書くことはやめない。これからも。
書くことが、好きだ。
まとまった文章を最初に書き始めたのは、小学校1年生のころ。そのころ、「動物たちがみんなでパーティをする」という小説を書いて、あまりにもうまく書けた(らしい)ので、当時の担任の先生が製本してくれた。小学校初期はほとんど覚えていないが、唯一鮮明なうれしかった記憶だった。
そこから30年。私は、あらゆる文章を書いた。
フルタイムで会社員として働くかたわら、「ライター」としての別の顔を持った。ファッションやライフスタイルのキュレーションのメディアで、とにかく量で記事を書いた(今の執筆速度は間違いなくここで鍛えられた)。それがすべてのスタートだった。いつも原稿に追われていた。赤が入らなかった原稿の連絡がchatworkで届いたときは、いつも心の中でガッツポーズをした。
次に、自発的にホームページのインタビュー記事を書いた。これがきっかけとなり仕事化し、それぞれの媒体に合わせて書けるようになっていく。
ふるさと納税の地域産品を特集するメディア、最新のテクノロジーや知財を取り上げるメディア、企業の導入事例の取材。電車に揺られて、地域を超えて、取材記事もいくつも書いた。
あるときは、未知のテクノロジーに切れのよい質問を投げかけるインタビュアー。あるときは、地域のものづくりに思いを馳せるぬくもりのあるライター。あらゆる編集部が求める”書きぶり"に合わせながら、ライターである自分のキャラクターを自由自在に変形して「お金をいただいて書く」という経験を、ゆるやかに8年間ほど積んだ。
そして、そのあとは、WEBページの「記事」にとどまらなくなった。
SNSを運用する仕事を受けるようになったり、書く場所が増え、あらゆる媒体に合わせて書くというスキルも身に着けた。プレスリリースも書いた。Instagram、Facebook、Twitter、そしてnote。さらに、Ameblo、wordpress、LINE配信にいたるまで、ありとあらゆる「言葉」がもとめられる場所を一人で書き分けた。それぞれの読者層の顔を想像して、常に求められる形に、今度は言葉も変幻自在に変えながら、「伝える」ことに関わり続けた。
「伝える」そして「書く」ということは、もはや私の武器であり、生業だった。
あらゆるすべてを振り返ってみると、やっぱり「書く」ことは、好きなんだと思う。でも、「書きたい」理由は、今少しずつ変化してきている。
最初は、「仕事」にしたかった。社会の中で、この自分という存在の枠を強めるために、会社に頼らず生きていくために、「これができますよ」と主張するためのスキルだった。
徐々に、書き続けていると、それも意識しないようになった。自分の体の一部のように、自然と「書く」ということが武器になっていた。ありとあらゆる仕事の面で、「書く」という力に、助けられたことがありすぎるほど、あった。
”仕事"もすっかり達成して、違和感がないほどに自分の一部になじんだいま。「書く」ことを通じてしたくなったのは、自分の想いを届けるただのシンプルな「表現」のためだ。
誰に届こうと、届くまいと関係ない。ただ、自分が書きたいように、綴る。それでも、完全に誰からも見られない、というわけでもないのがいい。誰かひとりくらいでも、この文章を見つけてくれたら嬉しいという下心くらいはは、ある。でも、それが第一の目的じゃない。
一番大事なのは、「私が書きたいことを書く」ということだけ。
書くことは、生きた軌跡を残すこと。私にとって、今はそれだ。
情熱をもっていること、生生しい変化、こぼれ落ちた感情、あらゆるものをぎゅっと詰め込んでただ書きたい。ただ、自分のために、自分らしく生きる。そんな一つの、証明になればいい。読み返しもしない。整えもしない。
いつか、読んだ誰かが、また違う"言葉“を紡いでくれることだけを願って。
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