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サブカル大蔵経560井上靖『天平の甍』(新潮文庫)

小説を読んで久しぶりに感銘と余韻を感じました。身につまされました。旭川の井上先輩、ありがとうございます。

わたしたちの知っている仏教とは何か。

そして、本を書き写すということは何か。

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経典の語義の一つ一つに引っ懸っている日本の坊主たちが、俺には莫迦に見えて来た。きっと仏陀の教えというものは、もっと悠々とした大きいものだと思うな。p.31

 難民という〈現場〉を見た戒融の言葉。

第二船には雑多な人物が乗った。/婆羅門僧菩提僊那/波斯人李密翳ら賑やかな顔触れであった。p.49

 第九次遣唐使帰国。インド人やイラン人が日本に来て、大仏開眼供養にも立ち合っていた。奈良は国際都市だった。

真備、玄昉が無表情であったように仲麻呂もまた無表情であった。p.60

 なぜか著名な遣唐使たちは一様に…。これは、中国という大陸を踏んだ者だけが感じる何かの刻印なのでしょうか。

皺の深く刻まれている顔には老いの気難しさだけが目立って来ていた。生涯の大部分は異国にあって写経の仕事に過ごしてきた人物の、当然行き着くべきところへ行き着いた姿といった感じだった。/普照はふと、この老僧は日本へ帰って何をするのであろうかと思った。僧侶としての何の特殊な資格も持っていなければ、一つの経典に対する特殊な知識も、恐らく持っていないであろうと思われた。p.150.179

 書写という行為の行き着いた姿。思想よりも説法よりも書写こそ役目という覚悟。

普照が第三船に乗り込んでみると、業行は一人船尾に近いところに座を占めて、自分の周囲に何十個かの写経の詰まった箱を配していた。というより箱と箱とを積み重ねてある僅かの隙間に、業行は辛うじて自分の座れる僅かの場所を作っているといった感じであった。p.174

 自分の姿のようでした。そして、映画『薔薇の名前』でショーン・コネリー演じるウィリアムが最後に本を抱えて持ち出すシーンを想起しました。

「私の写したあの経典は日本の土を踏むと、自分で歩き出しますよ。私を棄ててどんどん方々へ歩いて行きますよ。多勢の僧侶があれを読み、あれを写し、あれを学ぶ。仏陀の心が、仏陀の教えが正しく弘まっていく。仏殿は建てられ、あらゆる行事は盛んになる。寺々の荘厳は様式を変え、供物の置き方一つも違って来る」p.179

 書写の果て。シルクロード、仏教伝来、すべて、こういった人たちの無表情の業の仕事の中に、今目の前にあるお経本、本堂のお飾りがある。

普照は長い間そこから立ち去り得ないで、その写経所の隅に坐っていた。p.191

 名シーン。文学の力を感じました。

だが、現在われわれがしている仕事といえども、結局徒労ではないのかという疑惑は、つねにつきまとう。/彼等留学僧たちの心事は、またわれわれの心事でもあるのだ。(解説山本健吉)p.226

 歴史と現代が、留学ということや、仕事ということを通して結びつく、文学の力。

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