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サブカル大蔵経464木村聡『消えた赤線放浪記』(ちくま文庫)

旭川、釧路、帯広、札幌月寒、南六東三、苫小牧、函館、青森、秋田、盛岡、塩竈、郡山、小名浜、宇都宮、神栖町、横浜曙町、黄金町、横須賀、吉原、富山、新潟、金沢、名古屋太閤通口、中村、渡鹿野島、飛田新地、五条楽園、大和郡山、福原、米子皆生温泉、下関、高知、松山、高松、徳島、若松、小倉、久留米、唐津、熊本、鹿児島。

消えつつある貴重な風景と、そしてそこに暮らす人の言葉。

相手と著者の絶妙な距離感が心地よいし、あとをひく余韻を漂わせる。よくぞ取材してくれた、そんな貴重な労作。

私も旅してた時、古い街並みが好きだったので、遊郭跡を探訪したことがあります。タイル装飾はその可能性が高いとか、さまざまなサインが建物にありました。

福井県の小浜を歩いたとき、遊郭跡っぽい建物を見つけ、近づくと三味線の音が聴こえてきてびっくりしたことを覚えています。あそこ、現役だったのかなあ。

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冒頭から旭川紀行。何百回通っている場所なのに、ただ通り過ぎていました。地元の街でも異界はあるんですね。

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遊郭が置かれていた中島町にほど近い、旭川中常盤町のスタンドバー。積雪に備え入り口が高い位置に設けられている。p.0

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旭川市内には昭和33年に売春防止法が施行される直前、4カ所の特飲街(特殊飲食店街=赤線)があった。戦前まで遊郭が多く置かれていた中島地区、8条通7丁目にあったためハチナナと呼ばれた中央地区、旭川四条駅に近い二条地区、そして旭町地区。p.16

 今でもこの4ヶ所、名残はありますね。下の写真は、9月に撮ったものです。周りの建物は取り壊されていて、稲荷神社だけが残っていました。

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明治30年頃、遊郭はまず西郊外の曙町に定められたが、洪水に見舞われることが多く、移転の話が持ち上がった。当時旭川は陸軍の軍都で兵営に近い中島地区が候補に上がったが、文教地区でもあったため、町長をはじめとする有志が反対して鋭く対立。中央にまで陳情重ねた結果、全国紙が賑わう論争に発展した。最終的には中島地区に移転が決まった。飛田遊郭などの反対運動のテストケースとして、軍と慰安施設の関連としても語り継がれた。p.21

 そんな騒動、運動があったとは…。

中島遊郭には全盛期30数軒、200人の女性がいたとされる。赤線移行後は、18軒に55人の女性。p.22

下の写真も中島遊郭の跡地にある謎の空間です。旭川市立病院の近くです。

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札幌南6条東3丁目。ホテルを出る時間になっても料金のことを言い出さないのでこちらから切り出すと、あーまた忘れるところだったと言う。p.51

本書を初読した一昨年頃、札幌に用事があった時、あえてこの辺りのホテルに泊まりに行きました。元ラブホテルで現在はビジネスホテルとなっています。すすきのには30年来何度も訪れていますが、このあたりの空間は初めて知りました。

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素敵なホテルでした。

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塩竈の盛場、尾島町には町の規模からして考えられないほどの数のスナックがある。バレーボール部に所属していたと言う彼女は礼儀正しく、言葉遣いもどことなく体育会系的で、動作のひとつひとつがキビキビしている。背中を流してくれる時なども、「熱くないッスか」と男の子のような口調で聞いてくる。p.95

 塩竈には行ったことないですが、木村元彦『蹴る群れ』で描かれたサッカーの塩竈FCは印象深いです。幻想高まります。

渡鹿野島のはしりかね。舟遊女。遊女が針仕事など身の回りの世話をしたと言う意味である。島の中では車はほとんど役に立たない。p.194・196

 鳥羽の遊女〈ハシリガネ〉。矢野健一『三重県謎解き散歩』参照。

京都五条楽園。オレンジ色の着物が目に飛び込んできた。奴は型通りに三つ指を吐くと、リカです。よろしゅうお願いしますう、と、あいさつした。こちらこそよろしくお願いしますと頭を下げると、そんなあ、かしこまらんといて。ようおこしやしたなあ。p.220

 五条楽園の話は父の世代の方々からは聞いたことがありますが、平成以後の世代からは聞いたことがないです。まだ行ったことありません。いつか歩いてみたいです。




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