドのストレートティーに決まり。
 程なくしてホイップクリームにバニラアイス、プレーンワッフルまで添えられた、まさにデラックスなアップルパイのプレートとステンレスの小ぶりなティーポット、おまけにちゃちな砂時計までトレーに満載したおばちゃんがあらわれ、不器用に並べるとポットにコージーをかぶせ砂時計をひっくり返した。まだ新しげな紅茶用の食器からは、店主の意気込みも伝わってくる。
「相変わらず甘いモノ好きねぇ」
 その巨体からは想像もつかないほど小食で、おまけに甘いものが苦手なペットレスの女は、ちょっと呆れたような声を上げる。無言で微笑みだけを返し、砂時計を見つめながら「久し振りだね」とつぶやく。
「まだ、あの仕事やってるの?」
「開店休業ってとこだな。あれこれ細かいことやりながら食いつないでる」
「でも、お金には不自由してなさそうね」
「うん、おかげさんで……」
 俺の近況を雑に説明していると、最後の砂が落ちた。コージーを外しながら「先に、食べていい?」とペットレスの女に告げ、曖昧な承諾を確認することもなく、温もりの残るカップへ茶を注ぐ。
 ふわりと立ち上る香りはたしかに癖などなく、むしろアノニマスなとらえどころのなさすらまとっていた。ひと口すすると、説明に書かれていたことは全て真実で、なんら誇張されていないことが舌と唇と喉へ伝わる。フルーティーな華やかさや酸味、甘みは影も形もない代わりに、嫌な雑味はもちろん、押し付けがましい渋みも感じられない。それでいてしっかりとした紅茶の味わいがあり、喉を通る穏やかなコクはとても心地よい。
 ブレンドのベースみたいなブレンド、ほとんどすべての要素が中庸に収まっている、なんとも不思議な味わいだが、たしかにこれならトーストにも焼き菓子にも合うだろう。感心しながらアップルパイに手を付けると、嬉しい事に記憶の味そのままだ。今度はワッフルにクリームを添え、そっと口へ運ぶ。サクッとした食感の生地もクリームも甘みは抑えめで、アップパイの引き立て役に徹している。
 紅茶をひと口すすって、またアップルパイへ戻った。全てにおいて中庸な茶の風味は、黒衣の大道具めいた手際良さで舌の上に残ったものを片付け、主役の登場を準備する。ここのアップルパイはアイスクリームを添えるパイ・ラ・モードではあるが、古風なアメリカンスタイルの重さを再現することなく、生地よりもフィリングに重点が置かれているため、割とモダンな味わいになっている。デラックスセットにワッフルとクリームを添えるのは、あっさり仕上げの生地を補う意味合いもあるのだろうけど、甘みを満喫したい時にはまさしくうってつけのデザートとなっていた。
 とりあえずアイスクリームを全部と、パイを半分ぐらい片付けたところで、ようやく仕事の話に入る。漠然とではあるが、ペットレスの女は俺の異性、同性関係を知らないわけでもないので話が早い。
「いつもの女がさ、ネットで若いの引っ掛けたんだな」
「別にいいんじゃ?」
「高二じゃなければね。もちろん、女は逢うつもり」
「あぁ~それは、まずいね。すごく、まずい」
「だよね。ちゅうわけでさ、ちょっくらバーストリンクしてほしい」
「ネトリは?」
「なし。追跡と監視だけ」
 ペットレスの女は露骨に顔をしかめ、小さくめんどくさそうに「それ、いつまで?」とつぶやいた。
「そりゃ、早いほうが……」
「ちっがうのぉよぉ~いつまで続けるのってこと。ネトリは逃げればエンドだけど、追跡と監視だけじゃエンドレスではありますまいか?」
「あぁ~そいつが卒業するまで、だけど」
「うへぇ!それ、人間のやるこっちゃないしょ。だいたい、なんのためにヲチするのでありますか。その高二クン」
 別に女がどこで誰と寝ようが知ったこっちゃないし、それはあの女に対してだけではない、ただ高二だと条例に引っかかるから面倒くさいと前置きした上で、つまり【高二がセクシー熟女とやったら自慢するに決まってるけど、表立って阻止するわけにもいかないから、せめて監視ぐらいしときたい。また、もしもプレイ画像や動画をアップした場合は、警察の手が回る前に削除工作したい】ということを、手短に説明した。
「じゃ、ボットでいいよね」
 ペットレスの女は眼鏡越しに俺の目を見ながら、ほとんど唇を動かさず続ける。
「特定するしボットも選ぶし、設置もして差し上げますよ。通知ワードの選定もやりますからね。ただ、指定したボットはそちらで買ってほしいです」
「全部了解。報酬は前と同じぐらいでいい?」
「いや、見積もり送るですよ。できればその時にバンスくれると嬉しい」
「着手金だったら、すぐでもいいよ」
「う~ん、いまじゃなくても大丈夫。でも、ありがとう。モンちゃん年寄りだから、病院代かかるのよ」
「仕事は?」
「探し中。でも、モンちゃんのお世話しなきゃならないでしょ?」
 俺は無言でうなずくと、問題の高二くんにまつわる手がかりを記録したメディアを渡して、暗号の解除方法と消去手順、そして物理破壊時の注意事項を伝えた。その他の細々した伝達事項も含め、ペットレスの女は黙々と腕にメモを書き記している。
 要件が一段落したところでポットの紅茶をカップへ注ぎ、アップルパイの残りを片づけにかかった。気が付くと、メモを書き終えたペットレスの女は帰り支度を始めている。急いで伝票を確保し、ここは俺がとアイコンタクト。ペットレスの女が「ごちそうさま、ありがとう。見積はいつものとこ送るから」と席を立ちかかったところへ、俺はずっと気になっていたことを口に出した。。
「モンちゃんって、やっぱモンブランなの?」
「なんで?」
「前の子がシフォンだったから」
「違うよ。モンテスマ」
「なんで?」
「人喰いだもん」
 ペットレスの女は、軽く微笑み返した。

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