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サブカル大蔵経773谷沢明『日本の観光』(八坂書房)

期待していた昭和の観光パンフレット鑑賞本ではありませんでしたが、日本の観光を知る上で必須な書籍に出会えました。

クーポンと新日本八景と外国人観光客。

つまり、旅行代理店と、情報誌と、インバウンド。

その呪縛・主導から抜け出ていない現在、新しい〈観光〉が生まれるだろうか。

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善光寺参詣は、やがて日光寺社参詣とセットになり、さらにこれに横浜港が加わる。p.10

 宗教団体の団体参拝は観光の原点なのかもしれません。浄土真宗でも今その計画をしています。帰りに横浜港のようなモダンな観光が今でも加えられる。

「デパートのあるところ、必ずビューローの案内状あり、というイメージになったとさえいえる」と、日本交通公社の社史に誇らしげに記された一文がそれを象徴する。観光旅行が1つの消費商品となった。p.17

 子供の頃、なんでデパートにJTBがあるのかなと疑問に思っていました。それが日本の観光の始まりだったんですね。余暇の消費。商品としての旅行の誕生。

クーポン式遊覧券こそ、昭和初期の観光旅行ブームに火をつけた存在といえよう。併せて、多くの観光地を短時間で回遊する日本人好みの「周遊型」観光旅行の需要を呼び起こす仕掛けでもあった。p.17

クーポンが旅行スタイルを決定づけた…。周遊というのは、あと一つおまけみたいな、お得感があるんでしょう。そこに寄って欲しい観光地と旅行代理店との暗黙の取り引きとかがあったのかな。

昭和初期の北海道の有名遊覧地として、大沼公園、定山渓、洞爺湖・支笏湖・登別温泉一帯、層雲峡・然別湖を含む大雪山国立公園、阿寒湖・屈斜路湖・摩周湖・川湯温泉などを含む阿寒国立公園を挙げることができる。p.27

 一昔前の湖中心主義の北海道観光。昔から謎でした。今は、広い北海道のアイコンとして、道路や畑が発見されました。

「交通の発達、文化の進歩は、松島を〈天下の松島〉として、その名声を日本全土にあまねくしたのであるが、しかもその反面、世人の松島鑑賞は甚しくスピーディとなり、真の松島を観ることなく、僅かにその皮相の反面にのみ触れて事足りる傾向が多い…」(仙台鉄道局発行観光パンフレット「松島と金華山」)p.65

 ガチなパンフレット。たまりません。今もこのくらい攻めてほしい。私も昔遊覧船で一時間くらいしか滞在しなかったけど…。松島ってすごいのかな?

花巻温泉は「日本新八景」選定(昭和2年)において、第二位熱海の約百万票を引き離し、二百万票を超える圧倒的多数の推薦票を得たのである。投票結果発表の翌日、花巻温泉では祝賀提灯行列で非常な盛り上がりをみせた。ところが、その後の識者審査により、結果的には第10位の別府(約48万票)が入選することとなった。その無念さが、この一行に滲み出でいる。p.77

 今の花巻温泉の状態を見ると、識者の慧眼なのかな…。日本新八景は、調べてみると、各情景ごとに、室戸岬、十和田湖、雲仙岳、木曽川、上高地、華厳滝、別府温泉、狩勝峠が選ばれていました。

明治期に入ると、横浜の居留民をはじめとする外国人観光客が箱根を訪れるようになった。明治十年代、外国人専用のホテルが建設され、老舗旅館も洋館を増築して外国人を積極的に受け入れていく。p.115

 もともと街道筋の宿場街ではなかった箱根の努力。

「小田原急行鉄道沿線名所案内」(昭和2年吉田初三郎画、観光社)p.168

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昔、観光パンフレットに必ず女性が表紙を飾っていた時代があったのですが、その走りかな?もう少し個人的に調べていきたいと思います。

スキー地として発展を遂げるためには、温泉の存在が大きいことを物語る。p.209

 飯山から野沢温泉への移行。飯山の哀愁好きです。

とくに明治後期、ハルピンやウラジオストックからロシア人が来るとともに、東シナ海を隔てた中国から来訪する外国人避暑客が多くなった。p.269

 長崎雲仙の外国人観光客誘致努力。今も同じ九州でも、佐賀空港がLCCでアジア観光客の誘致に成功していますが、昔からなんですね。しかもスケールが大きい。今の雲仙はどうなのかな。

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