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サブカル大蔵経1006上田さち子『修験と念仏』(平凡社)/碧海寿広『考える親鸞』(新潮選書)

現在の私と親鸞を結びつけようとする時、その直結さは危ういんだと、親鸞以前と以後の流れを伝えてくれたこの二冊が教えてくれました。

親鸞研究や本願寺などの教団をメインとすれば、それ以外の法脈を辿ることは、今まではサブ扱いでメインではなかったのかもしれません。しかし、ここ数年その動きが変わる好著が出されています。

民衆にとって、教義は二の次である。大切なことは、そうせざるをえない民衆の心情をうけとめて、そこから考えることのはずである。p.225

上田さち子さんの著作での白眉と感じました。この辺り、五来重さんや、それらを再評価する碧海さんとも通底するような。

法然の認識は、親鸞だけに結果するような狭いものではなかったのである。p.240

念仏は浄土宗や浄土真宗などの教団の専売特許ではないですもんね。

上田さち子さんの『修験と念仏』により、私たちの念仏は、親鸞の念仏、真宗の念仏ではなく、空也の、山の、修験の念仏なのか?と思わされました。

そして、空也が街にやってきたー。

本書は、空也以前、親鸞前後の日本の念仏をあきらかにする中で、修験道を潰した国と本願寺への怨念が伝わる書物でもありました。それを背負う必要も感じました。

何故、山の聖が念仏を唱えるのか。言葉を変えると、何故、他ならぬ山において聖と念仏が結びつくのか。p.55

 念仏は山からやってきたー。以前父から真宗の伝播は立山信仰、白山信仰と結びついていると聞かされたことを思い出します。弁円の挿話のような修験道と真宗の関係。真宗が飲み込んだのか、真宗に飲まれながらも修験の念仏は門徒の念仏の中で生きているのかもしれません。
 
その時旧仏教が成した現実的な問題提起はどこへ行ったか。/仏菩薩に依存するのではなくて人間同士の連帯による構成の保障であった。p.164.193

社会性を捨てた鎌倉新仏教に対する叡尊の光明真言。天台に還る融通念仏、時衆の過去帳、仏光寺派の名帳絵系図。現在の永代経掛軸記入や過去帳記入もその系譜か。

親鸞がどのように否定し、善鸞を義絶しようと、善鸞が親鸞の信仰にふくまれる本覚思想を感知していたことはまちがいないと思われる。p.247

 
善鸞の天台本覚を斬った本願寺。

吉野の真宗は、かつて覚如に追われた存覚を守り、現場の宿敵の高田派専修寺真恵筆六字名号を今に持ち伝えているにもかかわらず、蓮如に対して反対の動きを示さなかった。p.257

 親鸞の血統の攻防。吉野の真宗。地域の念仏。蓮如上人のすさまじい政治力をもっと知りたくなりました。

檀家仏教には、山岳宗教のような自力の呪術信仰を排除した、より観念的・受け身で確実に極楽往生が約束されている、実質的に易行・他力の系統の宗教がふさわしかったのではないか。徳川幕府の農民支配にとっても、そのほうが好都合だった。それが真宗をはじめ鎌倉新仏教が檀家仏教・葬式仏教化して近世宗教として定着した理由だと考える。p.259

真宗門徒は国と教団に〈家畜化〉されたのか…?

そして、碧海寿広『考える親鸞』は、親鸞以後のわたしたちについて丁寧に伝える。
著者の碧海さんの筆致や姿勢は本当に優しい。本書の惹句の〈「己の正しさを疑わない」言説ばかりの現代に必読の親鸞論!〉は、同世代の論客学者たちに向けて発せられている気がしました。

日本人、とりわけ近代以降のこの国に生きた人々は、なぜ親鸞の思想を必要としたのか。/本書は、親鸞が何を教えたかという、親鸞自身の言葉よりも、むしろ親鸞以後を生きてきた日本人が、親鸞と共に何を考えてきたのか、この点にこだわる。p.229.24

中世に法然や親鸞といった名僧たちが世に出たからではなく、ヒジリ(俗聖)や毛坊主たちの目立たぬ仕事の積み重ねがあったからこそ、念仏の習慣が日本に根付いたのである。p.36

この点、上田さち子さんの著作とも共通した出発点です。民衆側にとっての念仏。

こうした内面主義的な親鸞の受容は、清沢に続く数多の仏教者や知識人の間でも、広い範囲に及ぶ影響を与えていく。p.52

清沢満之的真宗は時代の突然変異なのか。大谷派だけでなく、この影響下に私もいるのかもと思いました。それは偏りなのか?

法然や親鸞の説いた仏教を、キリスト教の観点から再評価する効果も持ち得ていた。p.131

親鸞を後押しする日本のキリスト教の存在の大きさを本書では伝えてくれます。

自力を超えた他力に救われようと願えば願うほど、他力によっては救われない。亀井が親鸞を読み解くなかで発見したのは、こうした人間の心の逆説的な構造だ。p.137

亀井勝一郎。函館出身。親鸞は真宗僧侶以外の存在に解釈され、色つけられていく。僧侶だけでは持て余されていたのだろう。その影響に私もいることを知る。

同書の大きなテーマは、宗教の解体だ。/まわりの人々が素直に信じていることを、ひたすら疑い、考える人。これが吉本隆明という思想家の中に組み込まれた、親鸞の原像である。p.205.216

まず、目の前の、手のひらの仏教を疑う。吉本隆明『最後の親鸞』は親鸞を通して〈私の宗教性〉を撃つ。

「考える親鸞」は、本願寺の存在という現実と、本願寺の否定と言う理想、この両方に基づき成立してきたのだ。p.170

 この一文が私には圧巻でした。

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