サブカル大蔵経866山田雄司『怨霊とは何か』(中公新書)
怨霊となった崇徳院が、鎌倉から江戸までの幕府、武家政権を支えていたという大スクープ。日本の裏、闇の歴史の必読書か。
保元の乱以後、武家に政権が渡り、いまだに天皇のもとに戻ってこないのは、保元の乱で流された崇徳天皇の怨霊が原因であると言う説が、神道家の中から唱えられた。王政復古して幕府を支配下に置こうとするのならば、神霊を京都に戻して鎮魂しなければならないとして、現在の白峯神宮に崇徳院御社を建立することとなった。p.165
江戸幕府を倒した側が試みたことは、崇徳院を鎮めて、味方にすることだったー。
崇徳院は、時代に、担がれた。
政権はなんでも利用する。しかし…、
実は社会の方が怨霊を欲しているような。
現代の怨霊とは、何だろうか。
皇室か、靖國か、原発か、震災か、ウィルスか。
社会とは、人知の及ばない存在があって成り立つような。
怨霊は、消えないし、消されない。
仏様よりも仏らしいものかもしれない。
中国では、抜け出た魂がさらに髪の毛の中を通って体外へ抜け出すと考えられていたようで、そのため、毛先を露出させずに髷を結い、その上に頭巾や冠をつけて簪などで留めているのだとされている。p.4
まげは、魂が出るのを防ぐ目的。そういえば、力士の髷が乱れた姿の不穏さ。
逆に毛先を露出させた髪型は被髪と呼ばれ、それは幽霊の髪型であったり、巫や道術者など、霊魂と通じることができる人々の髪型だったのである。三国志演義に見られる諸葛孔明も、普段は髪を結っているのに対し道術を使うときは被髪となっている。p.4
マジカルな髪型の力。髪を結う力。
樹木に亡くなった人の霊魂が降臨するという考えがあった。続日本紀には祖先の墓や家の近くには樹木を植えて林とするようにと命令が下された。p.34
樹という命の集合体。
『今昔物語集』巻第27第3「桃園の柱」。霊の出現に対して経や仏像の力では鎮めることができず、武の力によって初めて鎮めることができたことを示している。p.50
武士の時代を告げる史料としての今昔。
7人の将門。北斗七星。将門の体は金属ではあるが、こめかみだけは肉身。p.110
将門、ギリシャかインド神話のよう。
神田明神は江戸っ子の氏神として信仰を集め、氏子は今でも将門調伏をになった成田山新勝寺には参詣してはいけないとされる。p.123
スリバチの丘の上の神田明神と、海から来た新勝寺。交わらない中央線と京成線。
崇徳院は実際には讃岐配流後、後生の菩提を祈念して和歌を詠むなどの静かな暮らしを送ったと思われるが、『保元物語』では、この世に恨みを持って五部大乗経を血書して、生きながらに天狗の姿となり、生霊となって平治の乱を巻き起こし、亡くなってからますます怨霊として猛威をふるったとしている。
ネット社会の噂と変わらないような。
これは後鳥羽院が置文で魔縁となることを誓い、生前から院の生霊が噂され、亡くなってたからますます怨霊の活動が顕著になった事と酷似している。保元物語が作成されたのは、このような後鳥羽院の怨霊が跳梁をしている時期だったので、これをもとに崇徳院怨霊の虚像が創造されたのではないか。p.148
後鳥羽からのフィードバック。演出された上皇たち
崇徳院怨霊の存在を決定づけたのは安元3年。九条兼実は仏法王法も滅びてしまう世の末の到来を感じ、天魔の所為であると記している。この時の火災は方丈記にも記されている。p.150
法然や親鸞にも影響を与えているはず。
非業の死を遂げた天皇に対して、徳の字のつく諡号を付すことによって鎮魂が図られた。こうしたあり方は崇徳・安徳・顕徳(後鳥羽)・順徳といったこの時期怨霊と化した天皇に対して共通して施された対応である。p.152
鎮魂の徳。
怨霊の鎮魂は、後白河院にとって自らの正当性を確認し、王権を維持していく上で欠くべからざる儀式。『吾妻鏡』には、源頼朝は7月に起こった大地震を崇徳院怨霊によるものと考え、後白河院に対して崇徳院の御霊を崇めるべきであることを申し伝えている。p.155
後白河が生きる理由。
能の世界では、世阿弥は怨霊と言う語の代わりに幽霊を用い、恐ろしくない幽霊を創作した。そして他方面においても次第に怨霊と言うことよりも幽霊が用いられることが一般的となり、それとともに怖い幽霊も誕生した。幽霊に対しては国家による対応はなされず庶民の間で恐ろしいものとして江戸時代以降認識されていく。p.178
日本最大の発明家・世阿弥。
時宗においては戦場において陣僧として活躍し、亡くなった人々に対して敵味方関係なく十念を授けて、極楽浄土に赴かんことを祈念したことが知られている。p.187
時宗の弔い力。全国時宗化。
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