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サブカル大蔵経798中村元『東方の言葉』(角川ソフィア文庫)

講演会で中村元先生にお目にかかれた時、リアル生き仏だと思いました。

穏やかで、偉ぶらず、偏らず、学識と人格が両立してる方を目の当たりにしました。

しかし、中村先生の膨大な書物には、どれもある〈覚悟〉が溢れています。

宗教の通俗化とか平易化ではなくて、民衆の生活のことばをもって理解し表現することこそ、宗教への真実の道であるという強い確信である。p.4

〈生活のことば〉によって〈宗教への真実の道〉へいざなうという理想の前に頑強に立ち塞がる、難しい言葉を使いたがる研究者、派閥や宗派にこだわる学者や僧侶の存在があったと思われます。

そのスケールの巨きな悲しみと慈しみ。

本書は薄い文庫ですが、その執念ともいうべき慈悲が詰まっていると思います。原本が実業之日本社というのもかぐわしい。

インド原始仏教に比べて大乗経典や中国仏教の項が少なくて驚くかもしれませんが、でもそれが本来の仏教なのかなと。それ以降の発達は何だったのだろうか。人の願いが生み出した怪物なのだろうか。

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【バガヴァッド・ギーター】汝の専心すべきことは、ただ行動のうちにのみある。決して結果のうちには存在しない。行動の結果に左右されることなかれ。p.23 

 結果で判断するのではない、のか。

【法のことば】ただ謗られるのみの人、まだただ褒められるのみの人は、過去にもなかったし未来にも泣いてある現場にもいない。p.96

 いろんなことあるが、今を生きよと。

【相応部】婦人といえども、ある人々は実に男子よりもすぐれている。p.117インドへ来たギリシア人は「インドには婦人の哲学者たちがいる。」と、驚嘆の念をもってかたっている。p.118

 男子の教団と対等の地位が認められた女子の教団があったとされる原始仏教。

【中論】如来のそれ自体すなわち世間のそれ自体である。p.152空観はしばしば誤解されるようにあらゆることがらを否定するものではなくて、実はそれらを成立させ、実践道徳の体系を建設するものである。もしも事物が固定的に実在するものであるならば、われわれの実践修行が成立しえないこととなる、と。p.152

 この〈空観〉の積極的な性格については、梶山雄一氏の著作に詳しいです。

つみのひとびと み名をよべ
われもひかりの うちにあり
まよいの眼には みえねども
ほとけはつねに てらします 
親鸞

これは親鸞の正信偈のなかの次の詩を、近年、西本願寺で意訳したものである。
極重悪人唯称仏
我亦在彼摂取中
煩悩障眼雖不見
大悲無倦常照我
深夜、人がねしずまり、寂としてなにも音のきこえないときに、しずかに仏前にざして、沈思すると、このことばはわたくし自身を大きく包んで他の何事をもわすれさせる。
真宗では朝夕の勤行をはじめとして、儀式の際にはつねに正信偈をとなえるのであるが、儀式の一部として漢文で声をたててとなえるよりは、ひとりしずかに心のなかでくりかえすによいことばであると思う。
またこれは親鸞のことばであるが、浄土真宗以外の人々でも心にうったえるものであろう。
かれのことばを原文のままでなくて、訳によって紹介することに、異論があるかもしれない。しかし漢文のわからない人々、たとえばアメリカの邦人二世・三世のあいだでは、右の意訳によってとなえている。日本でもこれからの若い人々からは漢文はだんだんと遠のいてゆく。右のことばは親鸞がといたから尊いのではなくて、真実がとかれているから尊いのである。真実をとくものであるならば、訳であることになんの妨げがあろう。考えてみれば、そもそもインドでとかれたはずのゴータマ・ブッダのことばを、訳である漢文によってとなえるというのはおかしな話である。それがゆるされるなら、邦訳で体読することになんの不合理があろうか。p.182-183

 浄土真宗の盛んな島根県で生まれ育った中村元。その公正な視点を通して、この混沌とした情勢の中、浄土真宗が再発見されていくと思います。

仏教は主として感情的、芸術的なしかたにおいて民衆に感化をおよぼした。これに反して思想的な面においては比較的に感化がとぼしかったように思われる。p.197

 付録の「カナガキ仏教書」。漢文ではない和語の仏教の法脈。あらためてこの文章から感じるのは、中村元や連なる方々の「思想」という言葉。宗教でも哲学でもない言葉。思想。しかし、その言葉が一般の方や宗教者にとって〈自分とは関係ない世界の文章〉という壁をつくっているのでは?という懸念。中村元先生が一番心を砕かれた問題でもありますが。

奈良仏教のうちで民衆ともっとも接触の多かったのは、幾多の社会事業に一身をなげうってつとめたところの若干の律僧であった。/これらの人々は説教者ではなくて献身的な事業家であった。p.209

 日本文明史の中の律宗。

まだ十分な研究はなされていないが、特に徳川時代中期以降に浄土真宗の信仰が近江商人の商業活動の指導精神となっていた事実は注目すべきである。p.218

 日本経済史の中の浄土真宗。

夢窓国師はさらに『谷響集』二巻を著してそれを反駁した。この書は禅僧が浄土教をいかにみなしたかを知るためには重要な資料である。p.222

 すごく興味あります。他宗への目線や嫌悪や正しさが、自身の仏教の本義とどう整合されていくのか。宗派を線引きしていく中で、仏教とは何か、が問われる永遠のテーマ。でももう結集してもいいのでは。

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