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サブカル大蔵経768曽我量深『歎異抄聴記』(東本願寺出版部)

曽我量深という存在は浄土真宗を撃つのか再興するのか。お東さんの研修会に参加すると必ずお名前が出て引用され、指針であり、鎖の印象でした。お西にとっては、まだ見ぬ強豪外国人レスラーの雰囲気です。お西から曽我量深を読み直すというのも面白いのではと思います。

真宗は今日まさに滅亡せんとしている。今日こそ再興のときであり、また再興できる時である。p.212

本書を読んでみて、ここまで狂おしいほどに真宗を考えることにまず最敬礼。文体もエキセントリックだけど、ある意味真っ当な読み方なのかもしれない。

私の父は法蔵菩薩という著書を所蔵して、評価していました。

浄土真宗は法蔵魂に目ざめることであり、/そのとき世界中、法蔵菩薩にみちみちている。/その法蔵菩薩が互いに手を取って浄土真宗を再興されるのであるという確信がでてくる。p.193

法蔵魂!

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真宗再興の精神を『歎異抄』から感得したるわれわれp.(序)

 〈感得〉というワード。歎異抄を媒体として真宗再興を説く。

悟りということと教えということの関係は、悟りがすぐ教えにはならない。p.(改版の序)

 悟りは釈尊ひとつ。その教えが多様性を持ち、歴史を生み出していく。

異なっているのは他人であるようにみえるが、それだけではないとわたくしは思う。その異なりは自分である/すなわち編者の唯円も、異なりは自分にあることを痛感していたとわたくしは思う。p.13

 誰でもない、わたくし。

行は背景である。歴史的背景である。行は歴史的現実である。p.37

 言葉を再検討することの大切さ。

今まで話してきたところは、すべて問題である。解釈はすべてお聖教にある。p.107

 大前提だが、その解釈がそれぞれ自分に引き寄せていないだろうか。

わたくしは、とおおせられず、親鸞は、と、いよいよたいせつなことを述べられるときになると、ご自身の名前を呼びあげられている。p.130

 名のりかぁ。

ここにいう悪人は、あいつは悪人だという悪人ではない。わが身こそ悪人であるという悪人である。p.189

 我が身を示す言葉。悪人。有り難し。

そうかといって外国を崇拝するといって、たいせつな大和心までもおきわすれるというおろかな民族ではない。p.294

 支那印度崇拝に対する国粋チラリズム。

徳川時代の宗学を新宗学とせば、覚如・存覚上人ころの宗学は古宗学という。/教行信証は宗義であり、ほかのものはすべて宗学である。p.332

 御文も歎異抄も宗学。

この差別語・差別表現の問題にしても、ほかならぬ真宗者・真宗教学者に見えなかったとはどういうことなのであろうか。(西田真因氏の解説)p.511

 曽我の汚い表現は、河村市長を想起。

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