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サブカル大蔵経970中野孝次『ヒエロニムス・ボス「悦楽の園」を追われて』(小学館)

私の初めての海外旅行はベルギーでした。『フランダースの犬』の舞台、アントワープの大聖堂でネロのお参りをするために訪れました。ルーベンスの絵を見て、その流れでベルギーの各地をまわり、こってりした北方絵画と呼ばれる作品にまみれる中、ボスと出会いました。

正直言って、初めのうちはぼくもそういった宗教に興味を持つことができなかった。大抵は同じ画題で、ありがたそうなお聖人様やキリストが描いてある絵は抹香くさいだけで面白くもなんともなかった。/そういう神を讃える絵の群の中に、このヒエロニムス・ボスという画家の絵を発見したときは、だから実に異様な気がした。p.31

僭越ながら私もほぼ同じ体験でした。

ボスはまずそういう理解できぬ画家として、ぼくの前に現れたのだった。p.15

私も当時、ボスの異様さを面白いと思いましたが、「そういう絵」として、どこか、「わかったつもり」になっていました。

あらためて中野孝次さんの手引きで鑑賞する機会をいただきました。そこには、根源的な子供の落書きのような、それでいて非常に現代的な、空前絶後のボスの筆遣いがありました。

中野さんの本は、『ハラスといた日々』や『清貧の思想』は読んだことがありますが、美術作品についてこういう著書があるのは知りませんでした。先輩の狐野さんのお宅で見つけて、譲り頂いた一冊です。

便器の下に青い円球が吊され、その中に魔王の排泄した人間が落ち、さらにその下の穴に落下しようとしている。そこには尻から金貨のウンコを出している者、老女に介抱されて血だかワインだかのゲロを吐いている者、穴の底に沈んだ者が見える。p.156

あらためて、ボス、すごくない?それを浮かび上がらせる中野孝次の筆力。

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左上には、鋭利なナイフを載せた巨大な耳の車(なんという発想だろう)が、裸の人間たちを轢き殺しているp.24

 メタファーより格上の迫力。読みながらおかざき真理『阿・吽』を連想しました。

鳥の化け物やいろんな怪物があわれな罪人をひっぱって輪舞している。p.27

 見たら確かに踊ってました。サムネイルにアップした部分です。神は細部に宿る。ボスの絵画には音楽もあるような。

ブリュージュでもゲントでもアントヴェルペンでも、かつてのネーデルランドの繁栄ぶりは大変なものだったなと痛感した。p.31

 現在の国境にはない、北欧州の最盛期。ギリシャでもイタリアでもフランスでも英国でもオーストリアでもドイツでもない、北方ルネサンス。ベルギーやオランダがハプスブルク家を介してスペインとつながる越境感覚。

彼らはたがいに干渉しない。からだとからだが触れ合うほどに密接しているのに、他人には関心がないのかみんながてんでに自分のしたいことをしているだけだ。p.145

 スマホ文化を予言している現代性。

つまりボスは生涯に1度だけ、「悦楽の園」と名付けられたこの画面で、罪にとらわれる以前の人間の無垢の夢を描いてみせたのだ、というのがぼくの達した結論だった。p.149

この部分が本書のクライマックスでした。人間の定めた善悪を超越した解放感。悪夢の中のルネサンス。

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