日常は言葉によってきらめく
「文学フリマ」に行ってきた。
友人で詩人のnengyuanが出店するということで、モノレールに乗って流通センター駅まで訪れた。そもそも、ぶんがくふりま、なるものの存在が今まであることなんて全然知らなかったし、そもそもどんなイベントなのかもぼんやりとしかわからなかった。
でも、そう。本当に、、行って良かった。
文学フリマ。自費出版、同人誌、出版社、編集者、ジャンルも、詩やエッセイ、単価、フィクション、ノンフィクションなど、ありとあらゆるジャンルの言葉を一つの「本」にまとめた、文学のお祭りだった。
所狭しと並んだブースには、それはそれはもう個性と言葉が詰まっていて、自然と歩くスピードも遅くなる。本が主役なので、まずぱっと目につくのは何かの思いから湧き出たタイトルやキャッチコピーなどの言葉や本の想定。そこで何かがフックとなり、「ん?」と心がとらえられ、ブース全体に目が向く。その奥には、作者(と思われる人も、そうでない人も)がひっそりと佇む場合もあれば、堂々とアピールする場合もある。これもまた、ルールなんてない。1mごとに、その人ごとに、カラフルな空気が溢れていた。
それぞれの言葉と、それが物質化された「本」という存在。
普段、作者の頭の中に無数に散りばめられているだろう言葉が、本という冊子に落とし込まれて、一つの紙の上に踊る言葉として、世の中に産み落とされる。人の世界の捉えかた、心の中に占めるメッセージ、どうしても伝えたいこと。その人の何かしらの想いがあってこそ、そこに「本」がある。そんな当たり前のことに、なんだか「ジーン」として、狭い通路をフラフラと歩いていた。
同じ日常は、二度と起こることがない。嬉しさも悲しみも怒りも諦めも、あらゆる感情が渦巻く。そっと心の中に、しまって終わることばかりかもひれない。
けれど、そんな日常が言葉になりこの世の中に触れる形で現れた時。なんだかとても「美し」かった。
頭の中にある一瞬取るに足らないように思えるものが、なんだか急に宝石のように、きらめきを持って見えてきたのだ。本にしたい。そう思った瞬間に、まるで自分の命の一瞬のきらめきを閉じ込めるように。
慌てて抱きしめる時もあれば、じっくり何年もかけて熟成することもあるだろう。それでも、「それ」は素晴らしいことに変わりはないのだ。
ただ、
自分がそう思えたのであれば。
「いつか本を書きたいな」そう思った。
いろんな人の日常の味わい方を垣間見た。言葉は、きっとひとに与えられたギフト。日々を自分の感情の色のセロハンを被せたように彩り、味わっていく。わたしは同じように味わえているか?そんなことも問われた気がした。
もっとゆっくり、自分なりの味わい方ができる。もし生きることに急いでいるのだとしたら、だれかの言葉を手に取ってみる。味わい方に正解なんてない。早ければいいなんてことはない。
世界はあなたらしい言葉を、きっとゆっくり待ってくれるのだから。
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