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書くのが幸せなのか、書けないのは幸せなのか

むかしは、よく書いていた。そして、最近は「書かなく」なっていた。

複業、というくくりで書き始めてからはゆるやかに10年が経つ。会社員のかたわら、お金をいただいて書く、プロの"ライター"という立場で書いていたことが多かった。その一方で、自分の想いをそのまま言葉にぎゅっと詰め込む、感情の瞬間冷凍のようなエッセイを、誰にも見せず、よく書いていた。

なんで書けていたか。
それは、それだけ、出したくても出せない言葉が多かったからだと思う。

そもそも20代の頃、自分の本心と、表向きで作っていた顔はいつもどこか違っていた。もはや、この世の中で生きていくためには、ずれて当たり前だと思っていた。そんな行き場のない自分がたくさんあることが、面白いとも思っていた。だからこそ、自分にはA面もB面もはたまたC面もあって、どうせ理解されないのだから、別にそれらが統合されることに、別に関心もなかったのだった。

私にとって、誰も見ることのないのに綴り続けた言葉は、その時の感情の宝物をとっておくためのものでもあった。

そんな、ひっそり隠し持っていた、言葉たち。
ふと、誰もいない大阪の夜の街で、「あ、書きたい」と思って、久しぶりに、書くためのアプリを開いた(一定期間経つと消える設定にされていたから、当然のようにアプリは削除されてたけど)。
久しぶりに、心が揺れた瞬間だった。書かずにはいられない、と思った。
嘘のない感情がそのまま書き落とされた。


書かずにはいられないという瞬間が、自分にとって幸せなのかは、いまだにわからない。

「書かずにはいられない」ほどに、押さえこんでいるものがあるのか、出せないからこそのフラストレーションがあるのかもしれない。だから、実は最高にハッピー、とはちょっと違うのかも、とか。でも、言葉で綴る楽しさと、理由がないけど心が沸き立つ瞬間があるのは、それはそれで幸せなのかもしれない。幸せなのは、どっちなんだろう。でも、どっちでもいいや。

今は、理由もなく、また言葉を綴りたくなっている。
ライターとして、きちんと「伝わる」言葉を書き続けてきたからこそ、とことん、読み手に伝わらない言葉を書きたい。理解されなくていい。ただ書きたいから書く。自分が読み返して、うっとりできればそれでいい。

もっと自由に、もっと、不規則に、非連続に。アンバランスであることを楽しみ、心に響くものを。書きたいし、今年は、そんな過ごし方をしたい。そう思っている。

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