見出し画像

サブカル大蔵経204小松和彦『異人論』(せりか書房)

 小松和彦先生の著作には本当にお世話になりました。卒論で選んだテキストがインドの妖怪が出てくる物語だったのですが、テキストの内容や翻訳よりも、小松イズムをインド学に適用できないだろうかともう無理矢理引用しまくった…。というのも身勝手な記憶で、小松和彦の存在がなければ全く卒論の形にすらならなかったと思う。特にこの『異人論』は鮮烈だった。ある意味人生を狂わされた一冊かもしれない。

家の盛衰。うわさ。人殺し。久しぶり再読してみると、まさに、『つけびの村』そのものだ。今も昔も、都会も田舎も、うわさが人を殺す。

今読んでるトニ・モリスン著/荒このみ翻訳『「他者」の起源』(集英社新書)も、アメリカの「黒人」問題を「他者」というカテゴリーから考察している本だったが、『異人論』もはるか30年前に日本のフォークロアから「他者」を浮かびあがらせていた。私のための他者。ウチを守るための異人。

画像1

井上ひさしが東北の各県を転々とした際、沼の名の由来を聞く。「座頭や琵琶法師が誤って転落し溺死したからだよ」p.15

 嘘をつく田舎の隠蔽。今の私も何かを隠していないか?

座頭殺しの伝説は、殺されたという事実、もしくは殺されることがあったとしても不思議はないという村人の意識の中から成立し、そしてそれに支えられていたのである。つまりこうした伝説を信じている人々にとって、そこで語られている座頭殺しは歴史的事実なのだ。p.16

 なぜ殺したのか。その理由が悲劇となり語られる中で鎮められていく。

殺されたのは比丘尼である。水害から村を守るための人柱としての殺人である。この殺人は村人全員の合意のもとでなされただろう。p.19

 生贄を求める社会は今も変わらない。

民族社会は「異人殺し」という事実を外部の者に隠蔽する努力を試みることになる。語ることをタブーにしたり事実を変形させ外部向けの伝説を作り出すわけである。p.21

 外部向けと内部向けの伝説の二重構造。高度だなぁ…。

すなわち、村人たちが、「異人殺し」とその異人の「祟り」を発生させたのである。「異人殺し」を発生させることで、人々はその家の盛衰という「異常」、子孫に生じた肉体的・精神的「異常」をうまく説明することができ、自分たちの嫉妬の念を癒すことができたわけである。いや、それだけではない。その家は、罪のない「異人」を殺した邪悪な犯人の家であり、殺した「異人」に呪われ祟られている家なのだとすることで、その家を様々な形で忌避し排除し差別することさえ可能となるであろう。p.33

 自分たちを癒すための破壊。この辺りから学術的な正当化よりえげつなさが上回ってくる。

それにしても、民族社会における「異人殺し」のフォークロアの存在意義とは何なのであろうか。それは一言で言えば、民族社会内部の矛盾の辻褄合わせのために語り出されるものであって、「異人」に対する潜在的な民族社会の人々の恐怖心と排除の思想によって支えられているフォークロアである。p.86

 この異人を移民に置き換えて読めるか?

ミクロネシアの女化け物「ンギ・バラン」女陰が鉄の歯。ヴァギナ・デンタータ。p.99

 ヴァギナ・デンタータの話は種村季弘の本で読んでいたと思う。

山姥。忠告者である老婆が同時に人を喰う鬼婆であると言う話。p.107

 忠告者イコール殺人者。バランスと破壊。私の中にもその2人がいる。

山姥とは何か。安全地帯と、母の消失、母性を描いた母のイメージである。二面性。p.114

 物語の中の山姥の悲哀は人間存在そのものの悲哀か。

意外な展開、それは猿への嫁の裏切りであり、猿聟の殺害である。猿と爺の間でなされた交換は正当な等価交換であった。猿の側に責められるべき理由はないし、まして殺される理由など全くない。(中略 )猿のこうした姿には、嫁に気に入ってもらおうとする涙ぐましい努力が滲み出ている。間違いなく、この猿聟は心優しい聟なのである。そして、嫁もまた猿聟が心優しい聟であることを十分に承知していた。承知していたからこそ、その心の優しさに乗じて、猿を欺くことができたのである。娘は親の方を選び取る。p.150

 妖怪より、人間がひどい。

人間は異類を利用して幸福になることができる。と言う定式。p.156

 異類を下に見て、幸せの為に使う。この異類は何を指す?

蓑笠をつけることで農民身分もしくはその社会生活からの離脱を示そうとしたことにあったように思われる。一揆した百姓にとっての死装束。p.212

 シンボルとして、逸脱として、戦闘服としての蓑笠。

遅れている妖怪研究。妖怪というものとの関連の中で日本人の神観念を捉える方が日本の神観念のトータルな像をこれまでよりもうまく捕まえることができるのではないか。p.226

 この後まさかの妖怪学は百花繚乱となりましたが、いまだ自分たちとは別な迷信だと捉えているのは変わりないような。キャラクター消費だけ。アマビエも最たるもの。

日本の妖怪の特徴は、多くのものは恨みと言うものをもとにして出現してくる傾向がある。p.234

 ゴジラもそう。善だけではない。

柳田國男の進化論的な妖怪論では日本の多種多様の妖怪達をダイナミックにとらえることができそうにありません。p.236

 この後、熊楠も発見され、妖怪へのアプローチは多様化していく。柳田妖怪学もその時その時時世で評価は変わる。

妖怪の他者性。人間の意識における内と外が、その時その時によって常に変化しているので、妖怪もまたそれに応じて現れる場所が変動する。そういった妖怪空間の可変性は妖怪に対する社会カテゴリーの可変性と対応して捕らえられるのではないか。妖怪をそういう他者としてつまり幻想化された異人として考えることができるのではないでしょうか。p.244

 うわ、ここに「他者」という言葉出てたのか…!しかも「他者性」か…。

「異人」とは民族社会の人々にとっての社会関係上の「他者」である。これに対して「妖怪」とは人々の想像力によって生み出された「他者」である。同じ「他者」であっても、一方は社会的存在であり、他方は想像的存在であると言う相違を示しているのだが、両者は深い結びつきを持っている。というのは「異人」が人々の想像力を刺激し、それに幻想化と言う処理がほどこされれると「妖怪」が生じるからである。例えば「山伏」にそうした幻想化がなされた結果として「天狗」が生じたのであった。そしてさらにいえば、この「妖怪」に対して祭り上げという処理が施されたときに「神」が生じると言うことができるだろう。p.264

 そうなんですよね、異人も妖怪も社会も想像も、区切れないはずなんですよね。30年後の今の私に届けられたこの文章。この再読抜き書き作業やってて良かった…。

今はちくま学芸文庫に入ってます。

この記事が参加している募集

読書感想文

本を買って読みます。