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ジャンクなアートは身も心もむしばむけど、ジャンクな味わいは心の栄養

 赤と緑と金と銀のオーナメントがきらめくツリーの下では、にこやかに笑みを振りまくサンタとトナカイを乗せた模型の列車がのんびり走る。展示台の片隅には折り畳み傘より小さな三脚に据え付けられた、これまた小さなカメラと、撮影画像を表示するやたら大きなモニタが、きゅうくつそうに押し込められていた。年末商戦の目玉は各社とも動画機能を売りにした小型カメラだったから、売り場でもいちばんいいところでにぎにぎしく展示されていたのだが、カウンターの奥に「写真機商」の証書を掲げているような写真カメラ専門店の中では、いささかいごこち悪そうに見えたのも、たぶん気のせいではなかったろう。
 自分は動画も好きだし、実際に展示機もためしてみたが、基本的にソーシャル動画撮影を想定した製品で、リモコン操作をアピールしている。魅力は感じつつも、どこか「歓迎されていない」雰囲気を嗅ぎ取ってしまってもいた。そもそも短時間のソーシャル動画からして、ほとんどがジャンクだしなぁとか、なんとも危うげな思考のうごめきを脳細胞のどこかに察知したところでそっとリモコンを戻し、展示スペースから立ち去ろうと顔を上げたところに、ほろほろと通知音がひとたびだけ鳴って、やんだ。

『お店ついた。どこ?』

 名前未設定アイコンのメッセに『カメラ売り場。新品の』と返す。

『りょ。そっち行く』

 なにかかわいいスタンプでも返そうかと思ったが、よさげなのを探してる間にタイミングを逸していた。まぁ、久しぶりの彼女におっさん丸出しもどうかと思ったし、そもそもスマホにはまともなスタンプがほとんどなかった。
 さて、どの方向から来るかな?
 画面から顔を上げてよく考えたら、このフロアは入口がひとつしかない。それよりはどのくらい待つか……か?
 問題はそこだよなと、ふたたび手元へ目線を落としたところで、背後から聞き覚えある声が背中をくすぐる。
「お久しぶり」
 すらっと細く、しなやかな身体を明るめの青灰がかったウールのカジュアルなステンカラーコートに包み、無造作に引っ掛けたキャンバスバッグ、そして裾からちらりとのぞくタイトなジーンズと厚底スニーカーまで、あいかわらずセンスのよい彼女が笑いかけている。
「あいかわらずというか、ほんとにカメラ好きね」
「まぁね。でも、最近はちょっとね……なんか、まぁ……」
「あら? なんで? って、きいてもよかった?」
 彼女の声にも表情にも好奇心と気配りがまざる。それは、俺にもはっきりと伝わる。
 せっかくあったばかりなのに、また俺はつまんないことを口にしたもんだとか、それにしても最近のカメラってのはなぁとか、そもそもカメヲタってのは存在がゴミだよとか、そのゴミが動画配信サイトでジャンクな情報をまきちらしててだなぁとか、ストリートでオサレなカメラがどうこうとかほんとにクソだよ……。
 そんなジャンクとしか言いようのない思いは、うかんだはしから脳のかたすみへ押し込み、すごく久しぶりにあった彼女が素直に好奇心を投げかけ、それでいて俺のめんどくさいところに気を使わせてしまったのに、さてどう答えたらいいものやらと、鬱屈したとりとめのない感情からとげとげしさを削りつつ、ゆっくりと言葉にする。
「うんうん、だいじょうぶ。なんていうかね。新しいカメラが合わないとか、カメラもって街に出るってのがオサレとか、なんかチャラくて乗れないのもそうなんだけど、それとは反対に写真を撮るってのが作品制作というか、とにかくクリエイティビティですってのがオサレなのもしんどくて、おまけに有名タレントとかちょっと名が売れた人とか、みんな写真家でございますみたいなのもあってね……ほら、この店でも上のギャラリーでマルチメディアクリエイター様の写真展とかやってるんよ」
 ひっそりと設置された告知看板へ目線をおくる。あごをしゃくらなかっただけ、俺としてはよく抑えたほうだと思うが、それにしてもあまり品の良い話ではない。
「あぁ、この人ね。娘の学校で特別講師やってた」
「え、ほんま?」
「うん、そうなの。デジタルトランスフォーメーション教育の一環で、リモート講座だったんだけど」
「うへぇ」
 こんどは下品なうめき声を抑えられなかったし、最初から抑えるつもりもなかった。そんな俺のしかめつらに、彼女はちょっと呆れたようなまなざしを投げかけ「あいかわらずね。でも、ちょっと安心したかな。なにか、さっきは妙に思い詰めたような雰囲気でさ」と、気遣いともなんともつかないせりふを、自分に言い聞かせるかのようにかぶせる。
「もしかして、ちょっと心配した?」
「まぁね、なにしろ久しぶりだったし、きょうは私の方から誘ったんだし、もしかして、ほんとは会いたくなかったのかな? なんて思っちゃったり」
「あはは、だいじょうぶ。そんなことないよ。安心してね。ただ、なんというか、ガラクタのような、いやジャンクとしか言いようのない考えがさ、冷蔵庫とか空調のモータ振動みたいにずっと頭ん中でうなってるんだけど、なんか最近はそれがひどくてね」
「だいじょうぶ?」
 彼女の表情があからさまに曇る。まぁ、軽く流すようなネタじゃないのは、間違いないところだ。
「うん、だいじょうぶ。若いころはわかんなくて悩んだりしたんだけど、真心ブラザーズの曲でもそんな歌があってさ、それをきいてからまぁ、ニンゲンそういうもんなのかなって?」
「いや、そうでもないと思うけど、あなたがそれで納得してるんだったら、これ以上はやめとくね」
 俺にとっては様々な人々へ繰り返してきた話で、そして聞かされた人々の反応にもなれていたから、落ち着いていつものように応える。ただ、彼女の反応はこれまでの中でもっとも穏やかで、声にはいつくしみさえ感じたから、俺も真面目に、ていねいに言葉をさしだす。
「ありがとう。たぶん、これは死ぬまで変わらないと思うんだけど、自分なりの付き合い方はできてるし、ほら、いままでだってだいじょうぶだったでしょ? たださ、最近は俺のそういう雑音を増幅する、ジャンクな情報に接する機会が増えてて、その点では危機感を抱いているんだよ」
 ふたたび彼女の顔が曇る。
「やっぱ、ネットやソーシャルから、少し離れたほうがいいと思うのよね」
 うんうん、そうだよねとうなずきながら、どうせ聞き流すのだろうと言いたげな彼女のまなざしを受け流し、それでも『言わなければよかった』と思わないような答えを、言葉を、口調を組み立てようと足掻く。
「まぁ、ネットというか、特にソーシャルはねぇ……なにせ不意打ちで刺激されるのもおおいからさ、ストレスだよな。たしかに。でもね、これが自分じゃ面白いんだけど、こっちからわざわざ見に行く、それもリアルだと、なぜかそこまでストレスじゃないんだよ。だから、まぁ、そういう機会をわざと作ったりもする」
「ぶぶぶ、免疫力を高めるみたいな感じ? でも、その発想がジャンクじゃないの?」
 彼女が面白そうに笑う。たぶん、作ってないな、この顔は。むしろ、顔を作らなければいならないのは俺の方だ。つまらない敵愾心、攻撃性を封じ込めるのはもちろん、そんな自分自身に倦み疲れているのも、そして、そんな自分をさらけ出さないように周りをうかがっているのもまとめて、仮面の下へ押し込んでしまおう。おそらく、彼女はまるごとお見通しだろうが、それでも『顔を作ろうとしている心情』は偽りじゃない。
 そんな、やはりジャンクとしかいいようのない考えを巡らせつつ、俺はその場で思いついたように、用意した言葉を仮面に貼り付ける。
「うんうん、そうなんだけどね。なんか、そういう感じがするんだよ。でまぁ、展示してるマルチメディアクリエイターも、そういったジャンク発生源のひとつだったりするんよね」
 意味ありげにうなずく彼女の表情には、ふたたび好奇心と気配りと、そしてかすかに面白がるような笑顔がまざる。
 顔を作りすぎておかしな表情になったかな?
 ふと思わなくもなかったが、それもジャンク箱へ押し込んで、話し始めた彼女の言葉を聞く。
「あぁ、ジャンク発生源ね。なんとなく、わかる。あのクリエーター、デジタルトランスフォーメーション教育で高校生向けに講演したんだけど、娘が『わけわかんなかった』ってぼやいてたから、いちおう私も録画をチェックしたのよ」
「そしたら?」
 だいじょうぶ、この話は顔を作らなくても興味深い。
「高校生向けにしても軽くて、中身がなくて、ちょっとびっくりした」
 あんまりストレートな物言いに「え、そこまで?」なんて、なんのひねりもないツッコミを入れてしまう。
「それ以上かもね。若くて有名な人なんだろうけど、税金つかって教育の一環として学校で配信したのがあれかって思うと、なんとも微妙な気持ちになったのは否定しない」
 もしかして、その授業かなにかで許しがたい出来事でもあったのかと、そんな勘ぐりまで脳裏をかすめるほど、彼女の言葉は激しく、嫌悪感すら含んでいた。
「そこまでやったんかい。でも、それなら作品を観る気持ちになれない?」
「あら、まだ行ってなかったの?」
「うん、先に観ておこうと思ったんだけど、出かけるのに手間取ってね」
「そなんだ。なんとなく、表情や話の展開から、もう観てそうな感じしたのね。じゃ、とりあえずギャラリーで免疫力を高めましょうか?」
 否定的な先入観を抱えて展示会場へ向かうのは、やはりちょっとどうかと思わなくもなかったが、自分も彼女も作家名の段階で悪印象があるんだし、そこは割り切るしかなかった。

 店舗併設の展示会場は、こぢんまりしながらも落ち着いた暗色の壁面や計算された明るさの間接照明で、鑑賞者が作品と丁寧に向き合えるよう配慮された、予想以上に本格的な空間だった。
 空間の広さにあわせたのか、作品はどれも小ぶりで、近寄って鑑賞できるように設置されていた。自分を彼女が入ったとき、会場には誰もおらず、ある程度まで時間をかけて作品と向き合えたのは、まぁ良かったのかもしれない。少なくとも、マルチメディアクリエイター氏の実力というか、作品の水準が世の中へ出るだけの高さに到達しているのは、間違いなかった。
 だから、自分はどこかで安心したようなところがなくはなかった。展示全体や作品の方向性はともかく、少なくとも技巧とか展示全体や作品自体の構成、展示のまとめ方、現代美術としての方向づけは完全に第一級で、いわゆるアウトサイダー・アーティストが作家のキャラクター性や話題性、出自、もっと言えば親の七光りで脚光を浴びるような、そういう胡散臭さがなかったのには、なにかホッとしたような、この世界はまだきちんとしていると再確認できたような、そういう感情を覚えていた。
 ただ、展示全体の主張や作品に描かれている内容はまた別で、とりあえず自分は顔をしかめないようにするのが精一杯だったし、どうやらそれは彼女も同じようだった。
 結局、自分と彼女は終始無言のまま、最後は逃げ去るように会場を後にした。
 そのまま店を出て、なんとはなしに駅へ歩き始める。しかし、雑踏の中で不意に彼女の口からあふれ出たのは、俺をたじろがせるほど激しく、嫌悪感に満ちた言葉だった。
「ねぇ、ちょっといい?」
「あ、うん、いいよ」
「会場では黙ってたけど、やっぱ我慢できない」
 俺は彼女の背に手を当て、雑居ビルの入り口近くへ誘う。そして、彼女の目を正面から見ながら『どうぞ』と言わんばかりに口元だけで笑顔を作る。
「ありがとう。あなたの部屋まで我慢しようかと思ってたんだけど、この気持をそこまで持っていく自信がなくて。それに、楽しくない話だし……。でね、確かにジャンクだし、すごく、すごく陳腐だと思ったの。作品も展示も、なにもかも。そして、写真を観てあんなにやりきれなくなったの、生まれて初めてだった。私、あなたのようにジャンクを直視できない」
 ぽつりぽつりと、言葉を選ぶように話し始めた彼女をみながら、自分も『陳腐で薄っぺらい作品』と思っていたので、妙に力強くうなずいてしまっていた。
「女性ヌードなんだけど、モデルさんはスキニーで色白で、すごく丁寧に性的な要素を消し去っていて、大人の女性なのに未成熟な雰囲気さえあって、しかもほとんどの作品は顔も隠しててね。でも、フレームとかすごく凝ってて、お金もかかってる感じで、標本というか、もっとはっきり言えば瓶入り少女みたいな、そういうえげつなさがあったの」
「写真のプリントもすごく凝っていたしね」
「あ、やっぱそうなんだ。なんかね、女性の生っぽさ、性的な要素を消し去ってこそ美しさとか、芸術なんですよとか、そんな感じがしちゃったのよね」
「あぁ、それは俺も感じた。それに、アートの世界では、そういう流れあると思うし、それに乗っかった作品と思った。陳腐で薄っぺらいってのは、すごく的確だと思う。なんていうか、いきがってるようで時流にこびてて、安全地帯でファイティングポーズって感じはあるね」
 心底うんざりした顔で彼女はうなずく。
「あれなら、まだ直球エロのほうがマシというか、私には受け入れられる。結局、セックスして子供を作る、繁殖するって、ニンゲンのそういうところを消し去って、表面的な美しさのみをコレクションしたような、そんな印象なの。私、頑張って自然妊娠したし、そもそもセックスが好きだから、そういうのはすごく嫌な感じだった」
 彼女の言葉を受け止めた瞬間、俺はちょっと自分の発想を口にしたいと、ジャンクな欲求が芽生えた。しかし、それを意識して摘み取ろうと思ったときには、すでに口からガラクタとしか言いようのない言葉が、俺の考えた浅はかな例え話で胸糞悪いマルチメディアクリエイターをくさしたいなんて、下卑た心情が隠しようもないほどはっきりと流れ出ていた。
「それで言うと、老人のヌードだったら良かったんだろうね」
 ジャンクそのもののアイディアを、それも鼻の穴を膨らませながら話す俺なのに、彼女は予想をはるかにうわまわる勢いで、ほとんど食い気味に乗っかってくる。
「そうそう、それはあるの。写真のモデルさんはみんなスキニーで、いかにも未成熟な感じにしてたけど、ほんとうは成熟した大人の女性じゃない? 女性は自らを性的にみせるべきではない、みせないのが美しいのだって、そういう規範を強く感じたの。あなたが言うように、もしモデルさんたちがおばあちゃんだったら、あんな作品でもそういう規範性は感じなかったと思う。そもそも、女が年をとるってのは、そういうことだし」
 自分で話しておきながら、予想に反して彼女が乗ってくると恥ずかしいというか、なにか早く切り上げたいような、そんな手前勝手な心情まで湧き上がる。ただ、彼女が言う規範性というのは、自分にとっても新しい切り口で、素直に感心させられた。そんな考えをもてあそびながら、ゆっくりうなずいている間も、彼女はさらに話を続けている。
「でも、写真のモデルさんは違う。彼女たちもこれから出産を経験するかもしれないし、もしかしたら子供がいるかもしれない。そういう年頃の女性たちから、性的な要素を削り落とすのって、やっぱ私には受け入れられないのよね」
 グランドピアノの重い鍵盤に指を叩きつけるような熱気と強さで、ちょっと早口に語る彼女からは、ひごろから冷静で、調子に乗る俺にしばしば冷や水を浴びせているなんて、想像もつかない。ほんとうなら、ここで熱くなりすぎた場の空気をちょっとばかり冷まして、うまく別の話へ転換できたらいいのだろうけど、俺にはそんな話術の持ち合わせはなくて、ただ、思いついたなにかを、それがゴミだろうが燃料だろうが、口から垂れ流すばかりだった。
「性的であるなというのは、規範性と同時に成熟を拒否するってメッセージでもあるし、いずれにしても人間そのものを否定するような、そういうねじくれたなにかを感じるんだよな。たださ、ソーシャルとかわかりやすいけど、性的な要素はリスクでしかなかったりする。そういう時代に適応というか、迎合した作品でもあるんだろうね」
 ありがたいことに、わざとらしいほど大きなため息を苦笑交じりにふぅっとついた彼女は、もう飽きたと言わんばかりに話を締める。
「結局、イキがるポーズも含めて、世の中が求める『若い作家のイメージ』に、世間に迎合してるのよ。娘が聴かされた講演でも、デジタルネイティブ世代のイノベーションだのなんだの言う口で『権利には義務や責任がともなう』とか言ってて、ねじくれたというか、なんかひごろから有力者あいてに耳障りが良いことばかり言ってるんじゃないかとか、そんな印象があったのよね。やれやれ、いいたい放題いわせてもらったら、ちょっと気が晴れた。もしかしたら、これが免疫力を高めるってのかも。ねぇ、なにか思いっきりジャンクななにかを食べたい気分なんだけど、この辺で心当たりある? それとも?」
 彼女は芝居がかった口調と思わせぶりな上目遣いで、ちょっと甘えた仕草を見せる。それは、展示会場から抱えていたうっ屈をすっかり吹き飛ばし、気持ちを切り替えているというアピールだった。
「ジャンクね」
 おれも彼女の目を見て微笑む。
「ジャンクといえば、家に行く途中のターミナルに現地系中華のフードコートがあるんだけど……」
「だけど?」
「こないだテレビに出て、すごく混んでるとおもう」
 彼女は切れ長の目を猫のようにゆっくりと細め、満足そうに微笑む。
「わかった、じゃあなたの部屋へいきましょう。なにかあるでしょ?」
「うん、食材はあるし、途中で買い足せば、すごくジャンクななにかはできる。でも、だいじょうぶ?」
「だいじょうぶよ。夫と犬は娘が面倒見てくれるから」
 彼女はさっと俺の手を握り、足取り軽く歩き始めた。

 駅近くのミニスーパーで、安くて小さいカップキムチにエノキダケ、韓国ラーメンを買うと、すっかり暗くなった再開発地区を歩く。更地が点在する路地の名残は街灯も少なくなって、冬の宵闇がまだらに広がっている。彼女も見知った風景のはずだが、会わない間にいくつかの建物が取り壊され、日が暮れると女性のひとり歩きが危ぶまれるような雰囲気さえ感じさせる、そんなさみしい場所に変わっていた。
「すっかりさみしくなっちゃったね。再開発はすすんでるの?」
「ぼちぼちみたい。再開発地区って存在そのものがジャンクというか、いやジャンクな街だから更地にして開発し直すんだな。だから、住み続けている俺も俺の家も、ジャンクってことだね」
 彼女は笑わない。それは、俺の自虐ともなんともつかないジャンクな戯言がおもしろくなかったのではないだろう。ただ、ちょっと戸惑ったような、あるいは怯えたような、そんなまなざしを宙に浮かせるばかりだった。

 やたらと重たい鉄の扉を開け、ふたりは冷え切った部屋に入る。
「うわぁ、久しぶり」
 エアコンやらガスヒーターやら、暖房の次々とスイッチを入れながら、俺は「しばらく来なかったからね。いろいろ変わってるでしょ?」なんて、雑な合いの手を入れる。
「そうね、みなれないものがいくつもある。もしかして、座卓の場所も変えた? でも、変わってないよ。私にとっては同じなの。このニオイも、雰囲気も、大事なところはなにも変わってない」
 そう言いながら、彼女はなれた様子でコートをハンガーに掛け、部屋の隅に座り込む。以前とほぼ同じ、彼女の定位置に。
「先にお茶かコーヒーでも淹れようか?」
「ううん、できれば早く食べたいんだけど、すごくジャンクななにか、お願いできるかしら?」
 以前と変わらぬ彼女の声に、俺は「ようわかった。じゃ、すぐに作り始めるね」と応えながら、自分もコートをハンガーに掛け、部屋着に着替えると台所へ戻る。
 買ってきたキムチやエノキダケ、韓国ラーメンに、冷蔵庫の中途半端な豚バラの残りや卵、いびつなしいたけ、へたりかかった白菜、そしてランチョンミートの缶詰をテーブルにならべると、エプロンをして食材に向き合う。白菜にエノキダケ、しいたけを雑に刻むと、ランチョンミートと豚バラも食べやすい大きさに切る。テフロンのすき焼き鍋にごま油を敷いて、すりこ木で潰したにんにくを軽く炒めたら、ランチョンミートに豚バラを焼く。
「うわぁ、すごくいいにおいがしてきたよ」
 彼女の期待に満ちたはしゃぎ声に「ニオイはいいけど、ほんとにジャンクな料理だよ」と返す。鍋に水を張り、強火で温め始めたところに、彼女が台所までやってきた。
「へへ、来ちゃった」
「ちょうどいいや、これからがさらにジャンクなんだよ」
 そう言うと、鍋に韓国ラーメンの粉末スープとかやくを入れ、さっとまぜる。そして、刻んだ白菜やしいたけ、エノキダケに、カップのキムチを入れると、火を弱めて鍋に蓋をする。
「たしかにジャンクだわ」
 切れ長の目を見開いて驚く彼女に、俺は「麺は締めに入れるけど、本場じゃ最初から入れるもんらしいよ」と、袋に残ってた麺をばりっと割った。
「それにしても、予想以上にジャンクね。しかも味のベースが塩気と脂ととうがらし」
「塩分だの脂肪だの気にしてたらジャンクじゃないよ」
「それはそうね」
 彼女が微妙に引き気味なのを感じながら、俺は自信たっぷりに取り分け用の小鉢やおたまを用意する。そして、鍋に卵を割り入れると、蓋をして火を止めた。
「韓国だとチーズを入れるんだけど、俺は卵にするんよ。どちらも味をまろやかにするんだけど、チーズは味がでしゃばりすぎるからね」
「ジャンクな料理でも、そういうバランスは気にするんだ」
 面白そうな彼女に「ジャンクなだけで美味しくなかったらつまんないでしょ?」と返しつつ、テーブルの敷き板に鍋をすえて蓋を開けた。

「ふわぁっ!」

 期待した通りの歓声が心地よい。
 ほどよいかげんの半熟卵が深紅色の汁に白く浮かび、さらに部屋の灯りがつややかな輝きを添える。周囲を固める灰色がかった豚バラや薄桃色のランチョンミートも、しっかり火が通った風情で実に食欲をそそった。
「卵、つぶしていい?」
 先ほどとは打って変わってはしゃぎ気味の彼女に、俺は「もちろん、どうぞ」と小鉢に箸を重ねて渡す。彼女はなにかちょっといやらしげに口元をゆがめ、半熟卵をつつくと、素早くキムチに豚バラを取り箸でつかみ、流れ出た黄身にひたし、からめる。
「むふふふふ」
 うっとりと目を細め、意味ありげに無意味な笑いを浮かべる彼女は、口元についた黄身のシミにも気が付かない。
「お気に召したようでなにより」
 そう言って、俺もランチョンミートとキムチをつまんで黄身にひたした。煮込まれて塩気がぬけ、ふんわりと締まりのないランチョンミートが、キムチの刺激で引き締まる感じが心地よい。
「やっぱ卵がいいな、俺は」
 口の周りについた黄身をぬぐいながら、ほとんど独り言のようにつぶやいたところへ、彼女が「でも、チーズのほうがよりジャンクと思う」なんて、合いの手を入れる。
「うん、うん、だね。じゃ、次はチーズで」
 半分も食べてないのに次の話は気が早すぎるかとも思ったが、彼女は彼女で「どう考えても体に悪そうな味なのに、また食べたくなってる。そこも含めてジャンクだわ」なんて話をふくらませてくれるから、ほんとに安心できるし、甘えてもしまう。
 そして、ふたりできそうようにすくい上げ、たちまち卵は姿を消した。鍋の中央には、血の池めいた汁が、まぬけな犠牲者を待ち構える底なし沼のようにひろがる。
「ここからもうひと声ジャンクにするよ」
 テレビショッピングの芸人のように大げさな掛け声にわざとらしすぎる笑顔までのせ、袋麺を取り出し、赤い底なし沼に沈める。
「なるほど、卵なら麺は後入れにしないとね」
 なにかわかったような彼女に、俺も「でしょ?」と意味ありげなまなざしを返す。
「だって、最初に麺を入れたら、卵がもっていかれちゃうじゃない?」
「そうそう、そのとおり。かといって、鍋の端に寄せるのもね」
「ためしたの?」
「まぁ、ためしたというか、水を少なくして麺を焼きそばというか、油そばにする食べ方もあるんだ。それにも卵を入れるからね」
「うはぁ、それはそれでジャンクだね」
「美味しいよ」
 呆れたように笑いながら、彼女は「でも、食べてみたいな。だって、心が満たされそうじゃない?」なんて、無邪気とも能天気ともつかない言葉を俺に差し出した。
「そうかぁ?」
 俺はふたたび芸人のように大げさな表情を作るが、彼女は全く意に介さない。
 そうこうしていると麺が煮え、ふたりそれぞれ豚バラのかけらやクタクタの白菜やらとともに、韓国ラーメンをすすりはじめる。
「これは満たされるね」
 さっきの呆れ顔などなかったようにご満悦の彼女へ、おれはつい「でもさ、腹持ちは悪いんだよ」なんて、無粋極まりない言葉を返してしまう。
「ちっがうのよぉ、満たされるのは心よ、こころ」
 最近はコントでも見なくなったような中年女性のカリカチュアを演じながら、彼女はずるずる派手な音を立て、さらに麺をすする。そして、小鉢の汁を飲み干し、正面から俺の目を見て「ありがとう、嫌な気持ちをふきとばす味ね」と、赤い汁でべたつく唇をつややかにきらめかせた。
 俺は「どういたしまして」なんて会釈し、鍋に残った野菜のかけらをすみによせる。
 しかし、けして愉快な展示ではなかったが、そこまで彼女を追い込んでしまうとは思っていなかった。なにか、自分が彼女を傷つけてしまったような感覚にさえ襲われたが、事前に予見できるはずもなし、これは諦めるしかない、忘れようと、自分に言い聞かせながら、俺は鍋の残りを小鉢へ移している。麺が汁を吸ったせいか、鍋の中はほとんど炒め煮のようになっていた。
 ふと、箸先がぶつかる。
「もう、直箸でいいでしょ?」
 彼女もまた、鍋の残りを自分の小鉢へ移していた。
「うんうん、もう食べちゃうからね」
 そう言いながら、自分は小鉢の残り物を口に運ぶ。
 しおれかかっていた白菜も、ヘタっていたシイタケも、微妙に色が変わりかかっていた豚バラも、安物のランチョンミートも、どれもこれもインスタントラーメンの粉末スープと調味液加工のキムチで味付けされ、それをそれぞれが持つ出汁のうまみで飾り立て、地域の祭事に精一杯のおしゃれをしつつ、楽しげにはしゃぐ人々の片隅でひっそりと笑みを浮かべる貧しき老女めいた味わいを舌に残し、胃の中へ収まっていった。
 やがて、安っぽく飾られた祭りの灯りもひとつひとつ消えるかのように、鍋の肉や野菜はふたりの口へ消え、最後には干上がった沼地のごとき鍋底が、ゆっくりと熱を失っていくばかりだった。
「お茶かなにか淹れようか?」
 いつものように、食後のお茶でもと声をかけたら、思いがけない答えが帰ってくる。
「どうせなら、ジャンクななにかを飲みたいな」
「駅前でもらったエナジードリンクならある」
「最高だね」
 親指を立てて芝居がかった笑みを浮かべる彼女に、学生時代の悪友が重なる。くだらないなにかに夢中になって、くだらない時間を過ごした、ジャンクな年月が頭をよぎる。
 とはいえ、ここで感傷にひたっても彼女には伝わらないし、もし伝えたら青春のひとコマなんて、それこそジャンクな概念に回収されてしまうのはわかりきっている。だから、俺はすっかりゆるくなっている涙腺をぐっと引き締め、エナジードリンクをテーブルに並べた。
「あら、ふたり分あるのね」
「キャンペーンで、毎日くばってたんだよ」
 しなくてもいい説明をしながら、俺と彼女は缶を開け、かたちばかりの乾杯をする。
「ぷは! 変な香料と人工甘味料が舌に残る。やっぱジャンクだわ、この味。でも、そこがいいのね」
 グルメ漫画のような実況をしつつ、どう考えても苦い笑みを浮かべる彼女に、俺は「口直しに濃いめのアッサムでも淹れようか? チャイ仕立てにしてもいいよ」と、いまさらのような話をしてしまう。しかし、彼女はゆっくりと首を振り「ううん、いいの。いまはこの味が必要なの」と、意味の取りづらい答えを返した。
「それより、アートであんなに傷つけられると思ってなかった」
 そして、俺の目を正面から見据え、ゆっくりまばたきしながら、彼女はつぶやく。
「ジャンクな作品は心をむしばむ」
 オウム返しのように彼女の言葉を反すうする俺に、彼女は「でもね」と、笑いながら手を握ってくる。
「そう、私ね。アートは心を豊かにするものって、そう信じてたの。だから、あの作品から自分という存在を否定され、拒絶されたように感じたのは、本当にショックだったの。観るものを傷つけるアート。ジャンクなアートって、実在するんだなってね。でも、ジャンクな食べ物はところをときめかせてくれた。そして、あなたとのジャンクな関係も」
 そうして、彼女は俺の手を強く握りしめた。
「ありがとう」
 なぜか、ついそんな言葉が口に出る。
「いえいえ、こちらこそ。今夜は楽しみましょうね。せっかくのエナジードリンクだし、忘れさせてくださいな」
 そういう彼女の口元は、みだらに輝いていた。

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