見出し画像

サブカル大蔵経13八木誠一『パウロ・親鸞*イエス・禅』(法蔵館)

 八木誠一さんの『パウロ』(清水書院)に驚いて、その内容をさらに拡げた同じ著者のこの本を読みました。キリスト教側と仏教側、どちらからも間違い探しをされたり突っ込まれたりするであろう運命を背負う孤高のテーマ。漠然と抱いていた、真宗の一神教的、非仏教的な立ち位置。若干こちらも抱えながら読み入りました。

 聖書はイエス・キリストを、浄土仏教所依の経典は阿弥陀仏をそれぞれ証とするわけだから、これらの証言を絶対化するだけで両教の対話は困難となろう。接点はむしろ河波の指摘する、宗教者の実存における絶対者の自己開示と言う点に求められよう。p.10

 要するに自宗の聖域を不可侵のものとして設定したままで、聖域を犯されないものを学びとると言うことである。カトリックの側でよく見られるのは、同様に聖域を設定したままで、例えば座禅と言うことを瞑想の方法として導入する、という仕方である。私はこのような対話ないし理解を一概に拒否するつもりはない。しかしながら、このような関わり方も結局は真理問題まで深まらずにはいられないだろうと思う。p.16

 それぞれの核心の部分を丁寧に説示しながら両宗教を比較し、接合点の模索を貫く著者のアナーキーとも言える発想と、一方の安全安定した立場からの単なる知識の比較やつまみ食いではいけないという姿勢に、はやくも釘を刺された気分になりながら、著者に信頼感が生まれてきます。

 また、著者のパウロを軸にしたキリスト教説明のわかりやすさもさることながら、仏教、特に浄土教のシステムを解説していく言葉のチョイスが慎重かつ大胆で鋭くて、どうして仏教学者はここまでハッキリ言ってくれなかったんだろうと思うくらいでした。業界側の常識が、単なる思い込みな判断停止だったのでは?と心がざわつきます。

 キリストは主体であると同時に信仰の対象になっている。p.55

 阿弥陀仏は釈迦として現れて浄土を説く。p.58

 人間は自我の立場にひとたび死んで、自我よりもっと深い生命ーーパウロはキリストといい、親鸞は阿弥陀仏というーーから生かされるときに、初めてその正しいあり方が成り立つ。p.66

 ヨハネ福音書の中では繰り返し言及されるのだが、キリストは永遠のいのちであり、かつ光であると言う点でも浄土仏教の阿弥陀仏と比較されうるのである。p.71

 キリストは実体ではなく、働きのカテゴリーで捉えられている。キリストの働きは「キリストのからだ」としての教会の成就へと向かうのである。Iコリント12章p.98

 ここには微妙な事情がある。浄土真宗の教えは、この世で悟りに至るということではない。死後に浄土に往生してそこで悟りを開くと説く。中略 パウロの場合でも、まだ終末と神の国は来ていない、キリストは再臨していない、しかし既に信徒はキリストの働きに与っている。信徒には精霊が与えられている。私の中にキリストが生きている。教会はキリストの体である。既に我々はキリストの働きに与っている。しかし神の国はまだ現れていない。そういう既にとまだの緊張と似た緊張関係が親鸞にも見られるのである。p.127

 宗教的自我が語ると、救済の事実の裏面として、私は罪深い者だと言う告白が出てくる。つまりその告白は、救済の根拠は自我の中にはない、あくまで救済者の側にある、という認識の反面なのである。p.133

 自我の立場に立つということは常に危険なことである。p.133

 親鸞とパウロとを比べることができたのは、まず個人性を軸とする思考の面においてであった。p.230 

 私は八木誠一さんのおかげで、パウロという存在と出会えたことが最大の果報です。それにより、浄土真宗を神格化から防ぐことに繋がっていく気がしたからです。

 幻想と言うなら、おそらく宗教の中で最も幻想から自由な立場は禅であろう。キリスト教にも、それから浄土真宗にも、幻想がある。ただそれは全くの無意味ではない。p.269

 後半の禅の部分は正直よく読めませんでした。そこも何か自分が常識に捉われていることの証左かもしれないです。

 結局この本を読んで、違うとか、似ているだけで終わることを著者は最大限危惧しているように感じられました。学問的にはわたしはわかりませんが、その姿勢だけは大事に範としていきたいです。

画像1


この記事が参加している募集

読書感想文

本を買って読みます。